SOLNEFIA(ソルネフィア)

森永らもね

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第一部 二章 教会編

21 ヴァイオリンの音色

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 先に戻っていたミシェルは、早くもメイドとしての仕事に専念していた。久々のブラッディ家はとても大きく見える。部屋を移動するために廊下を歩くだけでも、それが変に長いように感じた。子供たちの声が聞こえないのもどこか寂しい。なんだかんだとあの生活も悪くなかったと、ひと月を懐かしんでいた矢先、ミシェルは帰宅してきたシアンによって書斎に呼び出された。
「し、失礼します」
 恐る恐る扉の隙間からシアンの顔を伺うミシェルに「何をしているんだ? 早く入るといい」と手紙から一切目を逸らさずにシアンが問いかける。見たところ普通だが、シアン様は顔に出る人じゃないからなとミシェルは唇を固く閉ざし、部屋の中に入った。
 仕事ぶりは問題ないため、こうしてシアンに呼び出されることは滅多にない。けれど、今回はシアンの側近護衛であるツグナの腕を自分のせいでなくしてしまったようなものなのだ。それについて何か言われるのかもしれない。いや、自分のせいであの腕になってしまったツグナへの負い目なのか、聞かなくてはいけないと思っていた。シアンの目の前まで来て、しばらく沈黙が続いた後、ミシェルは自分から聞こうと口を開く。
「送ってくれた手紙、全て内容は確認した。監視の内容が丁寧に書かれていて好感が持てる。教会での作業の中、ご苦労だったな」
 先に沈黙を破ったシアンの賞賛に、ミシェルは何か言いたげに口を開閉してから、言い直すように「恐縮です」とだけ答えた。素直に喜べず、口角だけを上げた笑みは、誰が見ても弱々しい。
「……あいつの片腕。君を庇ったためだと手紙に書いてあったな」
 いつまでも顔色が晴れないミシェルを見かねて、シアンは心の内を探るように問いかけた。ミシェルは一度肩を震わせてから渋りもせず「はい、そうです」と答える。
「君に怪我はなかったか?」
「はい。……おかげさまで」
「そうか。なら、いい。あいつの事は気にするな。腕はそのうち元に戻る。君がそんなに気にすることじゃない」
 そのうち元に戻る? その言葉にミシェルは違和感を覚えながらも「あいつ、ツグナは……」と先程聞くつもりだった言葉をやっと口に出した。
「左腕が壊死していたようでな。麻酔をして、切断した。今は部屋で寝ている」  
 切断、という言葉に思わず喉奥が絞まった。さも当然のように口にするシアンにミシェルは混乱し、次に続ける言葉が出てこない。左腕の切断―――つまり今のツグナは両腕がない状態、ということ。普通だったら絶望でしかない。相手をそんな目に合わせてしまった罪悪感によってミシェルは息苦しく感じた。
「あ、あの。私―――」
 俯いたまま震えた声を振り絞るミシェルに、シアンは一度間をあけてから「あいつの力、見たろ?」と机上を使って手紙の角を揃えながら言った。
「そういう能力があるから、あいつを護衛にしたんだ。そうでもないと、あんな貧弱なやつを傍には置かない。目が覚めた時に一言お礼でも言ってやれば、あいつは今回の件も気にしないだろう」
 だからそんな顔するな。顔を俯かせたまま上げようとしないミシェルに、シアンは穏やかに言ってみせた。その言葉の意味が理解できないのは、私の理解力がないからなのだろうか。漠然とした気味悪さにミシェルはゆっくりと顔を上げ、シアンと向き合った。
「―――シアン様は、何故ツグナを教会に送り付けたのですか?」
 強張るミシェルの表情は何かを疑っているかのようだった。シアンはそれに対して「以前言った通りだ」と会話を終わらせようとするが、前回のようにはぐらかさせまいとミシェルが強気に口を開いた。
「私が思うに、今回ツグナを教会に送り付けたのは、ツグナの力の検証なのではないのかと」
 前回はぐらかされた時は無理やり自分を納得させたが、ただの社会勉強だけでツグナを送り付けたと言い張るにはどうにも裏があるように思えたのだ。勝負に出たミシェルの言葉にシアンは少し驚いたのか、手紙を揃えていた指先を止めると「何故そう思う?」と抑揚のない平坦な口調で言い放った。それがかえって威圧されているようでミシェルは思わずたじろぐが、今回は引かない。
「私が教会に行く前、シアン様と会話した時に違和感があって。まるでこれから何かが起こるのを知っているかのような言い方でした。そして、必ずツグナはそれを解決すると。そうなれば力の検証の理由になります」
「へえ。君は俺の事を、先の未来が見える神みたいな存在だと思っているのかい?」
「い、いえ。そういうわけでは。ただ、今回の事件が偶然起こったものとは思えなくて、ですね」
 ミシェルは慌てたようにくぐもった小声で答える。会話を切ろうにも、ミシェルの疑い深いヘーゼルの瞳は依然変わらず、しかとシアンを捉えたままだ。この様子じゃ納得のいく理由がなければ帰ってくれなさそうだと、シアンは気怠げに口火を切る。
「君の推察は面白いな。けれど、流石の俺も未来を予知できるような預言者じゃないよ。今回ツグナを教会に送り付けたのは、単純に別の環境に身を置いて他者と関わらせるいい機会だと思っただけだ。そうすることで心的ストレスを解消できればと」
 最もらしいシアンの返しにミシェルは何も言い返せなくなる。確かに教会での日々を通して、ツグナは以前より根本的な人への恐怖が薄れたように思えた。屋敷に来たばかりの頃と比べれば、だいぶ症状は回復してきている。流石に考えすぎだったか。ミシェルが瞬きをして緊張した頬を緩めると「だから本当に」と間をあけたシアンが付け足すように呟いた。
「偶然とはいえ、事件があったのは幸運だった」
 えっ、とミシェルは口から零れるように言葉を吐いてシアンを再度見つめる。先程からどうも突っかかりを感じていた。それが何か分からず、正体のつかめないモヤモヤした感情がずっとミシェルの胸の周りにつき纏っている。
「おかげで思わぬ副産物が手に入ったよ。たまには博打も悪くない」
「博打? おっしゃっている意味が―――」
 耳に入ってくる言葉の羅列を理解できず、ミシェルはシアンの言葉を繰り返した。シアンは「一昔前」と思い出すように話を続ける。
「ロザンド街に出た時、金のロザリオをつけた少年と出会ったんだ。歩いてきたらぶつかってきてね。相手は買い物をした後のようで、地面に買ったものをぶちまけていたよ」
「金のロザリオ……」
 すぐさま思い浮かんだのはレイだった。確かに、あの教会で過ごしていたとなれば、シアンと街ですれ違うことぐらいあるだろう。でも、一体何故今この話題をとミシェルはシアンの話に耳を傾ける。
「それで彼が気の毒だったから、地面に落ちたものを拾ってあげたのさ。その時、彼の手足や首に何かで絞め付けたような跡が見られてね。俺とぶつかってからずっと謝罪を繰り返して怯えているようだったし、もしかしたらって思ったんだよ。そしたら彼、案の定教会の孤児みたいだったから、少し心当たりがあってさ」
「何が、ですか?」
「かなり前の話さ。王都付近の教会で起こった男児性的虐待。十戒に触れないとかなんとかで、聖職者数名が男児を虐待していたっていう事件があったんだ。そして虐待されているという目印として金のロザリオが首から下げられていたとか。それを思い出してね」
「じゃあ教会にツグナを送ったのは、始めから事件を解決させる為に」
「まさか。そんな確証もないのに事件性があるだなんて考えていなかったよ。ただ、もしそれがあったら面白くなると思ってね」
 その笑顔は、自分の倫理観がおかしいのではないのかと疑ってしまうかのような爽やかなもので、ミシェルは足元から這い上がってくるように全身の毛が逆立った。確証がない。それでもその現状を知った上でツグナはあの教会に送られていた。もしかしたらツグナも、レイと同じようになっていたかもしれないのに。なにより、あいつは―――。
「あいつは腕を、なくしたんですよ?」
 口をついてでたミシェルの言葉にシアンは平然とした様子で「それがどうかしたのか?」と答える。その笑顔に反する冷酷な言葉に、ミシェルは先程からの違和感の正体が分かった気がした。一見ツグナの回復に尽くしているように見えても、それはあくまで自分が利用しやすくするための表面的な優しさでしかない。ああ、この人はきっと、本気でツグナを道具としてみているのだ。
 ミシェルは返答が思いつかず「―――いえ。なんでもありません」と目を伏せてから「そろそろ仕事に戻ります。失礼いたしました」とお辞儀をし、足早に部屋を出ていった。どうしてこうも権力者という奴は、倫理性の欠いたやつばかりいるのだろう。ミシェルは下唇を噛みしめながら、日常へと戻っていった。
 ミシェルが去った後。シアンは項垂れた頭を抑え、短くため息をついた。ドクターに言われたことが後を引いているのだろうか。表立ってあんなことを言ってしまうなんて、まるで認めたくないと自身に言い聞かせているみたいだ。俺らしくもないと、シアンは気を取り直すようにして再びミシェルの手紙に目を通した。
 事件の裏側にいたヴェリトリアという謎の存在。正体は不明だが、以前王都付近の教会であった事件と類似していることから、一貫してヴェリトリアの仕業とみてまず間違いないだろう。そういった非現実的なものは信じない主義だったのだが、自分の身近で起こったとなれば必然的に認めざるを得なかった。奴が余計なことをしてくれたせいで、当分ツグナは使えそうにない。今後は奴らのような存在にも注意して、なるべく関わらないように最善を尽くさなくては。
 とはいえ、奴のおかげでツグナの力の法則性を見つけることが出来たのだから、全てが余計なこととは一概に言えなかった。
 肝心な時に限って力が出ない―――これに関してはラヴァル卿の時から疑問に思っていた。地下で拘束されている時、あいつは俺に助けられるまで自分から抜け出すことが出来なかった。今回も同様に助けられるまで鎖から抜け出すことが出来なかったらしい。けれど抜け出した途端、通常通りの力に戻っている。つまり、ツグナの力の弱点は、拘束器具、暗室や閉所などのトラウマを彷彿させるものに対する極度な恐怖や怯えだ。あいつの力は感情によって左右されている―――これが分かっただけでも十分な収穫と言えるだろう。過去にあった事件との繋がりを信じて今回教会に送り付けたが、本当に俺は運がいい。これで更に使い勝手が良くなると、シアンは脱力して椅子の背にもたれかかった。
「あ、やっと見た」
 寄りかかったことで目の前に立っていた白髪の人間と目が合う。シアンはギョッと目を見開き、跳ね上がるようにして肩を上下に揺らした。先程まで考えていた人物が目の前に現れ、シアンは何故こいつがここにいるんだと思いつつ「何か用か」と問いかける。ツグナはその答えに怒りの如く眉をひそめながら「お前が呼んだんだろ」と声を低くして悪態をついた。
 呼んだ? そんなはずはとシアンは考えながら「いや、呼んだ覚えはないけれど」と答える。本当に覚えがないシアンの顔にツグナは「でも、ミシェルが呼んでいるって」と戸惑うように眉を下げた。あの女デマを流したなと思いつつ、その経過を言うのも面倒なので「そういえばそうだった」とシアンが笑顔で返すと、ツグナはそれを聞いて「やっぱりそうじゃねえか」と目を釣りあげる。
「いや、君が起きたら話をと思っていたんだ。まさかこんなに早く目が覚めるなんて」
 シアンは笑顔を浮かべたまま、いつも通り適当な事を言って誤魔化す。ドクターに散々言われたこともあって、正直今こいつとは会いたくなかったのだがと、眼前で不機嫌そうに凝視するツグナを見つめた。
「そう言えば、君はその腕でどうやって入ってきたんだ?」
 腕の形をなさないぶん薄くなったシャツの袖はだらしなく伸びきっていて、少し動いただけでもその場でユラユラと揺れた。シアンの言葉にツグナは「あー」と間延びした返事をして、目線を逸らしながら口を開く。
「この部屋の前で、ミシェルに呼び止められたんだよ。それでお前が呼んでいるって言うから、ついでに開けてもらった」
 お前は気がつかなかったみたいだけどと、ツグナは口角を下げた無愛想な顔で返した。考え込んでいて気がつかなかったなんて余程疲労していたんだなと、シアンは先程のミシェルとの会話を思い出しながら「そうか、不便だな」と呟く。
「まあ、確かに不便だけど……ここにいる人達は皆優しいから。それに」
 これが初めてなわけじゃないしなと、ツグナは目を伏せて言った。初めてじゃない。それはきっと実験施設でされてきたことなんだろう。以前のツグナを思い出してみれば、決して不思議なことではなかった。シアンはしばらくそれを眺め続け「君は凄いね」と言葉をこぼす。
「人間に対しての恐怖がありながらも、他人を庇うなんてさ。どうかしているよ」
「いつもの皮肉か?」
 決まり悪そうに口を尖らせて答えるツグナに「そうだね」とシアンは笑う。皮肉といえばそうだ。錯乱するほどの痛みを人間に与えられ、心的ストレスを抱えながらも、こいつはどこか前向きで、人を恨もうとは決してしない。まるで憎しみが感情からすっぽりと抜け落ちているみたいだ。どんな人間にも善と悪が存在しているように、完璧な聖人なんてこの世にはいない。だからこそ、ツグナの行動は不可解だった。
「……確かに実験施設でされてきたことは、許せないし、怖いけれど。あいつらとレイ達は違う」
「誰彼構わず怖がっていたくせに」
「怖いよ。怖いに決まってる」
 僅かに震えた語尾にシアンは「尚更理解できないね」とツグナを見つめた。でも、と俯いていたツグナは顔を上げて小さく続ける。
「お前が、変化を拒む人間は変われないって」
 それを聞いて、教会に行く前にツグナに言い放った言葉を思い出す。恐らくそれはいつものように丸め込むための言い草だったのだろう。シアンは「そう言えば、そんな事を言ったな」とツグナから目を逸らして言った。
「……僕は今まで外の世界とか、人間とか、あの恐怖しか知らなくて決めつけていた。けど、僕の知らないところで大切なものを守るために戦っている奴らがいる。奪うだけじゃない、守ろうと必死に足掻いている奴らがいる。だから、僕も決めつけないで、人と向き合おうって決めたんだ」
 真っ直ぐに見つめてくるツグナの言葉に「そりゃあ、立派だね。成長したじゃないか」とシアンは目を逸らしたまま返した。それは腹立たしさを感じられるような素っ気なさがある。
 何故こいつはこんなに純粋で素直でいられるのだろう。人が想像を絶するような痛みも苦しみも経験してきて、それでもなお人間に対して前向きな考えを持っているのが、非人間的で不気味だ。
「でも、人を守って盾になっても君が苦しむだけだろ」
「そうだけど。普通の人間の体は元には戻らないし……最悪、死ぬかもしれない」
「……呆れた。自己犠牲で自分が死んだら元も子もないだろ? 君だって不死身なわけじゃない。君のやり方は非効率で無意味だ」
 シアンは冷めた眼差しでツグナを睨みつける。ツグナはその強い口調に少し押されながらも「例えそうでも、何もしないで後悔するのはいやだ」と答えた。
「それに、僕は僕がしたいからそうしているんだ。無意味なんて思わない」
 シアンは「そう」と答えてから目を閉じる。あれだけの力を持っているのにも関わらず、傷つけるより傷つけられる方を選ぶなんて。こいつもそこまで馬鹿じゃないんだから無駄なことぐらい分かっているはずなのに。何かをするのに要領のいい方法をとれないなんて、本当に不器用なやつだ。いや、それは俺も同じなのかもしれない。
「……普通、君と同じ立場の人間だったら、全ての人間を殺したいほど恨んで、復讐しようとする。どれだけ他人を犠牲にしてでも」
「お前も、そうなのか?」
 ツグナの言葉に、ラヴァル卿の事が脳裏を過った。シアンは答えるのに数秒間を置いてから「ああ。そうかもな」と力なく笑みを浮かべる。どれだけ建前を並べて、冷静を取り繕っても、私怨がなかったと言えば嘘になる。ツグナはその答えに対して「そっか」と呟きながら目線を下に向けた。
「まあ、何はともあれ。今回の教会での日々が、君にとっていい経験になったようで良かった」
 話を逸らすように言ってみせるシアンに「腕をなくしたっていうのに、嫌味なやつだな」とツグナは睨みつけて返した。
「……でも、楽しかったよ。彼らからは色んなことを学んだ。あっ、歌も少し歌えるようになったんだ」
「へえ。君みたいにリズム感の欠片もない人間が、歌えるとは思えないけど」
 わざとらしく驚いたシアンの一言にツグナは口を尖らせながら「なめるな! 僕だって歌ぐらい歌える!」と声を張り上げて対抗する。そう言えば元々聖歌隊に入るていで教会に送り付けたんだったな。シアンはツグナの答えに「だったら、何か歌ってみなよ」と煽り立てる。 
 ツグナはシアンを睨みつけながら後退すると、足幅を一定間隔に広げて大きく息を吸い込んだ。聞き覚えのある旋律がツグナの口から流れるように溢れ出す。多少の音ズレはあったものの、問題なく歌えた筈だ。どうだと鼻を高々にしたツグナがシアンを見つめると、シアンはその歌を聞いて先程よりも驚いたように目を何度も瞬きさせている。
「なんだよ、その顔」
「い、いや。思った以上に上手くて驚いただけだ。それにしてもその歌、賛美歌の贖罪だよな?」
 シアンの戸惑いにツグナは「ああ、そうだけれど」と短く答える。そんなに調子を崩すほど上手かったか? けれど、その表情は感動しているとは少し違っているようにツグナは思えた。
「驚いた。賛美歌からも唯一存在を抹消された歌なのに。今の教会はこれを歌うのか」
「いや。これはレイが歌ってたから、教会では歌われていない」
「ああ、なんだ。そうだったのか」
 シアンは強ばる肩の力を抜いた。そんなに驚くほどこの歌は避けられるのか? 何処にも問題があるようには思えないけれど。ツグナはレイに言われた事を思い出しながら「なあ、なんでこの歌ってそんなに避けられるんだ? 別に何処にも問題はないのに」と聞いた。
「さあ? 俺も詳しくは知らない。ただ、その歌は数年前に賛美歌から抹消されているはずだ。だから、未だに歌える人間がいるなんて驚いたのさ」
「じゃあ、なんでお前はこの歌が贖罪だって知っているんだよ」
「それは……」
 ツグナの言葉にシアンの動きが止まる。しばらく黙り込んでから「母さんが、歌っていたから」と小さく呟いた。珍しく答えた瞳が動揺を隠すように他方を向いている。
「昔、よく母さんが歌っていて。それに俺もヴァイオリンで合わせて……」
「ヴァイオリン? ってなんだ」
「ああ。弦楽器の一つだよ。弦に刺激を与えることで音を奏でるんだ」
「今はないのか?」
「いや、ないわけじゃないけれど」
「見たい」
 ツグナは好奇心の溢れる瞳でシアンを見つめる。シアンは嫌そうに顔を顰めたが、ツグナの瞳に負けて「ちょっと待ってろ」と答えると、アンティークチェストの下から埃のかぶった洋梨型の黒いケースを取り出した。手で軽く埃を払ってから「これだよ」と言ってツグナの前に見せつけるように差し出す。ツグナがそのケースをまじまじと見つめていると、シアンはその箱をツグナに向けて開いて見せた。中には未だ光沢のように艶を光らせる、美しいヴァイオリンの姿がある。十数年経っても、その輝きは当時のように色褪せなく残っていた。
「ここに弦があるだろ? これをこの弓で擦って音を出すんだ」
「へえ、綺麗だな」
「触りたいなら触ってもいいけれど、そう言えば今はダメだったね」
 シアンは目を輝かせてヴァイオリンを見つめるツグナを鼻で笑うようにして言った。楽器は教会にいる時にパイプオルガンを見たのが初めてで、このヴァイオリンで二つ目になる。あの時も音が出る仕組みが気になってパイプオルガンの周りを観察したものだ。このヴァイオリンはどんな音が出るのだろう。ツグナは好奇心が膨れ上がって体の芯を疼かせた。
「なあ、お前これ使えるなら何か演奏してみろよ」
「いや。それは……第一、もう何年も前だ。今は弾ける自信がない」
「ふうん、本当は使えないんだ」
 ツグナは口を緩ませて、煽るようにシアンの顔を覗く。その安い挑発が気に食わなかったのか、シアンは眉をひそめてケースからヴァイオリンを取り出した。ケースを書斎デスクの上に置いて「少しだけだからな」とツグナを見つめると、ヴァイオリンの本体を顎と肩で挟んで安定した構えをとる。ヴァイオリンを弾くのはあの日以来か。
 シアンはしっかりと弦を見つめながら、弓で弦を引くように擦った。いつまでも空間に残るような独特な音が部屋に響き渡り、ツグナは音の心地良さに思わず目を瞑る。情熱的なのに穏やかな旋律が自分の体の中に反響して、心が洗い流されているみたいだ。何故だか分からないが、音楽には感情を高ぶらせる何かが秘めている。その気持ちは久しぶりに音を奏でたシアンも感じていた。ツグナは思わず目を瞑りながら、先ほど披露したばかりの贖罪の出だしを口ずさみ始める。
 こいつ、少しだけだと言ったのに。シアンはヴァイオリンを弾きながら顔を歪ませたが、ツグナの歌声を聞いているうちに、いつの間にか自分もメロディーを合わせ始めていた。二つの音は混ざり合い、一体化して屋敷中に響き渡っていく。
『上手になったわね、ルーキス』
『奥様のために、ずっと練習していたんですよ』
『あら、エリナさんのためじゃなくて?』
『なっ、やめてくれよ。母さん! 僕は―――』
 ヴァイオリンの音色が自身の頬を優しく撫でる。当時の自分が二人にされたように。その心地良さに、シアンの顔はいつの間にか綻んでいた。
「おや。これはなんて懐かしい」
 屋敷の人間達はヴァイオリンの音色に耳を傾け、口々にそう言った。同様に足を止めて、それを聞いていた執事の頬には涙が伝う。
 暫くして全て歌いきると、二人は互いを見つめて黙り込んだ。シアンは自身の行いに信じられないと目を見開く。あの事件のショックでずっとヴァイオリンに触る事さえやめていた。なのに、こいつの歌のせいで母に合わせていた癖がつい。そう考えて固まっていると、先程から黙り込んでいたツグナから「凄い!」と感嘆の声が上がった。
「歌が音と重なって、なんかこう……聞きやすくなった! 合唱みたいに!」
「当然だろ? 俺が君の歌のメロディーに合わせて弾いたんだから。別にこんなの当然……」
「とてもいい音だった! ……よく言い表せないけど! まだドキドキしてる! お前弾けないって言ってたけど、嘘だったんだな」
 ツグナは残念な語彙力で精一杯感動を表そうとしている。未だ熱の冷めない感動に身振り手振りをするツグナを見たシアンは、何度か瞬きを繰り返してから急にヴァイオリンをケースにしまうと「もう終わりだ」と言ってケースを閉めた。
「は? なんだよ、折角褒めているのに」
「はいはい。残念な語彙力でそりゃあどうも。もう、用事終わったからさっさと部屋に帰れ」
「はああ? 珍しくお前に感動したのに! お前本当にそういう所だぞ! 僕の貴重な感動を返せ!」
 文句を言うツグナの背中を無理矢理押しながら部屋の扉の前まで来ると、シアンはツグナを容赦なく部屋から追い出した。
「では、今日はゆっくり休んでくれ」
 シアンは扉を閉めると、脱力した腕をふらふらさせながら扉にもたれかかった。扉の向こうからはツグナの怒号が聞こえてきたが、暫くして不機嫌に足音を鳴らしながら去っていく。その音を聞いて安心したかのようにシアンはずり落ちて蹲った。
 どうしてこんなにイライラするのだろう。腹立たしさが膨れあがり、どうにかなってしまいそうだ。なのに、あいつと合わせていた時、不覚にも楽しんでしまっている自分もいて感情がうまく定まらない。何がしたいのか、自分でも分からなくなってくる。
『君は彼と自分を重ねているんだ』
 ドクターの言葉を思い出して、シアンはギリ……と下唇を強く噛み締める。違う。あいつはただの道具であって、それ以上にはならない存在だ。いつでも切り捨てられる都合のいい道具だ。そんな道具にかき乱されるなんてあってはならない。こんなの、理想じゃない。もっと冷酷に、情なんて必要ない。大切なものを守るためなら、非道な人間だって演じてやると、そう誓ったはずだ。
「俺は正しい。間違っていない。間違っていない……」
 シアンは膝を抱えて小さくなると、自分に言い聞かせるようにして繰り返しそう言い続けた。
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