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最終章
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しおりを挟む月奈は上野公園の不忍池のベンチに座っていた。公園の名物である池の蓮が立派に育ち、花びらが大きく開いている。池の上に浮かんでいるボートを家族連れやカップルが楽しそうに漕いでいた。
月奈は自販機で買ってきたサイダーを飲んでいた。月奈は上野駅の本屋で買ったぴかぴかの『どうか知らないでいて』の本を手に取った。
真っ白な表紙に薔薇が散っているイラストだ。月奈はあの母の命日の墓に供えてあった英作の薔薇の花束を思い出した。表紙の赤い薔薇も数えてみると8本である。
月奈はあの命日からしばらく経って、気になって薔薇の花言葉を調べた。薔薇には本数によって意味が違い、8本はこういう意味なのだそうだ。
『あなたの思いやりや励ましに感謝します』
月奈は納得した。なぜ父が血相を変えて問い詰めたのか。この小説には英作と月奈が居る。
おおまかな話の筋はこうだ。
『主人公の姉はある男に捨てられて自殺した。彼は姉の想い人に復讐しようと、男の幼い娘に目をつける』
そして延々と描写が続いたのは、主人公の復讐対象の娘への虐待である。暴力はもちろん、性的な行為だったり、目をふせたくなるような残虐なシーンが主だった。最後に主人公は娘を殺すが、なにも満たされてないことに気付くと、自死してしまう。
恐らく話題になったのは、主人公の復讐の矛先が幼女に向いたことで、児童虐待を扱ったからだろう。英作が書く恋愛小説からはかなりかけ離れている。読者層もとても女性に向いてなく嫌悪されるだろう。
きっと英作に理想を抱いていた女性ファンは怒りを覚えたろうし、今回話題になって購入してみた男性の読者でさえも彼を軽蔑しただろう。
「……英作さん、どうしてこんなのを書いたの?」
この本の出版の許可を出したのはあの飯塚という担当だろう。英作の決死の作品にあの若かった彼女がやる仕事としてはとても勇気のいることだ。だけど売れると見込んだ飯塚の編集の目は確かだった。悪評が上回って実際にもうベストセラーになりそうな勢いだそうだ。
「……でも、英作さん、書けるようになって良かった」
行き詰まってた英作のことを思い出すと月奈は、涙がこぼれた。
*
月奈はいたって落ち着いていた。スマホで英作の番号を出すと、通話をかける。出なかったら出なかったでいい。
月奈は今まで自ら命を絶つ人の気持ちがまるで分からなかった。自分が一人だと勝手に勘違いして、甘えているだけなのだと、ずっと思っていた。でも違う。一度、死のうと考えた人間の苦しみは、絶大だ。きっと本人以外には理解できないだろう生き地獄をずっと味わってきたのだ。
もし英作が死んでいたら死んでいていい。
「……もしもし」
ガチャッと音が耳元でしたと思うと、もうしばらく聞いてなかった低い声がした。月奈は出るとは思わなかったから、びっくりして少し黙ってしまった。
「……英作さん?こんばんは、元気にしてる?」
「あんまり」
「だろうね。今どこに居るの?」
「華厳《けごん》の滝」
「……私、そこ修学旅行で行ったことある」
月奈は栃木の日光の修学旅行のときのことを思い出す。
華厳の滝の頂上に辿り着くと、一緒に居たクラスメイトたちがきゃあきゃあ騒いでたのだ。
『ここで飛び降りてよく人が死ぬんだって』と。
「……驚いた。本当にたった今、飛び降りようとしていた。そしたら月奈から電話が来た」
「そっか。じゃあ飛び降りないでね」
「……ああ、やめとく。偶然とは思えない」
月奈はくすくすと笑う。英作のしょんぼりとした顔が目に浮かぶようだった。怒られた犬のように自分の言うことを聞いている。
「月奈、俺は、お前のことを愛していた。家族として、恋人としてもだ」
不意な英作の告白に、月奈は昔のようにどきっとした。
「お前に素敵な叔父だと思われようと頑張った、今度こそ、家族になろうと思ったのに、頑張ったのに、何もかもだめだった」
英作の声がらしくなく震えている。
月奈は自分でも気づかぬうちに、一筋の涙が零れ落ち、頬を伝い地面の上に染みていった。
「……わからない、わたしは今でも答えがわからない、きっと一生かけても英作さんを許せない。でもね、これだけは言えるの。英作さん、一人にならないで。英作さんは一人じゃない」
月奈は立ち上がって不忍池のほうを見た。
夜の蓮の花は桃色に戻り、緑の大きな葉が包み込むように池を覆う、絶景が広がっていた。
「私も居る、パパも居る、また三人で暮らそう」
◇
「いってきまーす!」
月奈の元気な声が玄関に響き渡る。ミュールの靴先でトントンと地面を叩く。バッグを開けて忘れ物はしてないか中身を確かめていると「大学まで送って行こうか?」という父の声がリビングから聞こえて「だいじょーぶ!」と返事した。
「今度こそ、」
父にいってきますと言おうとして月奈が振り向いた瞬間だった。月奈は誰かとぶつかる。月奈はその人物を見て目を丸くした。
「ただいま」
彼は穏やかに月奈にそう言った。
「……おかえりなさい」
月奈は目の前に現れた英作に抱き着いた。もう誰に見られてもいいように、一生、彼を離さないように。
英作のあの深く暗い瞳はもうどこにもなく、明るく輝いていた。
──どこかで嗅いだことのある匂い。
それはずっとずっと昔、月奈の物心つく前からだったのだ。
英作が優しく撫でた月奈の頭には薔薇の髪留めがきらりと光っていた。
【完】
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