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《196》大丈夫
しおりを挟む甘さはないのに、近くで聞くと鳥肌がたちそうなほどセクシーな声が、全部覚えてると、そう言ってくれた。
こっちだって、彼との出来事はひとつ残らず覚えている。
忘れたくても忘れられるわけが無い。
リダルは何もかもがおかしかった。
学園では変装をし、規格外の身体能力を持っていた。公爵家に易々と侵入したり、貴族のくせに守銭奴で、警備のバイトにあけくれていたり。
いちばん不可解なのは、幾度となくノワの絶体絶命の危機を救ったことだ。
リダルだけが、物語の設定に左右されない人物だった。
彼だけが、出会った頃から、一人の生々しい人間としてノワの前にいた。
ある日の昼下がり。
寄りかかった身体から、彼を心配していることが伝わればいいのにと、そう思った。
何一つ伝わらなかったのかもしれない。
文面上で、少し素直になれた手紙の返事は来なかった。
赤い瞳は、自分とも、他の人とも別の世界を見すえているように見えた。
ノワは夢の中の彼に手を伸ばした。
「リダル·····」
切なげな声が、一人の男の名を呟いた。
初めてのことではない。
デリックはノワの首元をそっと撫でた。
ひとりでに手先が震える。煮えたぎるような嫉妬心は、今にも理性を消し去ってしまいそうだった。
『大丈夫だから』
アレクシスに見せた兄としての顔が、何度も脳内に蘇る。
ノワに、顔すら思い出せない兄の姿が重なった。
彼は、自分が殺したのだ。
人体実験は強制受験では無かった。
貢献する代わりに、食料を受け取ることが出来る。でなければ、カビの生えた配給食を食べるしかない。食中毒で死ぬ者も少なくはなかった。
死んでも困らない人間。それが、収容所の者たちだった。
幼いデリックを生かすため、兄は人体実験に赴いた。
帰ってきた兄から、血の匂いがした。顔や体のあちこちが腫れ上がり、指先は震えていた。
こんな兄を見るのは初めてだった。
デリックにとって兄は、誰よりも頼もしく、強い存在だった。
『───』
もう、彼をなんと呼んでいたかは思い出せない。
感情どころか、兄という人物の顔や名前まで思い出せない。
服の下に隠された酷い傷跡に気づかなかった。
デリックが抱きつくと、兄はデリックを力強く抱きしめ返した。
あの時、自分よりもずっと大きく感じた身体は、たった十三の少年だった。
兄が研究員に目をつけられてから、二人に与えられる配給食はただの生ゴミと化した。
兄は連日被検体を希望した。
痩せ細り、表情が消え、口数の減った兄。デリックは毎夜泣き喚くようになった。
『大丈夫だ』
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