SOLNEFIA(ソルネフィア)

森永らもね

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第一部 三章 ヴェトナの悪夢編

29 少女の願い

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「まずは、ここから脱出しないとな……」
 死体で人形ごっこするような人間である以上、ママがまともでないことは確かだ。脱出するなら、鉢合わせすることだけは避けないといけない。ふと、そこまで考えてから、視界の端に居座り続ける暗闇が意識を覆い隠そうとし、ツグナは思わず地面に膝をついた。大丈夫? とグレーテが歩み寄り、覗き込む。
 一番の問題は今の自分の状態だ。歩くのもやっとで、時折襲ってくる目眩に気を失いそうになる。この状態でママに見つかったら逃げることはまず出来ないだろう。唯一、血が止まってくれたことが幸運といえるか。あとは失った血さえ回復すればと、いつの間にか塞がっていた凸凹の残る首筋の傷を抑えて思った。
 そういえば腕の火傷も目を覚ます前よりだいぶ良くなっている。自身の回復能力に流石だと感心する一方で、人間じゃないみたいだと自分が怖くなった。
「痛いの?」
「あ、いや。違うんだ……それより、ママが今どこにいるか、分かるか?」
 心配するようなグレーテの一言に、ツグナは慌てて話題を逸らす。ママの命令とはいえ、傷を作ったのは自分のせいだと落ち込ませたくなかったからだ。とはいえ、グレーテは特に気にしていないようで「多分、そろそろお風呂の時間」と答えた。
「お風呂?」
「うん。血に浸かるの」
 木樽の方を振り返ってグレーテが答える。声色一つ変えずに放たれたその言葉の意味を、ツグナは一瞬理解できなかった。数秒程間を置いてから「……は?」と声を漏らす。
「なんで血に……」
「美容にいいんだって」
 なんの疑問も持たずに平然と答えるグレーテに「……頭おかしいんじゃないのか」とツグナが吐き捨てた。死体を人形扱いするだけじゃなく、血に浸かるだなんてどうかしている。ママの異常さを改めて実感し、やっぱり次に会ったら最後かもなと身震いした。
「この間部屋に戻ってるから、よく分からない」
「ああ、そうか。さっき言ってたな……」
 そこまで口にしてから、先程のグレーテとママの会話を思い出す。ママとは、俗に言う母親のことを指す言葉だと聞いていた。その母親が自分の子供に「貴方の顔なんて見たくない」と言うのだろうか。シアンから聞く母親像はもっと暖かくて、優しかったのに、その言葉は酷く冷酷で、上手く噛み合わなかった。
「なあ。お前って、ちゃんとママから愛されているのか?」
 実の所、ツグナのイメージする「母親」がシアンから聞いたもので構成されているため、母親というものを完全に理解しているわけじゃなかった。だから、こんなに抽象的な問いかけを投げてしまったのだろう。愛されてる? とグレーテは聞き返した。
「なんかこう……大切にされているのかなって。醜いとか、外に出るなとか……お前は嫌じゃないのか」
 口に出すことさえ申し訳なさそうに目を逸らすツグナに「醜いのは、私が悪いんだよ」と平坦な声でグレーテが答えた。
「私が悪い子だから。ママが私の顔をとったの。でも、ママは優しいから、許してあげるって顔を縫ってくれたの」
「とるって……まさか。顔の、皮をか?」
「うん。でも、元には戻らなかった。私が悪いから」
 歪に縫われた顔を見て、ツグナはただただ目を見開いた。ここに来てからは信じられないことばかりを聞く。これがこの子にとっての常識なのか? 怒りとも悲しみとも言い難い複雑な感情に「違うよ!」とグレーテの肩を勢いよく掴んだ。
「顔の皮をとるなんて普通はしない! 人間なら治らないのが当然だ! お前は悪くない!」
 必死に訴えかけるが、やはりグレーテには伝わっていないようだ。首を傾げ、また混乱したように瞬きを重ねている。まるでこっちが間違っているのではないのかと思わせられる程に。ツグナは唇を噛み締め、溢れ出そうになる涙に耐えながら「決めた」とその場から立ち上がった。
「絶対にお前をここから連れ出す。グレーテ、お前はここにいちゃ行けないんだ」
 固く誓うように改めて意を決すると、ツグナは力の入らない足でその場に踏ん張った。連れ出すも、ここにいちゃいけないの言葉もグレーテの耳には素通りしていくが、とある単語にだけ反応を示す。
「なんで、グレーテ?」
「ああ、えっと。さっきママがお前のことそう呼んでただろ? だからてっきり名前かと……」
 違ったらごめんなと、付け足すようにツグナが呟いた。自分とあまり変わらない年齢のように思えるが、仕草や言動のせいで自分よりはるかに幼く見える。ふるふると首を振り、グレーテは「違くないよ」と返した。
「そうか。良かった……今更だけど僕はツグナ・クライシス。よろしくな」
「ツグナ、くらいしす? なまえ?」
「そう。ツグナが名前だ。えっと……それより、ママから見つからないように出たいんだけど、いい抜け道を知らないか?」
 部屋の大きさから見ても、建物全体が広いと分かる。居場所がはっきりしていない以上、下手に動くのは危険だ。それに、いつ倒れるか分からないこの体では逃げることも素早く身を隠すことさえもままならない。絶対にママから見つからないルートで出口に向かう必要があった。
 グレーテは「ママに見つからない……」を繰り返し、部屋の隅に歩みを進める。その背中を不思議に思いながらツグナがついて行くと、グレーテは壁際で立ち止まり、蹲った。グレーテの見つめる先をツグナが覗き込むと、そこには格子のはめられた狭い入口がある。
「これって通風口か?」
 グレーテと並んで屈むと、ツグナは格子の先をじっと見つめた。ブラッディ家でも目にしたことがあるが、人一人通れるほどの大きさは初めて見る。好奇心のようなものが沸き上がり、少しだけ感動していると、グレーテは慣れた手つきで格子を上に開いた。その隙間から一匹のネズミが飛び出してくる。
「ママ、この子見つけると水に沈めて殺しちゃうの。けど、ここを通れば、ママに見つからないから。見つけたらここに帰してあげるの」
 出てきたネズミを手のひらにのせ、グレーテは興味津々にじっと見つめる。ネズミは二本足で立って周囲を警戒するように鼻をひくつかせると、グレーテの手から飛び降り、一目散に駆け出した。優しい子だと感心しながらツグナがそれを目で追うと、ネズミは反対側の通風口へ入っていく。
「そうか。通風口なら、この建物全体に通じている。見つからずに出入口にいけるかもしれない、けど……」
 衛生面を考えたら、ネズミの通り道を抜けるのはあまり良くない。ネズミは流行り病を運び、食物をダメにし、ブラッディ家でも駆除対象に入っている。けれど、今はそんなことどうでもよかった。伝染病にかかるにしろ、どの道ここからでなければ死ぬ。ツグナの決断は早かった。
「いや。今は考えている場合じゃないよな。とにかく、進もう」
 真っ直ぐに中を捉えて、グレーテとツグナは順に通風口の中へと入っていった―――という出来事が、今から一時間前のことである。
「はあ……はあっ、はあっ……」
 這い出すことで心臓に負荷がかかっているのか、ツグナの容態は悪くなる一方だ。糞尿の臭いが入り交じったこの空気にも少なからず体力が削られている気がする。襲いかかる貧血と臭いに息を荒らげ、何度も意識が飛びそうになった。覚悟はしていたが、このままでは本当にここから出る前に死を迎えることになりそうだ。
 ふと、とある部屋を通りかかったところで独特の臭いが鼻を掠めた。通風口のなんとも言えない異臭に混じっているが、確かにこの部屋から漂ってくる。なあ、待ってくれと、ツグナは前を這っているグレーテを引き止めた。
 部屋に誰もいないことを確認し、格子を押し出すように開けると、新鮮な部屋の空気を胸いっぱいに吸った。通風口から這い出し、周囲を見回す。
「やっぱりここ、食料庫か……」
 フラフラと立ち上がり、ツグナは棚に置いてある円形状のチーズや干し肉を見つめた。しっかりとそれらを認識し、素通りして大きな木樽を覗き込む。中は水が入っていて赤い果物が沈んでいた。ブラッディ家で見たものと同じだ。
 果物は駄目にするなと罪悪感に苛まれながらも、ツグナは中に手を突っ込み、肘まで手を洗う。そうしてから「少しだけいただきます」と吊るされた肉を手に取り、躊躇なくかぶりついた。ツグナに連れて通風口から這い出してきたグレーテは「おなかすいたの?」と首を傾げる。
「いや、そうじゃないけど。前にシアンが言ってたんだ。食べて血肉をつけろ。食べることは生きることだって……もしかしたらこれで、血が元に戻るかもしれない」
 そんな簡単に失われた血が戻るとは思わないが、切断された腕が生え変わる体だ。今は自分の回復力を信じて、なんでも行動に移してみるしかない。
 手当り次第口に詰め込み「お前も食べるか?」とツグナは干し肉を差し出した。断ることも出来ずにそれを受け取り、グレーテは角度を変えて見つめたり、匂いを嗅いだりする。ちらりと食べ続けるツグナを横目で見つめ、真似をするように口にし、ぎこちない様子で顎を動かした。
「ふう、流石にお腹いっぱいだな。そろそろ行くか」
 心做しか握りしめた手に力が戻ったような気がする。これで少しは元の調子になるといいんだがと、ツグナは通風口に入った。
 一方グレーテは半分以上も残した干し肉を手に、食料庫を駆けていくネズミを目にする。追うように入口付近に歩みを進め、入口手前でチーズの欠片を頬張るネズミに「これも食べる?」と干し肉を差し出した。
 グレーテと顔見知りなのか、ネズミは警戒心もなく差し出された干し肉の匂いを嗅ぎ、何度か首を傾げるようにしてから齧りついた。
 ぐしゃり。
 黒い影がグレーテに重なった瞬間、踵で強く圧力をかけられたネズミは、内臓を散らしながら勢いよく弾け飛んだ。 
 丸々とした目玉は飛び出し、その小さな体に備わっていた器官と赤黒い体液が僅かに入った外の光を反射して艶を帯びている。グレーテは無惨に散ったソレを目に映してから、ゆっくりと顔を上げた。その背中を格子の中から見ていたツグナは徐々に目を見開いていく。
「醜いものは嫌いだわ。この薄汚いネズミもね。見つけたら殺すように言っているのに、本当に言うことの一つも聞きやしない」
 靴裏についたネズミの肉片を地面に擦り付け「こんな所で何をしているのかしら、グレーテ」と女が見下ろした。ママ、とグレーテの返しに、ツグナは改めてその人物を見つめる。
 中分けされた、腰までくるくせっ毛の黒髪に細身の体型。鋭く細められた紫の垂れ目は長いまつ毛に縁取られている。美醜に疎いツグナでさえ、その整った人形のような顔立ちに綺麗な人だと息を飲んだ。この人がグレーテの顔を剥がし、血の風呂に浸かっている「ママ」だというのか。
「どうしたの?」
「それはこっちのセリフよ。血を取りに行ったら、赤目の子がいなくなっていた。それで、事情を聞こうとあなたの部屋に向かっていたら、こんなところでネズミと戯れている」
 どういうことか説明してちょうだい、と腕を組んで見下ろした女が言った。まずい。僕を探しているのかと、ツグナは格子の中で鼓動を早くさせる。
「ごめんなさい。ここにいたら、ネズミさんがいたから」
「へえ。何故あなたが食料庫にいるのかしら? 私は部屋に戻るように言ったはずだけれど」
 誤魔化そうとするグレーテに、早くも女が疑問を投げかける。先程、ツグナの質問にも正直に答えていたところを見ると、グレーテは嘘をつけない性格のようだ。
 その性格を知っているのか、女は「まさかとは思うけれど。あなた、赤目の子を庇っているなんてことはしていないわよね?」と口角を上げて更に続けた。ツグナは目を逸らし、諦観したように下唇を噛み締める。
 もし見つかったらどうなるだろう。部屋にいた子供たちのように血を抜かれて、意識を失って、本当の人形のように動けなくなるのか? 何も考えられず、痛みにも叫べなくなった自分を、人形として売りに出され、貴族に買われるのか―――? もう、小さな喜びに涙を流すことも、あいつらの皮肉に怒ることも、それらを思い出すことでさえ―――出来なくなるのか? 
 人形になった自分を想像して、肺が圧迫されたように苦しくなった。全身を巡る血液の冷たさに、ガクガクと震える。
 怖い。常に死を感じていた時は、何とも思わなかったのに。こんな気持ち、大火災の時と同じだ。
「―――知ら、ない」
 諦めかけていたツグナの耳に、グレーテの震えた声が聞こえてくる。しかと女を見つめ、ゆっくりと首を左右に振りながら「知らない」を繰り返した。想定外のことに女の片眉がピクリと動く。
「そんなことはないでしょう? あなたがあの子を庇っているんだわ」
「……知らない」
「嘘をつきなさい! あの子をどこに隠したの! グレーテ!」
「知らない」
 首を振り続けるグレーテに女は隠していた怒りを抑えきれなかったようだ。勢いよくグレーテの腹を蹴り飛ばし「いい加減にしなさい! どうしてママの言うことを聞いてくれないの!!」と怒鳴りつける。背中を擦りながら食料庫の中に戻されたグレーテは上半身を起こし、女を見つめた。
「何故そんなに意地を張っているの! 今までだって同じようにしてきたじゃない! 何故今回に限って……」
 激昂する女に「だって」と震えた声でグレーテが呟いた。虚ろな翠眼からは涙を垂れ流し、縫われた頬に伝って地面に落ちていく。
「ツグナ、生きてた。温かかった。しょっぱいお水、沢山出てた。ネズミさんも、生きてる。動いてる」
 ポロポロと流れ落ちる涙に「こんな風にお水、出てた」とグレーテが頬を撫でた。その涙に信じられないと女は目を見開く。そうしてから「ごめんなさい。泣かせるつもりじゃ」と戸惑いながら、グレーテに近づき、抱きしめると、頬にキスした。
「愛しているわ、グレーテ。でも、あの子がいないと私とても困るのよ。もし話してくれたら、あなたを責めはしないわ。今日のことも全てなかったことにしてあげる。私は優しいから」
 向き直るように目線を合わせてグレーテに頬笑みを浮かべる。緋色の髪を優しく撫でられるが、グレーテは無表情で「知らない。分からない」と首を横に振った。女の口角はゆっくりと下がっていき「そう、残念だわ」と冷たい声色で言い放つ。
 次の瞬間、先程キスしたグレーテの頬に向かって平手打ちが飛んだ。バシン、と乾いた音が響き、グレーテはその勢いで食料庫の棚に叩きつけられる。立ち上がり、女はグレーテに背を向けながら「時間の無駄だったわね。まあ、いいわ」と出入り口にたどり着いたところで振り返った。
「あなたはこれでもお気に入りだったのよ。特にその緋色の髪が。だから、多少物覚えが悪くても許してやったわ。私は優しいから。けど、私の愛に答えられない裏切り者なら、もういらない」
 グルル……と低い呻きが聞こえた直後、女の背後に大きな影が現れる。手を地面についた猫背の状態でも全長三メートルはあるだろうか。女の頭を簡単に飲み込めそうなほど大きな口からは、鋭い歯列が見え、長い舌がぶらんと垂れ下がっていた。
 よく見てみれば、その四肢は人間の肉体と熊の体を無理やり繋ぎ合わされていて、バランスが悪い。歪な体の造りに視点を上に持っていくと、その巨大な動物らしき影の頭部は鼻から顎にかけてを除いて人間のものだった。人間でも、熊でもないそのおぞましい生物に震えが大きくなる。
「食事の時間よ、あなた」
 女が巨大な顎下を撫で呟くと、熊人間はのっそりと食料庫に踏み出した。無感情に思えたグレーテは、その熊人間を見て危機を感じたんだろう。格子の中にいるツグナの方を振り向き、両手をついて逃げ出すように這い出した。
 ザッと熊人間の爪が空気を掻っ切る音がする。振り下ろされた爪はグレーテの前後半分を引き裂き、本来あるべき背中と尻の部分は肋骨や臓腑が剥き出しになっていた。その振り下ろされた勢いで、グレーテは倒れるようにうつ伏せで突っ伏す。巨大な鋭爪に引っかかった細長い腸によって熊人間の元へ引き寄せられるが、内臓を体内から引きずり出しながらも前へ這い出した。ズルズルと水音が混ざって大袈裟に聞こえる音が足音のように背後からついて響く。
「ツグ、ナ……わ、たし」
 振り絞るように、けれども声色はいつもと変わらない平坦なものだ。虚ろな翠眼に鉄格子の向こうで目を見開くツグナを映しながら、グレーテは涙を流し続ける。
 ひのひかりもあたらないくらやみのせかいで、いつもねずみさんがかがやいてみえた。ままはきらっていたけど、ほうっておけなくて、だからにがしていた。ツグナもおなじ。はじめて、うごいているひとにあえて、いきているひとにあえて、あなたたちのようにわたしもなりたかった。
「しにだくな゛いよ……」
 出会ってから初めて、グレーテの顔が歪んだ。ぐちゃぐちゃに、悔しそうに涙を流すグレーテにツグナは「グレーテ」と名前を呼ぶ。
 瞬間、グレーテの体を押し潰しながら這い上がってきていた熊人間は大きく口を開き、ツグナの声を遮るようにグレーテの頭を丸々と飲み込んだ。立ち上がるように首を引っ張り、首と体を繋ぐ筋肉がぶづぶづと音を立てて切れ、大きく揺れながら完全に切り離される。
「死にたくないなんて馬鹿馬鹿しい。そもそも生きてもいないでしょう」
 背後からその様子を見ていた女は吐き捨てるように呟いた。ぐちゃぐちゃと唾液がかき混ざる咀嚼音が辺りに響き渡る。その光景と、とある光景がツグナの中で重なり合った。
『ああっ、助けてくれ……お願いだ……やめて、やめてくれ』
 涙を流し叫び声をあげる新入りの顔が大きく映し出された瞬間に、首が宙を舞う。遠くにごろりと頭部が転がり、残された首から下の胴体を踏みつけると、首の断面に向かってかぶりついた。首の筋肉を引き剥がし、ぶづぶづと音を立てて食いちぎるその様子は先程の熊人間と全く同じもの。一体これはいつの、誰の記憶なのだろう―――
 どくん。大きく鼓動が跳ね上がったかと思うと、ツグナの目からは光が消えていき、その場から動かなくなった。



「あの女は魔女だ」
 ラスティアノ樹林を駆け抜ける馬車内で、デイヴィッドが呟いた。腕を組んで話を聞いていたシアンは不機嫌そうに眉を顰める。
「……つまり、そのイザベル・ヘルキャットという女は死体を人形のように仕立て上げる異常者で、リネイト街のオークションでそれを貴族に売っている商売人だと? だから、奴に買われても奴隷の所有権はないと、そう言いたいのか?」
 苛立った口調で要約するシアンに「はい。彼女が奴隷を仕入れるのはあくまで商売のためなので……そうなりますね」とデイヴィッドは小さく答えた。勢いよくデイヴィッドの胸ぐらを鷲掴みにし「ふざけやがって」とシアンが呟く。
「そういう大切な事はもっと早く言え。変な小細工して、人を惑わせるようなことをするな」
 近距離で静かに怒鳴りつけるシアンの迫力に、デイヴィッドはひぃ、と小さく悲鳴をあげる。
 屋敷を出た一行は、狙い通りツグナを売っていた奴隷商と鉢合わせし、行き先を確認してからイザベルと言う女性が住む古城へと向かっていた。恐らく、奴隷の所有権を曖昧にすることでリネイト街を経由させるようにし、途中で鉢合わせした奴隷商人に助けを求める算段だったのだろうが、ミシェルに助け舟を叩きつけられたことで計算が狂って自白したのだろう。ちっ、と大きく舌打ちをして、シアンは強く押し出すようにデイヴィッドから手を離した。
 にしても買った奴隷を殺して人形にする異常者か。もし、既にツグナが殺されていたら、今までの苦労が全部水の泡だ。簡単には死なないやつだと信じてはいるが、もしもの時は今度こそ覚悟を決めるしかないと、シアンは再び腕を組む。
 それに、本の著者であるヘルキャット一族に会えるのは幸運なことだ。ヴェトナに来たのはそれが目的でもある。目的達成のためなら、あいつの死も当然の犠牲として受け入れなくてはと、ツグナを思い浮かべ目を閉じた。
『シアン』
 ふと自分を呼ぶツグナの声が聞こえてくる。真っ直ぐと純粋無垢で、けれどもどこか自分の心を見透かしているかのような真っ赤な瞳だ。たまに、その瞳が恐ろしく思える。頼むから、そんな目で見ないでくれ。
「……見るな」
 えっ、と前からデイヴィッドの困惑した声が聞こえてくる。声に出てしまったことにシアンは慌てて目を開けた。数秒間を置いて切り替えるように口を開く。
「奴隷商ならさぞ儲かっているだろうな。人の幸せを奪って手に入れた金は使い心地が良さそうだ。それに、貧民街の中央で威張るのは楽しいだろう」
 湧き上がった感情を誤魔化すように、シアンはぽつりと嫌味を吐いた。腕を組み、嘲るように口角に笑みを張りつける。
「伯爵である貴殿に何がわかると言うのです……」
 屋敷を出てから反抗する意志を見せなかったデイヴィッドがゆっくりと口を開いた。膝に置いた手がズボンを手繰り寄せるようにして握りしめられる。
「どれだけ稼いでも、私たち庶民は生きるのに精一杯だ。だが、それでもいい。愛する人が傍にいてくれれば、苦しくても笑って生きていける。なのに、貴様らは私から妻を奪った!」
 激昂し、声を張り上げ、口を開く度に放たれる言葉は加速していった。滔々と、抑えていた感情が溢れんばかりに。
「先代のブラッディ卿のように人のいい貴族がひと握りいるだけで、世の中は私たちを見下している貴族がごまんといる。あの日もそうだった―――値段に不満し、腹を立てた奴が私の妻を奴隷に買ってやるといった。お前の中古品だから安くしろと……妻を侮辱した挙句、私から妻を奪おうとする奴が許せなかった。初めて、初めて貴族に刃向かった……当然、連れてかれる妻を引き留めようとした私に奴は銃弾を放った。けど、妻が庇ってくれたおかげで私は―――」
 そこまで言ってから、デイヴィッドは膨れ上がった風船が萎んでいくかのように落ち着いていき、言葉が途切れる。目縁に薄らと涙を浮かべ、震えながら息を吐いた。
「あの日のことを忘れたことは一度たりともありません。貴族のことも心の底から憎んだ。なのに、今私は奴らの為に奴隷を売りさばいている。皮肉なものですな。だが、これが世の縮図だ。貴族と手を組んで大金を手にしても、立派な屋敷を持っても、女に困らなくなっても、心は虚しくなるばかり。殺したいほど憎んでも、世の中を取り仕切る権力者には逆らうことが出来ない。ブラッディ卿……私には何が正しくて何が悪いのか、分かりません。もう何も……見えない」
 嘲笑うように口角を上げたその頬には一筋の涙が通った。先程ツグナが連れ去られた時に見せたものとは明らかに違う。本物の涙だと察しながらも「だから、どうした」とシアンが冷たく言い放った。
「何も見えなくても、自分が信じたものを信じて突き進めばいい。それが自分にとっての正しい道だ。奴隷で商売している件も、国が認めているから責めはしない。俺たちに関わらなければな」
 ガタンと馬車が大きく揺れる。シアンは二度瞬きしてから窓枠に肘をつくと、外を見つめた。
「生きるために必死になるのは分かる。自分を支配する権力者に逆らうことが出来ないことも、よく分かるさ。だが、貴方は大嫌いな貴族に同情を求めたいわけじゃないだろう? 貴方の正義があるように俺にも俺の正義がある……まあ。今回は、運が悪かったな」
 木々の間から見える群青色の空に向かって呟く。妻の話を聞いて、動揺してしまったことを悟られたくなかった。それに、少しだけデイヴィッドの話を理解できてしまう自分もいたのだ。
『お前って、嘘つきだな』
 またも、赤目の少年の声が再生される。ギリっと奥歯を噛み締めながらも、邪魔だと睨みつけるように振り払った。冷徹さを装っているくせに、どこかまだ善が抜けきれていない。出会って間もないツグナにさえ、そのことを見破られた。ドクターの言葉と重なり、額を抑えるようにして嘆息する。結局自分はずっと、中途半端なままだ。
 一方外の従者席には、ミシェルと案内役のクラリスが座っていた。馬を操るミシェルの横でクラリスは浮かない顔をしている。無言続きな空間が馬車内とは違った気まずさを生み出していた。
「……さっきの。解放できなかったことを悔やんでる?」
 ミシェルの声に隣にいたクラリスはビクリと肩を震わせた。そうしてから「……はい」と振り絞るような声で答える。
 先程、奴隷商と鉢合わせし、居場所を聞き出す時にクラリスは荷馬車内にいた奴隷達と目が合っていた。これからリネイト街の貴族に買われていく同士を見て、彼女は複雑な気持ちを抱いていたんだろう。
 解放したい衝動と何も出来ない自分の無力さに唇を噛み締めるクラリスを、ミシェルは横から黙って見ていた。何もしなかったのは冷徹な行為でなく、これが社会のルールだと知っていた為である。
「シアン様も言ってたけど、あんたを解放できたのは非合法で生み出された奴隷だったから。普通、奴隷を解放するのは罪になる」
「分かっています……それでも」
 救いたかった、と言葉を続けることは出来ず、押し殺すようにクラリスは俯いた。その様子を見たミシェルは口を閉じて嘆息し「あんた、ツグナに助けられたんだってね」と話を切り替えるように前を向く。はい、そうですと、クラリスはミシェルの方をじっと見つめた。
「初めてでした。奴隷である私に手を差し伸べてくれた人は……自由になっていいんだって、命懸けで私の首輪を取ってくれました」
 開放された首を抑えながら目を細めるクラリスに「あいつらしいわね」とミシェルが呆れたように肩を落とした。彼はそういう方なんですか? とクラリスが聞き返す。
「そういう奴よ。放っておけばいいことにも首を突っ込んで、手の届く範囲は全て救おうとする……お人好しなんだろうけど、一番は自分と重ねているのかしらね。あいつの過去はよく分からないけど……何となくそんな感じがする」
 だから、不安なのよとミシェルは真っ直ぐ前を向いて付け足した。ガタンと、また馬車が大きく揺れる。ここら辺はどうやら道が悪いらしかった。
「あいつは人とは違って丈夫だし、誰よりも強いけど。だからこそ、その力を過信して自分が全部救えるんだと思っている。けど、世界はそんなに甘くない。いつかもし、救えないものがあると気がついた時に、自分のことを責めるんじゃないかって……」
「ミシェル様は本当にツグナ様をよく見ておられるのですね」
 クラリスの言葉の意味を一度考えてから「なんでそうなるのよ?」と眉を顰める。真っ直ぐに見つめながら「いえ。ミシェル様の話を聞いてそう思っただけです」とクラリスが言った。
「別に……ああいう人のいい馬鹿が知人にもいただけよ。そういう奴がどんな道を辿っていくかも知っているから……ただ、それだけ」
 前を向いていたミシェルの表情が暗くなる。が、それは一瞬のことで「あ、そうそう」と先程より声のトーンをあげて話を切り出した。
「私の事は様づけで呼ばないでよ。性にあわないからさ。ミシェルって呼んで」
「しかし……」
「なんでそこ戸惑うのよ。あんたはもう奴隷じゃない。私の友達、でしょ」
 友達、の言葉をクラリスは繰り返し、何度も瞬きを重ねる。今までの奴隷として生きてきたため、初めて聞く言葉だったのだ。
「友達……とは、どういった仕事なんでしょう?」
「仕事じゃないわよ! そういう上下関係じゃなくて、同じ立ち位置で親しくする仲……みたいな。ああっ! とにかく、あんたは私の下じゃなくて、同じなの! 私と何一つ変わらない! だから、様づけはしないの! 分かった?」
 今まで人間より下の存在として扱われてきたクラリスにとって、同等というミシェルの言葉は驚くべきものだった。ホロホロと涙を流し「申し訳ございません……勝手に……」と自身のメイド服に落ちていく雫を手で受け止めようとした。
 瞬きする度に長いまつ毛に乗った雫が弾いて、キラキラと輝きを帯びている。人造奴隷なだけあって本当に綺麗な人だとミシェルは思いながらも「ちょっと、泣かないでよ」と慌てて言った。
「も、申し訳ございません」
「あ、いや。そういうことじゃなくて。悲しい時は泣いたり、楽しい時は笑ったり、自由に感情を出すのは悪いことじゃないの。ただ、私がどうすればいいか分からなくなるってだけだから……ごめん」
 奴隷の身だった故に、クラリスは感情を抑制されていたのだろう。言葉一つで抑え込もうとするなんて、可哀想だ。言葉を探して間を開けたミシェルは「ただ」とようやく口にする。
「せっかく綺麗な顔なんだから、泣いているより笑っている顔の方がいいわ……ってそれだけ」
 少しだけ横を振り向き、優しく口角をあげたが、自分で言って恥ずかしくなったのか、ミシェルは急に目を逸らして素っ気なくなる。その言葉に「はい、ありがとうございます」とクラリスは涙を流しながらぎこちない笑顔を浮かべた。やっぱり笑っている方がいいじゃないと、ミシェルはそれを横目に口角を上げる。
「あっ、ミシェル様。ここで止まってください」
「様じゃなくて?」
「ミシェル……さん」
 様よりはマシかとミシェルは馬車を止めた。森を抜け、一行を乗せた馬車は開いたところに出る。そこには砦のような古城が湖に取り囲まれている中で堂々と聳え立っていた。ここにツグナがいるのかと、ミシェルは意を決するように鋭い瞳で睨みつける。
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