SOLNEFIA(ソルネフィア)

森永らもね

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第一部 二章 教会編

12 聖歌隊(挿絵あり)

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 遠くから朝の説教とやらを唱える声が聞こえてくる。その言葉の意味を理解することはできないが、何重にもなって唱えられる人々の言葉は白髪の少年に一日の始まりを告げた。開いた本を顔に乗せ、少年は二人掛けの革ソファに仰向けになりながら、耳に残っている言葉を小さく詠唱する。
「幸があれば共に享受し、痛みは共に分かち合おう」
「忘れるな。汝の中に我がある限り、我は汝と共にある」
 聞き慣れた声と同時に、顔を覆っていた本が持ち上げられたことによって、声の主と目が合う。逆さまになって見えたそいつは自分を覗き込みながら、呆れたように目を細めていた。皮肉げに歪められた口元に、細められた青の双眸は、自分の主人にあたるシアン・ブラッディのもので間違いない。
「ヴァルテナ神書第二章十三節。今朝の礼拝部分だ。また朝の礼拝に来なかったね、ツグナ」
 名前を呼ばれた少年、ツグナは不機嫌そうに「返せ、まだ読んでいる」と寝起きのような声で反抗しながらその本に手を伸ばした。しかし、声の主であるシアンが上半身を起こした事で、本は手の届かない位置にまで離される。
「全く。毎回、俺の先回りをするなよ。そんなに俺に会いたいのか?」
「……別にお前が目的じゃない」
 いいから返せよと、ツグナは起き上がりながらシアンを睨みつける。この部屋は一階にある書斎であり、シアンの仕事部屋のようなものだ。立派な本棚が壁に沿って敷き詰められていて、部屋の中央には革ソファとテーブルが置いてある。

 ラヴァル卿の一件から数十日。心に余裕が出てきたツグナは、暇さえあればこの部屋に足を運ぶようになっていた。自室に引きこもっていたことを考えれば、成長したと言える。が……
「返せも何も、これは俺のだ。随分、生意気になったな……ビクビクしていた時の方がまだ可愛げがある」
「自分の気持ちを表に出せる方がいいってお前が言ったんだろ」
 何が不満なんだとツグナは口を尖らせる。あれ以来、ツグナの感情表現はだいぶ幅広くなった。ハッキリ「嫌だ」と伝えられるようにもなり、かえって扱いづらくなったとシアンは嘆息する。そんなツグナは現在、反抗期真っ盛りだ。
「そう言った自分を今では後悔しているよ……それで? 礼拝に参加しない君が何故今更神書を?」
 開かれたページに目を落とす。そこには、おぞましい悪魔の絵が描かれていた。ツグナは思わず「ち、違う」と口を開く。
「僕の目が、その。悪魔と同じだって言われて……だから」
「誰に言われたんだ?」
「……ら、ラヴァル卿」
 舞踏会に行ってから、自分の目が異常なことを初めて知ったので、あれからツグナの中で自分の目が少しだけコンプレックスのようなものになっていたのだ。悲しそうに目を伏せながらツグナは更に続ける。
「おかしいんだろ? 舞踏会の時にも言われたし……お前だって名前つける時、血のようだなんて変に禍々しい例えだったもんな」
「なんだ。今更不服でも?」
「そうじゃなくて。ただもっと、その……ラヴァル卿が口説いていたみたいに綺麗な表現はできなかったのかよ」
 言葉を濁し、不貞腐れたように外方を向く。普段は無神経で自身のコンプレックスなんかに目もくれないような人間が、恐怖の対象である人間に指摘されたことによって、新たな恐怖を生み出してしまったのだろう。やっと人間に対する恐怖心が薄れてきたのに、余計なことを言ってくれたものだ。シアンは面倒そうにため息をついてから、開いていた神書を閉じる。
「はあ……君は俺に口説かれたかったのか?」
「そ、そういう訳じゃなくて……なんで血に例えたんだよ……って。やっぱりお前も僕が悪魔だと思ったのか……? 悪魔は悪いやつなんだろ……?」
 今更掘り返してくるとか女かよ、とシアンは眉をひそめた。
「別に嫌がらせで血に例えたわけじゃないよ。血っていうのは君の心臓を動かすために必要不可欠なもの、言わば生きるのに重要な役目を果たしている。当時の君はまるで死人のようだったのに、目だけが異様にギラギラと光を帯びていて、強い生命力を感じさせられた。純粋無垢の中にある自己主張の激しい赤って感じでさ。ああ、こいつは生きているんだって思ったよ。そんな君の目を宝石だとか着飾られた綺麗な言葉で表現するのは、もったいない気がしたのさ」
   まあ、今思いついたのだが。単純なこいつなら、鵜呑みにしてくれるだろう。案の定ツグナはまだ疑念を振り払えていないようだったが、納得する意思を見せ始めていた。
「ふうん……それって本当か?」
「勿論。名前はその人間を証明する大切なものだからね。それに、血も痛みも、君が人間である事の証だ。自分を巡り動かす血はその為にある」
   ツグナの心臓部に自身の拳を押し当てながら、シアンは微笑んだ。血は人間だという証、か。胸に押し付けられたシアンの拳によって自分の鼓動をはっきりと感じながら、ツグナはその言葉を刻むように何度も頭の中で繰り返した。
「そう言われれば、悪くないかも……」
「ははっ、単純な奴」
「う、うるせえ! ……ばか」
   すぐさま声を張り上げて言い返すが、シアンは幼い子供を宥めるように「はいはい」と適当に流しながら、閉じた神書をツグナの頭上に乗せると、仕事机と向き合うように座った。
   そういえば、このクソガキを拾って三ヶ月が経つ。心の傷が残っているものの、来たばかりの頃の錯乱状態は特になく、現在は投薬に頼らず自力で立ち直れる程にまで回復した。舞踏会以来、他人との接触も少しずつできるようになってきたし、そろそろ治療の総仕上げといきたいところだ。シアンは眺めていた今朝の新聞から目を離して、先程と同じように神書を読むツグナを見つめる。
「なあ、ツグナ。最近屋敷の人間とはどうだ? 上手くやっているか?」
「……まあ、前よりは」
 本から目を離さずにツグナは曖昧に答える。とはいえ、朝の礼拝に顔を出さないところを見ると、相変わらず多くの人間と長時間いるのは苦手のようだ。食事も未だ他の人間と取りたがらない。何をするにしても、シアンを経由する日常をツグナは送っていた。
「ああ、でも一人だけ……」
 思い出したかのように口を開く。それとほぼ同時にドアをノックする音が鳴った。この時間帯なら執事だろう。そんな考えから、ツグナは安心して変わらず本を見つめていたが、シアンはドアの向こうにいる人間が執事でないことを察したようなのである。素早く手元を片付けてから「入れ」と放った。
「失礼致します。シアン様、今朝の配達分を持って参りました。あと紅茶のご用意も……」
「ああ、すまない。助かるよ」
 普段よりワントーン高めの作り声で入ってきたのは、栗毛のツインテールをしたメイドの一人だ。ツグナは「うっ」と声を漏らしながら、顔を顰蹙させて嫌悪を表す。その人物はソファに横になっているツグナを視界に捉えるなり、ヘーゼルの瞳を不機嫌に細めた。鼻から両頬に散らばる褐色の斑点によって頬を染めて怒っているように見える。
「あっ! 部屋にいないと思ったら、こんな所にいたのねクソガキ! その汚い足をソファから下ろしなさい! 掃除するの誰だと思ってんのよ!」

 くるぶしまでくる長いメイド服に身を包んだ女性は崩れた言動で、ツグナに叱責を浴びせる。「……お前かよ」ツグナはボソリと呟いて、目を逸らした。
 彼女はブラッディ家に仕えるメイドのミシェル・ベイカーだ。メイドとしては申し分ない程に優秀な人材だが、些細な事にも気を許せない神経質で幼稚な性格の為、ブラッディ家の使用人という立場ながら何もせずに自堕落に過ごしているツグナを目の敵にしている。何かと小言を言ってくるので、あまり人と関わりたくないツグナにとっては苦手な人物だ。最近自室に籠らなくなったのもつい先日、世話係を担当する事になった彼女から逃げるためである。
「ちょっと! 無視してんじゃないわよ! 言うことを聞きなさい!」
「さ、触るなよ! 第一、ちゃんと足は洗っているからそんなに汚くない!」
「靴履いたまま足上げてるから汚ねえって言ってんだよ! それでなくてもあんたの靴は泥まみれなのに!」
 ソファに仰向けになっていたツグナの足をミシェルは無理矢理掴む。それに対し、ツグナは怯えよりも怒りが強い声で暴れながらミシェルに反抗した。ある意味ツグナがここまで激情するのも、シアン以外で心を許せていると言えるかもしれないが、この場合は喧嘩するほど仲がいいとはならないだろう。シアンは最早屋敷の定番となった二人の喧嘩に、分かりやすいように咳払いをした。
「配達物があると言っていなかったか? それとも、わざわざそのガキと口喧嘩をしにここへ?」
「も、申し訳ございません。ただいま」
 ハッとしてから、ミシェルは控えめに笑って誤魔化すと、木製のワゴンを押してシアンの方へと向かった。持ってきた木製のワゴンから今朝の配達物を取り出し「これが午前の分です」と受け渡す。
 自室からわざわざ好きでもない本を理由にツグナがこの部屋に来るのは、ミシェルがシアンの前だと大人しいからだ。今でこそあっさりとしているが、自室にいるミシェルはとにかく文句がしつこい。掃除をさっさと終わらせて、残りはツグナの文句に時間を使っているようなものだ。働きが優秀なので、誰も彼女の幼稚な気質に気づけないというのが、また更にタチが悪いと言えるだろう。
    シアンが手紙に目を通している間、ミシェルは紅茶を注ぎながらツグナを憎らしそうに睨み続ける。主の前では何も出来ないだろうと調子づき、ふんっ、と嘲笑のような不機嫌な息がツグナから漏れた。
「はあ、こんな時に」
 手紙のうち一枚を見てシアンは思い詰めたように呟く。いつになく、迷いに満ちたその瞳にはどうすることもできずに放心する指先が映っていた。しばらくして、甘い香りとともに湯気を立ち上らせる紅茶が目の前に出されたので、落ち着きを取り戻すかのように何度かかき回してから紅茶を口にする。
 紅茶の温かさに落ち着き、目線を元に戻すと、二人が互いを睨み合っている光景が映し出された。空間にはついに火花が散る幻までもが見える。ツグナはまだしもミシェルは確か自分と同い年のはずだが。仲の悪い二人の様子に呆れながらも、シアンは悩んでいることが馬鹿馬鹿しいように思えた。
    ふと、視界の端に映った今朝の新聞を見つめているうちに、シアンは何かひらめいたかのように口角を上げた。その表情は吹っ切れた、何かを決意した男の目をしている。
「すまない。ツグナと二人にしてくれないか。話がある」
 穏やかな口調で言い放つと、ミシェルは気に食わなさそうにツグナを睨みつけてから「分かりました」と切り替えるように笑顔を浮かべ、木製のワゴンと共に部屋を出ていった。眼前には不機嫌なツグナが取り残されている。
「なんなんだよあいつ……」
「いちいち反応している君も君だぞ」
「仕方ないだろ! あっちから絡んでくるんだ!」
「あのな……舞踏会の前に女性についてのマナーも教えただろ? もっと紳士的にだな」
「うるせえ! お前も大して紳士じゃないくせに紳士ぶるなよ! エセ紳士!」
 未だ激昂が収まらない様子でツグナは声を張り上げて反抗する。シアンはソファまで歩いてくると、笑顔を浮かべながら「とりあえず、落ち着いて話を聞いてくれないか」とツグナの頬を鷲づかんで無理やり自分の方へと向かせた。
「最近の君は生意気で目に余ると言っているんだ。心の傷が治まってきて、人に対して慣れ始めているのはいい事だが、君の場合それが裏目に出てきている。これでは、君の過去に免じて目をつぶってきた俺もフォローしかねない」
「なんだよ……」
 人の頬を鷲掴みにする上にクソガキ呼ばわりするやつが紳士なわけあるかと、未だ反抗する目でツグナはシアンを睨みつける。ここまで口悪くなったのも、ミシェルと絡むようになってからだ。
 今までシアンは心的ストレスを抱えているツグナに強い恐怖を与えないようにと、慈悲的な気持ちで甘やかしていた。しかし、そういった甘さが現在の自由気ままで生意気なツグナを作り上げてしまったのだろう。これでは本来の治療目的とは逸れて、ただ扱いづらいだけだ。
 なによりも、主である自分に反抗してくるのがおおいに気にくわない。本来の主従のあるべき形とは、相手に選択肢を与えない主の支配力によって成り立つものだ。少し教育を間違えたなと、シアンは睨みつけてくるツグナを見て思った。
「そこで、今から一週間後。君にはここで過ごしてもらう」
 そう言ってシアンは鷲づかんでいた手を離すと、今朝の新聞記事の一つをツグナに突き出して見せる。ツグナはだいぶ読めるようになった文字を怪訝そうに見つめてから「せいかたい?」と眉をひそめた。
「聖歌隊というのは教会の礼拝で賛美歌を歌う集団のことだ。この街の教会にも聖歌隊があってな。月に何度か聖歌隊が街を歩いて賛美歌を披露するんだ。たまに貴族の屋敷にも訪れる。そうして資金を集めて孤児院を経営しているんだ。幼い頃何度か聞きに行ったが、なかなか惹き込まれる美しい歌声だぞ」
「……つまり?」
「君も聖歌隊に加わるんだ。聖歌隊は孤児院の子供たちで形成されているようだから、つまり君も孤児院に入ることになるな。見知らぬ人間と過ごす事で、協調性を知ることができるし、いい機会だ。君は人に対してもう十分慣れてきただろ? 生意気になれるぐらいには恐怖も薄まってきている。これを乗り越えられれば、君の完全回復も夢じゃないぞ」
 その提案にツグナはますます顔を歪めた。シアンはいつも突拍子もない事ばかり言い出す。確かに舞踏会以降、人には慣れてきたし、ここまで回復の手助けをしてくれたシアンにはなんだかんだと感謝しているつもりだ。けれど、今回に至っては少し無茶苦茶なのではないだろうか。第一、舞踏会を乗り切れたのだってシアンがいたから……とツグナは眉を下げて明らかな不安を顔に映した。
「い、嫌だ。確かに邸の人達は慣れてきたけど……そんなよく知りもしない人間と話すのは……こ、怖いし」
「へえ。舞踏会の時、君は俺がいなくても人と話すことが出来ただろう? トラウマというものは自らの努力次第で克服できるものなんだ。向こうから変化が来ると期待している人間の元に、決して変化が起きる事はない。ましてや、そんな変化に自ら怯えて拒む人間が変われるはずもない。やりもしないで何故無理だと分かるんだ」
「わかるよ……お前はいいよな。なんでもできるから、どうせ僕の気持ちなんて分からない」
 そこまで言ってから、ツグナは眼前の人物の表情に背筋が凍った。見下したような、冷めた目でシアンはじっとツグナを見下ろしている。今までにないシアンの表情に、ツグナはひゅっと喉奥が絞まり、思わず目線を下にした。
「ああ。君には本当がっかりだ」
 腹底から轟くような低く、威圧的なシアンの声が刺さり、ツグナは顔色を伺うように目線をゆっくりと上げていく。
「君は自分の立場をまるで分かっていない。本来俺はそこまで人を甘やかす人間じゃないんだ。言うこともろくに聞かず減らず口ばかり叩かれても許してやっているのは、可哀想な君への慈悲だ。だが、世間は転んでも手を差し伸べてくれる人間なんかいない。自分で立ち上がらなくては一生誰かの踏み台だ。……たまには、世間というものを知って打ちのめされるがいいよ、君は」
「でもっ……」
「でもじゃない。というか俺が言っているんだから、行け。前にも言ったろ? 君に拒否権なんて与えていない」
 先程とは違って意地悪な笑顔を浮かべたまま、シアンはただそう口にする。いつになく厳しいシアンにツグナは言い返すこともできず押し黙らせられた。いや、先程のシアンの表情もあって、怯えていたからなのかもしれない。
 けれど、今目の前にいるのは通常運転の横暴なシアンだ。こいつ、女には優しいくせに。さっきのはなんだったんだという驚きもありつつ、少しだけ心に余裕が生まれたツグナは言い返そうと口を開く。
「それか、また君を女装させてアデラおばさんに挨拶にでも行くか。丁度、おば様から屋敷に来ないかと手紙が届いているみたいだしね。勿論フィアンセの君も一緒にと」
「うぐっ」
 手紙を見せびらかすシアンに、ツグナは思わず開きかけた口を閉じた。シアンはことあることに自分の嫌がることばかりを思いつく。一枚上手というか、性格が悪いというか。そこがシアンの強みになっているのはまず間違いないだろう。
 何が紳士だ、エセ紳士め。そんな選択肢になってしまえば、答えはもう決まったも同然じゃないか。ツグナは嘆息と共に肩を落胆させた。
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