2 / 3
実践編
しおりを挟む
今宵は王家主催の舞踏会。しかし、きらびやかに着飾った紳士淑女たちは皆困惑気味だった。王太子であるクリス殿下に寄り添っているのが、正式な婚約者であるラングレー公爵家のアリシアではなく、ウィルシャー子爵家のエリサ嬢だったからだ。
以前から、二人が親密であるとの噂は流れていた。しかし、こうもあからさまな振る舞いに出られるとは、さすがに誰も予想はしていなかっただろう。
アリシアの心中は察するに余りある。
そして、楽団の演奏が途切れたのをきっかけに、殿下は高らかに宣言なさった。
「アリシア嬢、君との婚約を白紙に戻す!」
それに対し、アリシアは落ち着き払った態度で応じた。
「恐れながら殿下、理由をお聞かせいただけますでしょうか」
「決まっているだろう。君の異母兄であるドノバン=ラングレーの不行跡が目に余るからだ!」
会場の皆がざわついた。
たしかに、ドノバン=ラングレーという人物は色々と問題がある。が、その行状を詳しく知っている者は一握りだし、しかもそのことを盾に取って異母妹との婚約を破棄するというのも、少々行き過ぎなのではないか、と皆思ったことだろう。
当のドノバン=ラングレーもこの会場にいた。
ちらりとそちらを窺うと、まさしく鳩が豆鉄砲を食らったような表情を浮かべている。
それはそうだろう。
まさかこんな場所で吊し上げられるなどとは、夢にも思っていなかったはずだ。
「まあ、何を証拠にそのようなことを仰るのでしょうか」
反論するアリシアだったが、その態度や声は、どこか芝居がかっているようにも見えた。
「聞きたいというのならば聞かせてやろう。まず、公爵領内は言うに及ばず、王都においても、平民身分の女性たちに片っ端から手を着け、子供が出来ても金で黙らせてきた、というのはいくつも証言が得られている。何なら、その女性たちの名前を具体的に挙げようか?」
そう仰りながら、殿下がドノバンに冷ややかな視線を向けられる。ドノバンは顔を真っ青にしながら、懸命に抗弁した。
「そ、それらは全て合意の上のこと。子供を公爵家に迎え入れるわけにはいかぬ、という点についても、女たちは納得しております!」
いやいやいや。とても「合意」などと呼べるものではないはずだし、納得もしていないだろうと断言できるのだが?
「ふむ。被害者たちの証言とは大きく異なるようだが、百歩譲って合意の上だとしても、だ。相手が人妻となると、見過ごすわけにはいかぬな。ホワイトロック地区に住むトーマスという男の妻、ナンシー。知らぬとは言わせぬぞ」
「ぞ、存じま……、いえ、仰せの通り、そのナンシーなる女性は存じております。し、しかしながら、私は独身だと聞いておりました!」
「ほう、そうか。当人は、夫の目の前で手籠めにされたと証言しているが?」
想像以上の非道ぶりに、周囲の紳士淑女たちも皆眉を顰める。ドノバンにエスコートされていた女性――ビリガン伯爵家のご令嬢が、凍り付いたような無表情のまま、すすすと離れていった。
ドノバンは必死の形相で、
「そ、そのような! 殿下は、平民の戯言と、公爵家の跡取りである私の言葉、どちらをお信じあそばすのですか!」
「身分賤しき者どもの言葉など信じるに値せぬ、か。まあよかろう。この件は貴族院にて審議させる。次に、そなたが賭け事にのめり込み、複数の商会から多額の借金をした上、それらをことごとく踏み倒している、という件だ」
「お、お言葉ですが、踏み倒しているなどとは心外でございます。当然返済はいたしますとも。確かに、返済期限を過ぎてしまっているものもございますが、期限の延長には快く応じてもらっております」
虚勢ではあるのだろうが、ドノバンが胸を張ってそう答えると、殿下はおもむろに一枚の書面を取り出された。
「そうなのか? だが、この証文を見ると、返済期限は一年以上過ぎていて、期限延長に関する裏書も無いようだが?」
まさか、借用証文が殿下の手に渡っているとは思わなかったのだろう。ドノバンの顔から冷や汗がしたたり落ちる。
「そ、それは……。コリン商会のものでございますか。た、確かに裏書などは残しておりませんが、間違いなく返済期限は猶予をもらっております!」
「そう言われてもな。商人の世界では、口約束は証拠にはならぬぞ。それで、そなたへの貸し付け債権を譲り受けた商会の者が、先日返済を求めに行ったらけんもほろろに追い返されたと申しておった」
「先日……? そ、そう言えばこの間、借金を返せなどと借りた覚えもない商会の者が言ってきたので、追い返しましたが……。確か、ウィルシャー商会……」
そう言いかけて、ドノバンははっとしたように殿下の傍らの女性を見た。
エリサ嬢の実家ウィルシャー子爵家は、家格こそ低いが、商売で財を成している、いわゆる新興貴族だ。
それにしても、ドノバンの借金がウィルシャー商会の手に渡っている、というのはいささか話が出来過ぎているような……。
「そなたの借金、全部合わせて金貨二,八五三枚。現在すべてウィルシャー商会が持っておってな。返済が滞って困っていたのだそうだ」
「そ、そんな! 大体、証文を勝手に他人に譲るなど無効です!」
「おいおい、何を言っている。譲渡を禁じる特約が付いているわけでもない債権の売買など、商人の世界では日常茶飯事だぞ」
商人の世界の常識とやらはよくわからないが、殿下がそう仰るのであれば、そういうものなのだろう。
「まあ、ラングレー公爵家にとってみれば、たかだか金貨三千枚程度、大した金額ではないとは思うのだが、昨今、貴族家の財政事情も色々あろうしな。とはいえ、わがキャメロン王国の支柱たるラングレー家がたかだか三千枚の借金も返せぬとあっては、近隣諸国の侮りを受けかねん。なので、僕が立て替えておいたから安心しろ」
「そ、それはありがとうござ……いま……す……」
安堵の表情で礼を述べかけて、ドノバンは凍り付いた。
公爵家の跡取りともあろう者が、借金を返済できず、こともあろうに王太子殿下に立て替えさせたなど、体面を何よりも重んじる貴族社会にあっては、恥さらしと呼ぶのも生温い。そのことに思い至ったのだろう。
おおかた、中小の商会に対し、公爵家の威をもって泣き寝入りを強いるつもりだったのだろうが、こんなことなら期限内にきちんと返済しておくべきだったな。自業自得だが。
と、そこで、沈黙を保っていたアリシアが跪き、王太子殿下に詫びを入れた。
「殿下、誠に面目次第もございません。お立て替えいただきました金子は、至急お返しいたしますよう、ラングレー家の名誉に掛けてお約束申し上げます」
その言葉は、殿下に対する詫びというよりも、公爵家の名誉を傷つけた異母兄に対する糾弾という方が適切だろう。
異母妹にあてこすられて、ドノバンの顔が赤くなったり青くなったりとめまぐるしい。
「ああ、気にするな。大した金額ではない。しかし、ドノバンがラングレー公爵家の跡取りとして相応しくないということについては、納得してもらえただろう」
殿下の言葉は、アリシアだけでなく、この場の紳士淑女皆に向けたものだったようだ。
ゆっくりと周囲を見回す殿下に対して、異議を唱えドノバンを擁護しようなどという者は――当然のことながら――誰もいなかった。
「そういうわけでアリシア嬢。そなたを妃に迎えられぬ理由は理解できただろう。そなたには次期ラングレー公として、この国を支えてもらわねばならない」
「そ、そんな。私のようなものが公爵位を継ぐなど……。我が家には異母弟もおりますれば」
「リチャードか? あの子はまだ十一歳だろう。なかなか聡明な子ではあるが、そなたを差し置いてラングレーを継がせる理由にはならぬな」
どこか芝居がかった調子で、殿下とアリシアが会話を交わす。
最初は、失礼ながら子爵令嬢との色恋に溺れた殿下のご乱心かと思ったりもしたのだが、何のことはない。これは殿下の後ろ盾によるラングレー家の下剋上ではないか。
しかし、これで殿下とアリシアとの婚約は、白紙に戻されたわけか……。
紳士淑女たちも、事情は察したようだ。とはいえ、ドノバンに味方しようなどという酔狂者がいるはずもなく。これで茶番は幕切れか――と、思われたのだが。
「ちょっとお待ちいただきたい!」
いささか舌足らずな声が、広間に響き渡った。
「アリシアおね……、アリシア嬢の兄君がろくでもないお人だということは理解できました。しかし、だからと言って、アリシア嬢との婚約を破棄するなどとおっしゃるのには、納得がいきかねます!」
声を挙げたのは、キャメロンの隣国であるファランクス王国の第二王子・ルイス殿下だった。
弱冠十二歳のルイス殿下は、現在我が国に留学中で、ラングレー家の第三夫人の子であるリチャードと仲が良く、その異母姉であるアリシアのことも、「アリシアお姉様」と呼んで慕っておられる、という話だ。
一本気な少年の異議申し立てに、王太子殿下も持て余し気味だ。
「いや、ルイス殿、これはですね……」
「大体、正式な婚約者がおられるにもかかわらず、他の女性と浮気なさるなど、いかがなものでしょうか。アリシア嬢との婚約を破棄なさったのは、そちらの女性とご結婚なさるためということでしょうか?」
会場の皆から、声にならない溜息が漏れる。
煎じ詰めればそういうことだと内心では思っていても、誰も口にはできなかったことを、ルイス殿下はずばりと突いてしまわれた。
「ルイス殿下、お気持ちはありがたいのですが、クリス殿下のご判断はラングレー家の、ひいては我がキャメロン王国のためを思われてのことにございます。どうかご理解ください」
アリシアが横から助け舟を出してきたが、ルイス殿下はかぶりを振って、
「アリシアお姉様は優しすぎます。そうだ! だったら僕が、お姉様を妻に迎えましょう!」
いきなりとんでもないことを口になさる。
我がキャメロンを上回る国力を有し、これまでの歴史においても色々因縁があるファランクスの、しかも王位継承権を巡って異母兄弟と水面下で争っている第二王子と、我が国有数の貴族であるラングレー家の縁談など、揉め事の種にしかならないだろうに。
口を挟める立場にないこの身がもどかしい。
「は!? ……いえ、失礼いたしました。ルイス殿下、お気持ちは大変ありがたいのですが、そもそもの問題として、あなたもお国に婚約者がいらっしゃいますでしょう?」
諭すようにアリシアが言う。
するとルイス殿下は、何の迷いもなくこうおっしゃった。
「彼女との婚約は破棄します! 僕はこの国であなたと出逢って、真実の愛に目覚めたのです!」
わちゃー、という声にならない声が聞こえたような気がした。
子供の前でお手本にならぬようなことをするものではない、という教訓だろう。
皆、殿下に対してあからさまに非難がましい視線を向けることは憚りつつも、何とかしてくださいよと言わんばかりの空気が会場を覆う。
「あー。その、ルイス殿……」
クリス殿下が何かおっしゃりかけたのを遮るようにして、アリシアが言った。
「ルイス殿下。婚約というものは、家と家との間で交わされた約束事。むやみに破棄してよいものではありません。悪い大人の真似をなさってはいけませんよ」
「あー、うむ。その通りだ、ルイス殿」
悪い大人が真面目くさった顔を保ちながら相槌を打つ。
会場の皆は、はらはらするやら笑いを堪えるやらで、何とも形容しがたい雰囲気だ。
「しかしアリシアお姉様……」
なおも何事か言い募ろうとするルイス殿下だったが、アリシアは静かに微笑みながら、
「それに殿下、誠に申し訳ございませんが、私にも心に決めた殿方がおりまして」
そう言って、視線をこちらに向ける。――会場の警備を担当する近衛騎士の一人である私へと。
アリシアの視線につられて、両殿下をはじめ、会場内の全員の視線が私に向けられた。
え? え? ちょっと待ってくれないか。
「ジェラルド=ミラン――ミラン伯爵家の令息で、近衛騎士団きっての剣の達人です。元々、幼い頃から親しくしていた間柄でして。王太子殿下とのご縁談が持ち上がったことで、叶わぬ恋と諦めておりましたが、殿下が真実の愛に目覚められたそうですので、私もそれに倣うことにいたします」
いや確かに、私とアリシアは幼馴染で、小さい頃から仲良くしてはきた。
爵位は公爵と伯爵だが、我がミラン家も名門の家柄であり、家格は十分に釣り合いが取れる。
それに、今のところ私は独身で、婚約者もいない。――アリシアが正式に殿下と結婚するのを見届けるまでは、そういうことを考える気になれず、親の勧める縁談も断り続けてきたのだ。
しかし……。アリシアも私のことを想っていてくれたというのは、本当なのだろうか?
殿下との婚約が決まる前だって、いつもつんとすました態度だったのだが。
「ジェラルド、あなたの答えは?」
アリシアが真っ直ぐに私を見る。
その表情は、求婚の返事を求める乙女というよりも、交渉相手に返答を迫る政治家のそれに近いようにも思えたが……。
「決まっているだろう。私――俺はずっと、お前のことが好きだった。この国の王妃になるというのならば諦めるしかなかったが、そうでないのなら、絶対誰にも渡さない!」
ずっと胸の奥に溜め込んでいたものを一気に吐き出すようにそう言って、私は両殿下に対して跪き、
「ルイス殿下、誠に申し訳ございません。クリス殿下、どうか私たちのことをお許しいただきたい」
クリス殿下は何だかほっとしたような表情で頷かれた。
「ああ、僕に異存はないよ。この国随一の勇者とこの国随一の知恵者が結ばれるというのなら、こんなめでたいことはないだろう」
会場の紳士淑女も、怒涛の展開に困惑気味だったが、どうにかこうにか丸く収まったようだと解釈して、温かい拍手でもって私たちを祝福してくれた。
「……ジェラルドと言ったか。アリシアお姉様を泣かせたりしたら絶対に許さないからな!」
泣き出しそうなのを懸命に堪えている様子で、ルイス殿下がおっしゃる。
私は跪いたまま、心の底から誓った。
「この剣にかけて、お約束申し上げます」
---------------------------------------------------------------------
ちなみに、登場人物たちの年齢は、クリス20歳、アリシア&ジェラルド18歳、ドノバン21歳、エリサ16歳となっています。
以前から、二人が親密であるとの噂は流れていた。しかし、こうもあからさまな振る舞いに出られるとは、さすがに誰も予想はしていなかっただろう。
アリシアの心中は察するに余りある。
そして、楽団の演奏が途切れたのをきっかけに、殿下は高らかに宣言なさった。
「アリシア嬢、君との婚約を白紙に戻す!」
それに対し、アリシアは落ち着き払った態度で応じた。
「恐れながら殿下、理由をお聞かせいただけますでしょうか」
「決まっているだろう。君の異母兄であるドノバン=ラングレーの不行跡が目に余るからだ!」
会場の皆がざわついた。
たしかに、ドノバン=ラングレーという人物は色々と問題がある。が、その行状を詳しく知っている者は一握りだし、しかもそのことを盾に取って異母妹との婚約を破棄するというのも、少々行き過ぎなのではないか、と皆思ったことだろう。
当のドノバン=ラングレーもこの会場にいた。
ちらりとそちらを窺うと、まさしく鳩が豆鉄砲を食らったような表情を浮かべている。
それはそうだろう。
まさかこんな場所で吊し上げられるなどとは、夢にも思っていなかったはずだ。
「まあ、何を証拠にそのようなことを仰るのでしょうか」
反論するアリシアだったが、その態度や声は、どこか芝居がかっているようにも見えた。
「聞きたいというのならば聞かせてやろう。まず、公爵領内は言うに及ばず、王都においても、平民身分の女性たちに片っ端から手を着け、子供が出来ても金で黙らせてきた、というのはいくつも証言が得られている。何なら、その女性たちの名前を具体的に挙げようか?」
そう仰りながら、殿下がドノバンに冷ややかな視線を向けられる。ドノバンは顔を真っ青にしながら、懸命に抗弁した。
「そ、それらは全て合意の上のこと。子供を公爵家に迎え入れるわけにはいかぬ、という点についても、女たちは納得しております!」
いやいやいや。とても「合意」などと呼べるものではないはずだし、納得もしていないだろうと断言できるのだが?
「ふむ。被害者たちの証言とは大きく異なるようだが、百歩譲って合意の上だとしても、だ。相手が人妻となると、見過ごすわけにはいかぬな。ホワイトロック地区に住むトーマスという男の妻、ナンシー。知らぬとは言わせぬぞ」
「ぞ、存じま……、いえ、仰せの通り、そのナンシーなる女性は存じております。し、しかしながら、私は独身だと聞いておりました!」
「ほう、そうか。当人は、夫の目の前で手籠めにされたと証言しているが?」
想像以上の非道ぶりに、周囲の紳士淑女たちも皆眉を顰める。ドノバンにエスコートされていた女性――ビリガン伯爵家のご令嬢が、凍り付いたような無表情のまま、すすすと離れていった。
ドノバンは必死の形相で、
「そ、そのような! 殿下は、平民の戯言と、公爵家の跡取りである私の言葉、どちらをお信じあそばすのですか!」
「身分賤しき者どもの言葉など信じるに値せぬ、か。まあよかろう。この件は貴族院にて審議させる。次に、そなたが賭け事にのめり込み、複数の商会から多額の借金をした上、それらをことごとく踏み倒している、という件だ」
「お、お言葉ですが、踏み倒しているなどとは心外でございます。当然返済はいたしますとも。確かに、返済期限を過ぎてしまっているものもございますが、期限の延長には快く応じてもらっております」
虚勢ではあるのだろうが、ドノバンが胸を張ってそう答えると、殿下はおもむろに一枚の書面を取り出された。
「そうなのか? だが、この証文を見ると、返済期限は一年以上過ぎていて、期限延長に関する裏書も無いようだが?」
まさか、借用証文が殿下の手に渡っているとは思わなかったのだろう。ドノバンの顔から冷や汗がしたたり落ちる。
「そ、それは……。コリン商会のものでございますか。た、確かに裏書などは残しておりませんが、間違いなく返済期限は猶予をもらっております!」
「そう言われてもな。商人の世界では、口約束は証拠にはならぬぞ。それで、そなたへの貸し付け債権を譲り受けた商会の者が、先日返済を求めに行ったらけんもほろろに追い返されたと申しておった」
「先日……? そ、そう言えばこの間、借金を返せなどと借りた覚えもない商会の者が言ってきたので、追い返しましたが……。確か、ウィルシャー商会……」
そう言いかけて、ドノバンははっとしたように殿下の傍らの女性を見た。
エリサ嬢の実家ウィルシャー子爵家は、家格こそ低いが、商売で財を成している、いわゆる新興貴族だ。
それにしても、ドノバンの借金がウィルシャー商会の手に渡っている、というのはいささか話が出来過ぎているような……。
「そなたの借金、全部合わせて金貨二,八五三枚。現在すべてウィルシャー商会が持っておってな。返済が滞って困っていたのだそうだ」
「そ、そんな! 大体、証文を勝手に他人に譲るなど無効です!」
「おいおい、何を言っている。譲渡を禁じる特約が付いているわけでもない債権の売買など、商人の世界では日常茶飯事だぞ」
商人の世界の常識とやらはよくわからないが、殿下がそう仰るのであれば、そういうものなのだろう。
「まあ、ラングレー公爵家にとってみれば、たかだか金貨三千枚程度、大した金額ではないとは思うのだが、昨今、貴族家の財政事情も色々あろうしな。とはいえ、わがキャメロン王国の支柱たるラングレー家がたかだか三千枚の借金も返せぬとあっては、近隣諸国の侮りを受けかねん。なので、僕が立て替えておいたから安心しろ」
「そ、それはありがとうござ……いま……す……」
安堵の表情で礼を述べかけて、ドノバンは凍り付いた。
公爵家の跡取りともあろう者が、借金を返済できず、こともあろうに王太子殿下に立て替えさせたなど、体面を何よりも重んじる貴族社会にあっては、恥さらしと呼ぶのも生温い。そのことに思い至ったのだろう。
おおかた、中小の商会に対し、公爵家の威をもって泣き寝入りを強いるつもりだったのだろうが、こんなことなら期限内にきちんと返済しておくべきだったな。自業自得だが。
と、そこで、沈黙を保っていたアリシアが跪き、王太子殿下に詫びを入れた。
「殿下、誠に面目次第もございません。お立て替えいただきました金子は、至急お返しいたしますよう、ラングレー家の名誉に掛けてお約束申し上げます」
その言葉は、殿下に対する詫びというよりも、公爵家の名誉を傷つけた異母兄に対する糾弾という方が適切だろう。
異母妹にあてこすられて、ドノバンの顔が赤くなったり青くなったりとめまぐるしい。
「ああ、気にするな。大した金額ではない。しかし、ドノバンがラングレー公爵家の跡取りとして相応しくないということについては、納得してもらえただろう」
殿下の言葉は、アリシアだけでなく、この場の紳士淑女皆に向けたものだったようだ。
ゆっくりと周囲を見回す殿下に対して、異議を唱えドノバンを擁護しようなどという者は――当然のことながら――誰もいなかった。
「そういうわけでアリシア嬢。そなたを妃に迎えられぬ理由は理解できただろう。そなたには次期ラングレー公として、この国を支えてもらわねばならない」
「そ、そんな。私のようなものが公爵位を継ぐなど……。我が家には異母弟もおりますれば」
「リチャードか? あの子はまだ十一歳だろう。なかなか聡明な子ではあるが、そなたを差し置いてラングレーを継がせる理由にはならぬな」
どこか芝居がかった調子で、殿下とアリシアが会話を交わす。
最初は、失礼ながら子爵令嬢との色恋に溺れた殿下のご乱心かと思ったりもしたのだが、何のことはない。これは殿下の後ろ盾によるラングレー家の下剋上ではないか。
しかし、これで殿下とアリシアとの婚約は、白紙に戻されたわけか……。
紳士淑女たちも、事情は察したようだ。とはいえ、ドノバンに味方しようなどという酔狂者がいるはずもなく。これで茶番は幕切れか――と、思われたのだが。
「ちょっとお待ちいただきたい!」
いささか舌足らずな声が、広間に響き渡った。
「アリシアおね……、アリシア嬢の兄君がろくでもないお人だということは理解できました。しかし、だからと言って、アリシア嬢との婚約を破棄するなどとおっしゃるのには、納得がいきかねます!」
声を挙げたのは、キャメロンの隣国であるファランクス王国の第二王子・ルイス殿下だった。
弱冠十二歳のルイス殿下は、現在我が国に留学中で、ラングレー家の第三夫人の子であるリチャードと仲が良く、その異母姉であるアリシアのことも、「アリシアお姉様」と呼んで慕っておられる、という話だ。
一本気な少年の異議申し立てに、王太子殿下も持て余し気味だ。
「いや、ルイス殿、これはですね……」
「大体、正式な婚約者がおられるにもかかわらず、他の女性と浮気なさるなど、いかがなものでしょうか。アリシア嬢との婚約を破棄なさったのは、そちらの女性とご結婚なさるためということでしょうか?」
会場の皆から、声にならない溜息が漏れる。
煎じ詰めればそういうことだと内心では思っていても、誰も口にはできなかったことを、ルイス殿下はずばりと突いてしまわれた。
「ルイス殿下、お気持ちはありがたいのですが、クリス殿下のご判断はラングレー家の、ひいては我がキャメロン王国のためを思われてのことにございます。どうかご理解ください」
アリシアが横から助け舟を出してきたが、ルイス殿下はかぶりを振って、
「アリシアお姉様は優しすぎます。そうだ! だったら僕が、お姉様を妻に迎えましょう!」
いきなりとんでもないことを口になさる。
我がキャメロンを上回る国力を有し、これまでの歴史においても色々因縁があるファランクスの、しかも王位継承権を巡って異母兄弟と水面下で争っている第二王子と、我が国有数の貴族であるラングレー家の縁談など、揉め事の種にしかならないだろうに。
口を挟める立場にないこの身がもどかしい。
「は!? ……いえ、失礼いたしました。ルイス殿下、お気持ちは大変ありがたいのですが、そもそもの問題として、あなたもお国に婚約者がいらっしゃいますでしょう?」
諭すようにアリシアが言う。
するとルイス殿下は、何の迷いもなくこうおっしゃった。
「彼女との婚約は破棄します! 僕はこの国であなたと出逢って、真実の愛に目覚めたのです!」
わちゃー、という声にならない声が聞こえたような気がした。
子供の前でお手本にならぬようなことをするものではない、という教訓だろう。
皆、殿下に対してあからさまに非難がましい視線を向けることは憚りつつも、何とかしてくださいよと言わんばかりの空気が会場を覆う。
「あー。その、ルイス殿……」
クリス殿下が何かおっしゃりかけたのを遮るようにして、アリシアが言った。
「ルイス殿下。婚約というものは、家と家との間で交わされた約束事。むやみに破棄してよいものではありません。悪い大人の真似をなさってはいけませんよ」
「あー、うむ。その通りだ、ルイス殿」
悪い大人が真面目くさった顔を保ちながら相槌を打つ。
会場の皆は、はらはらするやら笑いを堪えるやらで、何とも形容しがたい雰囲気だ。
「しかしアリシアお姉様……」
なおも何事か言い募ろうとするルイス殿下だったが、アリシアは静かに微笑みながら、
「それに殿下、誠に申し訳ございませんが、私にも心に決めた殿方がおりまして」
そう言って、視線をこちらに向ける。――会場の警備を担当する近衛騎士の一人である私へと。
アリシアの視線につられて、両殿下をはじめ、会場内の全員の視線が私に向けられた。
え? え? ちょっと待ってくれないか。
「ジェラルド=ミラン――ミラン伯爵家の令息で、近衛騎士団きっての剣の達人です。元々、幼い頃から親しくしていた間柄でして。王太子殿下とのご縁談が持ち上がったことで、叶わぬ恋と諦めておりましたが、殿下が真実の愛に目覚められたそうですので、私もそれに倣うことにいたします」
いや確かに、私とアリシアは幼馴染で、小さい頃から仲良くしてはきた。
爵位は公爵と伯爵だが、我がミラン家も名門の家柄であり、家格は十分に釣り合いが取れる。
それに、今のところ私は独身で、婚約者もいない。――アリシアが正式に殿下と結婚するのを見届けるまでは、そういうことを考える気になれず、親の勧める縁談も断り続けてきたのだ。
しかし……。アリシアも私のことを想っていてくれたというのは、本当なのだろうか?
殿下との婚約が決まる前だって、いつもつんとすました態度だったのだが。
「ジェラルド、あなたの答えは?」
アリシアが真っ直ぐに私を見る。
その表情は、求婚の返事を求める乙女というよりも、交渉相手に返答を迫る政治家のそれに近いようにも思えたが……。
「決まっているだろう。私――俺はずっと、お前のことが好きだった。この国の王妃になるというのならば諦めるしかなかったが、そうでないのなら、絶対誰にも渡さない!」
ずっと胸の奥に溜め込んでいたものを一気に吐き出すようにそう言って、私は両殿下に対して跪き、
「ルイス殿下、誠に申し訳ございません。クリス殿下、どうか私たちのことをお許しいただきたい」
クリス殿下は何だかほっとしたような表情で頷かれた。
「ああ、僕に異存はないよ。この国随一の勇者とこの国随一の知恵者が結ばれるというのなら、こんなめでたいことはないだろう」
会場の紳士淑女も、怒涛の展開に困惑気味だったが、どうにかこうにか丸く収まったようだと解釈して、温かい拍手でもって私たちを祝福してくれた。
「……ジェラルドと言ったか。アリシアお姉様を泣かせたりしたら絶対に許さないからな!」
泣き出しそうなのを懸命に堪えている様子で、ルイス殿下がおっしゃる。
私は跪いたまま、心の底から誓った。
「この剣にかけて、お約束申し上げます」
---------------------------------------------------------------------
ちなみに、登場人物たちの年齢は、クリス20歳、アリシア&ジェラルド18歳、ドノバン21歳、エリサ16歳となっています。
2
あなたにおすすめの小説
【完結】悪役令嬢だったみたいなので婚約から回避してみた
22時完結
恋愛
春風に彩られた王国で、名門貴族ロゼリア家の娘ナタリアは、ある日見た悪夢によって人生が一変する。夢の中、彼女は「悪役令嬢」として婚約を破棄され、王国から追放される未来を目撃する。それを避けるため、彼女は最愛の王太子アレクサンダーから距離を置き、自らを守ろうとするが、彼の深い愛と執着が彼女の運命を変えていく。
これで、私も自由になれます
たくわん
恋愛
社交界で「地味で会話がつまらない」と評判のエリザベート・フォン・リヒテンシュタイン。婚約者である公爵家の長男アレクサンダーから、舞踏会の場で突然婚約破棄を告げられる。理由は「華やかで魅力的な」子爵令嬢ソフィアとの恋。エリザベートは静かに受け入れ、社交界の噂話の的になる。
婚約破棄された氷の令嬢 ~偽りの聖女を暴き、炎の公爵エクウスに溺愛される~
ふわふわ
恋愛
侯爵令嬢アイシス・ヴァレンティンは、王太子レグナムの婚約者として厳しい妃教育に耐えてきた。しかし、王宮パーティーで突然婚約破棄を宣告される。理由は、レグナムの幼馴染で「聖女」と称されるエマが「アイシスにいじめられた」という濡れ衣。実際はすべてエマの策略だった。
絶望の底で、アイシスは前世の記憶を思い出す――この世界は乙女ゲームで、自分は「悪役令嬢」として破滅する運命だった。覚醒した氷魔法の力と前世知識を武器に、辺境のフロスト領へ追放されたアイシスは、自立の道を選ぶ。そこで出会ったのは、冷徹で「炎の公爵」と恐れられるエクウス・ドラゴン。彼はアイシスの魔法に興味を持ち、政略結婚を提案するが、実は一目惚れで彼女を溺愛し始める。
アイシスは氷魔法で領地を繁栄させ、騎士ルークスと魔導師セナの忠誠を得ながら、逆ハーレム的な甘い日常を過ごす。一方、王都ではエマの偽聖女の力が暴かれ、レグナムは後悔の涙を流す。最終決戦で、アイシスとエクウスの「氷炎魔法」が王国軍を撃破。偽りの聖女は転落し、王国は変わる。
**氷の令嬢は、炎の公爵に溺愛され、運命を逆転させる**。
婚約破棄の屈辱から始まる、爽快ザマアと胸キュン溺愛の物語。
聖女の力は使いたくありません!
三谷朱花
恋愛
目の前に並ぶ、婚約者と、気弱そうに隣に立つ義理の姉の姿に、私はめまいを覚えた。
ここは、私がヒロインの舞台じゃなかったの?
昨日までは、これまでの人生を逆転させて、ヒロインになりあがった自分を自分で褒めていたのに!
どうしてこうなったのか、誰か教えて!
※アルファポリスのみの公開です。
その結婚、承服致しかねます
チャイムン
恋愛
結婚が五か月後に迫ったアイラは、婚約者のグレイグ・ウォーラー伯爵令息から一方的に婚約解消を求められた。
理由はグレイグが「真実の愛をみつけた」から。
グレイグは彼の妹の侍女フィルとの結婚を望んでいた。
誰もがゲレイグとフィルの結婚に難色を示す。
アイラの未来は、フィルの気持ちは…
婚約破棄? 国外追放?…ええ、全部知ってました。地球の記憶で。でも、元婚約者(あなた)との恋の結末だけは、私の知らない物語でした。
aozora
恋愛
クライフォルト公爵家の令嬢エリアーナは、なぜか「地球」と呼ばれる星の記憶を持っていた。そこでは「婚約破棄モノ」の物語が流行しており、自らの婚約者である第一王子アリステアに大勢の前で婚約破棄を告げられた時も、エリアーナは「ああ、これか」と奇妙な冷静さで受け止めていた。しかし、彼女に下された罰は予想を遥かに超え、この世界での記憶、そして心の支えであった「地球」の恋人の思い出までも根こそぎ奪う「忘却の罰」だった……
全てから捨てられた伯爵令嬢は。
毒島醜女
恋愛
姉ルヴィが「あんたの婚約者、寝取ったから!」と職場に押し込んできたユークレース・エーデルシュタイン。
更に職場のお局には強引にクビを言い渡されてしまう。
結婚する気がなかったとは言え、これからどうすればいいのかと途方に暮れる彼女の前に帝国人の迷子の子供が現れる。
彼を助けたことで、薄幸なユークレースの人生は大きく変わり始める。
通常の王国語は「」
帝国語=外国語は『』
愛しの第一王子殿下
みつまめ つぼみ
恋愛
公爵令嬢アリシアは15歳。三年前に魔王討伐に出かけたゴルテンファル王国の第一王子クラウス一行の帰りを待ちわびていた。
そして帰ってきたクラウス王子は、仲間の訃報を口にし、それと同時に同行していた聖女との婚姻を告げる。
クラウスとの婚約を破棄されたアリシアは、言い寄ってくる第二王子マティアスの手から逃れようと、国外脱出を図るのだった。
そんなアリシアを手助けするフードを目深に被った旅の戦士エドガー。彼とアリシアの逃避行が、今始まる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる