SOLNEFIA(ソルネフィア)

森永らもね

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第一部 二章 教会編

18 信じる心

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 ルミネアは眉間に皺を寄せ、険しい表情でツグナを睨みつけている。自分の口から神だということを否定したようなものだ。その声にミシェルは「それって……あいつはルミネア様じゃないって事? 今まで騙していたわけ?」とその場にいる人間の代弁をするように問いかけた。
「騙していた? 私は初めから騙していないわよ」
 やけに落ち着いた声は、最早開き直っているようにも聞こえる。
「さっき言ったでしょう? 私は自分の事を名乗ってもいない。ただ、神父が勝手に勘違いしてルミネア様だなんて拝み始めただけよ。翼の有無や色で判断するなんて、軽率で馬鹿だった神父が悪いわ」
「お前……それでドミニク神父を」
「私は何もしていないわ。ただ、あの時の神父があまりにも哀れだったから、囁いただけ」
 そしたら面白いぐらいに食いつくものだからと、ルミネアは玉座に腰を下ろしたかのように足を組み、口元に手を添えて笑った。
 人は絶望に立たされた時、手を差し伸べた人間を深く崇拝するようになるという。私にはあの人しかいないという異常なまでの執着心は、宗教の心理とよく似ている。恐らくドミニクもそれだったのだろうとツグナは思った。それを利用し、踏みにじるなんて、本当に悪魔のような奴だ。
「ルミネア様じゃないなら、お前は一体なんなんだ」
「さあね。私は誰でもないし、何者でもない。貴方が私を悪魔と呼ぶならそれでも構わないわ。ああ、でも……そうね。私のことはヴェリトリアって呼んで。以前はそう呼ばれていたから」
「ヴェリトリア……? 以前って」
「私がこの体になる前の話よ」
 目を細めたヴェリトリアはその場からツグナ達に向かって白銀の翼を振りかざした。襲いかかってくる羽はまるで銃弾のようで、中央通路に無数の穴を開ける。ミシェルは持ち前の動体視力で倒れるように横へと逃れたが、入口前で動けなくなっていたレイとコナーは悲鳴を上げて身構えると目を瞑った。しかし、いつまで経っても痛みがくる事はない。
「あら。逃げずに守るなんて、大したものじゃない」
 嘲る声にレイとコナーはゆっくり目を開けると、そこには立ちはだかるツグナの姿があった。構えた腕で隠しきれなかった体からは滴るほどの血が流れている。かつてない程の切り傷に、全身は火傷のように熱く、神経に染み渡る痛みがキリキリと空気に当たる度に強くなっていった。
「ツグナ……!」
「大丈夫。大丈夫だから。ドミニク神父の止血と、自分の事を最優先に考えろ」
 フラフラになりながらもツグナは前に歩み出る。なんの説得力もない言葉に、コナーとレイは眉を下げてその背中を見つめた。そうしてから、レイは徐々に目を見開く。先程まで貫通していたツグナの肩の傷が完全に塞がっていたのだ。間違いなく先程まであったはずなのに。今は肩の部分が破けているだけで、そこから見える肌は既に銃創のように盛り上がり、塞がっていた。
「なんで……もう傷が……」
 レイが思わず驚嘆の声をあげると、ツグナは地面を強く蹴ってヴェリトリアの元へと距離を詰める。
 ヴェリトリアは同じようにツグナに向かって鋼鉄の羽を放つが、ツグナはそれを素早く避けていき、飛び上がると、横に切るようにして蹴りを放った。
 なんて脚力だ。人間とは思えない。その尋常じゃない脚力に驚きつつも、宙返りするように避け、蹴りを放ったツグナの足を掴む。見た目に反してその手はざらついていて、まるで逃がさないと、沢山の牙でかぶりつかれているみたいだった。
 ツグナを手にしたまま回転すると、ヴェリトリアは回った遠心力でツグナを地面に叩きつけた。身廊を引き摺るように叩きつけられ、数メートル進んだところでやっと止まる。
「ぐっ……」
 摩擦によっておきた火傷の痛みにツグナはその場でもがき苦しむ。地面に擦られた肌は火傷を起こし、地面から引き剥がそうとすると肌が裂けるのと似た痛みが全身を駆け巡った。ヴェリトリアはそれを愉快そうに眺めてから、白銀の翼を黒い影のようなものに変形させ、会衆席の長椅子をツグナに投げつけた。ツグナは避けようと体を捻らせるが、激痛によって思うように動かず、片腕が長椅子の下敷きになる。
「あ゙あああっ!」
 腕の骨が長椅子によって押しつぶされていく感覚に悲鳴をあげた。すぐさま椅子を腕から避けようと力を入れるが、ヴェリトリアが更に長椅子を積み重ねたことによって、腕には強い圧力がかけられる。先程の大斧を壊した時と似たような音が広がっていき、ツグナは四肢を叩きつけるようにしてもがいた。長椅子が骨を粉砕しながら腕にめり込んでいく。力を入れようにも、片腕は自分とは別の物になってしまったかのように反応を示さない。ツグナはヴェリトリアを睨みつけながら無理やり上半身を起こそうとした。しかし、腕が引っ張られ、肩と腕を繋ぐ関節の方から異質な音が聞こえてくる。
 先程から隠れて見ていたミシェルは、冷や汗を垂らしながらヴェリトリアに銃弾を撃ち込んだ。しかし、どういうわけか銃弾はヴェリトリアを通り過ぎるだけでダメージを与えていない。
「ちっ……バケモノめ」
 こいつ、直接的な攻撃がそもそも効かないのか。効かない癖にクソガキの攻撃を避けていたなんて、余裕こいたことを。ミシェルが顔を歪めて、ただその様子に立ち尽くしていると「ミシェルさん」とコナーの小さな声が聞こえてくる。こんな時になんだと振り返ると、コナーは小瓶をミシェルに投げ渡した。
「なによこれ!」
「僕が修道院を出た時にお守りとして授かった聖水です。従来、悪魔は聖なるものに弱いと伝えられており、奴が本当に悪魔なら何かしら動きを止めてくれると思いまして……」
「なっ! だったら初めから出しなさいよ!」
 ミシェルは焦りから怒鳴り散らすと、それを持ってツグナの方へと走り出す。背後からは「ご、ごめんなさい」とコナーの落ち込んだ声が聞こえてきたが、ミシェルは振り返ることなく、小瓶の蓋を親指で払うようにして開けた。
「さあ、愚かな神の子羊よ。私に反逆した事を悔いるがいいわ」
 ヴェリトリアはツグナの首を絞めながら、ドミニクを刺した時と同じように腕を鋭利に変形させ、口許を歪めた。ツグナは口から唾液をだらだらと流しながら、潰されていない方の腕でヴェリトリアの手を引き剥がそうとするが、上手く力が入らない。
 ―――貫かれる前に死ぬ。頭に酸素が行き渡らなくなり、眼前が認知出来ないほどぼやけた視界の先にあるヴェリトリアの腕が自分目掛けて迫ってきた時、目の前まで来ていたミシェルは先程の聖水をその白い体に向かって振りまいた。まるで塩酸をかけられたように、ヴェリトリアの体からはしゅうしゅうと音を鳴らしながら煙のようなものが立ち始める。かけられた部分は溶けだし、白一色だった容姿には黒が浮き上がってきた。
「い゙っ、あ゙あああ!」
 その声は甲高いが、余程苦痛なのか、声が掠れて濁点が入り交じっていた。ヴェリトリアは思わずツグナの首から手を離し、フラフラと後退して頭を抱えながらもがき苦しむ。ツグナは大きく咳払いをしながら、椅子の下から潰された片腕を引きずり出し、上半身を起こして目の前のヴェリトリアを見た。聖水をかけられた所から徐々に黒が広がっていき、美しかった白銀の翼は完全に黒い影のような姿となってドロドロに溶けだす。
「いだい、いたいっ、痛い!……よぐも私を……!」
 顔に手を当てたままこちらを睨みつけるヴェリトリアの瞳は爬虫類のように瞳孔が開いていて、ミシェルを捉えていた。ツグナが本能的にまずいと悟り、逃げろとミシェルの方を振り返る。
「殺してやる! 貴様を殺してやる!」
 しかし、自分が声を出すよりも速くヴェリトリアはミシェルに向かって真っ直ぐと黒い翼を振りかざした。ミシェルはその様子を瞳に映したまま、動くことも出来ない。
 ツグナは流血し過ぎて動きが鈍くなっていた。けれど、少しだけ早く動いたことによってミシェルの前に立ちはだかるのには充分間に合ったのだ。けれど、本当にそれだけでミシェルを連れて逃げるほどの余裕はない。ツグナは迫り来る翼に、ミシェルの前で両手を広げた。
 ミシェルが次に呼吸をした時、視界にあったツグナの腕は血を吹き出しながら宙を舞っていた。後からぼとりと質量のある鈍い音が響き渡り、ミシェルの瞳は大きく見開く。ツグナは顔を歪めたが、ヴェリトリアを睨みつけたまま体をひねらせ、勢いよく前に出した足をその黒くなった腹部にくらわせた。
「あ゙がっ!」
 聖水の効果だろうか。ツグナの足は確実にヴェリトリアの腹部を捉える。ヴェリトリアは口から黒い液体を吐き出すと、ふらりふらりと千鳥足になりながら後退した。体から滲み出る黒いモヤは煙と共に空気に溶けていくように上昇していく。腹の底から轟かせるその呻き声はおぞましくて鳥肌が立った。
「あ、あんた、腕が……」
「よかっ、た……」
 滴り落ちる血液と共にツグナはその場に跪く。もう片方の腕で抑えようにも先程の長椅子によって潰されてしまったので力が入らない。ミシェルはその背中を見て立ち尽くしながら、動揺に瞳を揺らがせていた。
 先程レイとコナーを助ける時に攻撃を直に受けているのに。こいつはなんで人の為にここまでできるの? ミシェルは不可解なツグナの行動に、声も出せずに震えた。
「あはっ、はははは……最悪。こんなに、苦しいの、久しぶり……」
 ふと顔を上げると、そこには体の半分まで黒が侵食したヴェリトリアが腹部を抑えながら不気味な笑い声を上げていた。その声は所々掠れて弱々しい。
「……もう、いいわ。今日はこれぐらいにしてあげる。けれど、未来永劫その赤い目、絶対に忘れない」
 ヴェリトリアはそう言って不気味な笑みを浮かべると、空気に溶けるようにして消えていった。ツグナはそれを見届けてから、気を失うように顔面から倒れる。
「ツグナ!」
 ミシェルは声を張り上げてツグナの元へと駆け寄ると、うつ伏せに倒れた少年を仰向きにし、気道を確保させる。
 なんて酷いざまだ。右腕は切断され、左腕は血管が破裂したのか、濃紫の痣のようなものが広範囲に広がって、歪に変形している。ミシェルはとにかく切断された腕の止血をと自分の祭服の端を破り、患部に強く巻きつけ圧迫止血をした。
「ふざけんなよ! 死んだら絶対に許さないからな!」
 気を失ったツグナに怒鳴りつけつつも、ミシェルが手当する手を止めることはなかった。

 次の日にはこの騒動はロザンド街全体に広がっていた。ドミニク神父の性的虐待により、教会には批判の声が殺到したが、命を取り留めたドミニクが「責任は全て私にある」と神父の権利を自ら放棄した事でこの事件は収束して行くことになる。
 ツグナも安定の生命力で命を繋いだが、片腕を失った事に関してもドミニク神父は自分がやったのだと教会を庇ってくれたようだった。こうして、コナーの止血によって五日で動けるようになったドミニク神父は世間から「悪徳神父」と罵倒されながら憲兵へと引き渡される事になった。
「お前の処罰は後に下される。あまり希望は抱くな」
「わかっています」
 ドミニク神父は縄で拘束されたまま憲兵に囲まれて、教会の前庭をゆっくり歩く。その背中をコナー、ミシェル、ツグナ、レイの四人は黙って見ていた。
 暫く憲兵と歩いていたドミニク神父は立ち止まると「こんな事を言っても許されないと分かっているが、すまなかった。愛していたよ、レイ」と呟いた。レイはそれを聞いて肩を揺らすと、目に涙を溜めながら下唇を噛み締める。
 今までずっと、貰いたくても貰えなかった言葉。その言葉の真意が、家族愛とは別なものであることを、レイはどこかで悟っていた。神の教えに背く許されないことだとドミニクが密かに悩んでいたことも。もしかしたら、ドミニクは自分の気持ちを偽るために間違った道へと進んでしまったのかもしれない。
 レイ以外の人間には最後の最後まで気持ちの悪い悪徳神父の姿が目に映っていた。しかし、レイだけは違っていた。
「ドミニク神父! 俺、ここで待っているから。また、帰ってきたら、昔みたいにみんなで一緒に歌おう!」
 それを聞いたドミニク神父は振り返る事も、答えることもなくただ憲兵と共に歩き出した。きっとここには戻っては来れない。それでも健気に自分を信じてくれたレイが、純粋に嬉しかったのだ。ドミニクは救われたかのように涙を流した。
 レイの言葉の真意をツグナは理解できなかったが、きっとすれ違っていた互いの気持ちが通じ合えたんだろうと、レイの横顔を見て思う。四人はドミニクが見えなくなるまでその背中を見送り続けた。
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