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第一部 三章 ヴェトナの悪夢編
33 幸福な夢
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ぐちゃりと小さな水音をたてて、ツグナの腕が引き抜かれる。と同時に、ぼたぼたと唾液の混じった血の塊を熊人間は口から垂れ流した。化け物の体へと変わってもなお、彼の優しい灰色の瞳は変わらずイザベルを見下ろしている。
「グオッ……ブォ、オオ」
その声は、何かを必死に伝えようとしているかのようだった。熊人間に以前のヴェンの姿が重なり合う。獣の言葉ではハッキリと理解できないが、イザベルには彼が何を伝えようとしているか分かった気がした―――彼はまだ、あの「約束」を守ろうとしているのだと。
「ブオオオオオオ!!」
腹底から轟く雄叫びをあげ、熊人間は振り返ると同時にツグナを殴り飛ばそうとした。愛する人を前にその攻撃は今までよりも速く、強い力を感じる。
「イヒッ」
だが、その力はツグナのか細い腕によって容易く受け止められた。素早くその巨腕を掴むと、背負い投げするように熊人間の胴体と腕を引きちぎり、足で後ろに蹴りあげた。地面に叩きつけられた熊人間は片腕をなくし、バランスが取れないのか、なかなか起き上がれない。あ、あっ、と言葉をなくしたイザベルがツグナを見つめる。これで、彼女の前に阻む者はいなくなった。
「いやっ……いやあ……!」
腰が抜けてその場から動けなくなったイザベルの細い足首を掴むと、ツグナは投げ捨てるように斜め上へと放り投げた。熊人間とは違って体重が軽いため、イザベルは天井にヒビが入るほどの勢いで衝突する。
「がはっ……」
少しめり込んでいたが重力に逆らえず、イザベルはそのまま下へと落ちていった。石の天井に向かって自身の涙が上っていく。そんな彼女を待ち受けているのは、優しく希望に溢れた世界ではなく、天高く槍を突き上げている女の像だった。
私ね、夢見がとてもいいのよ。愛おしい貴方と、グレーテと三人で笑い合って、温かい食事を囲んで、キスをして。そんな、幸福な夢―――
「ベルは……ただ……幸せになりた―――」
衝撃と共に下腹部に激痛が襲いかかる。自重で深く深く突き刺さり、イザベルは逆さまに見えた熊人間を目にしながら大量の血を吐き出した。鼻に入り、頭皮にまでぽたぽたと伝っていくソレの生暖かく不快な感触に、湿った息を漏らし、そのまま動かなくなる。中央にあった女の銅像を赤色に染めあげ、掲げていた槍に腸を巻きつけながらずりずりと引きずり出していくように下がっていった。
串刺しになったイザベルに倒れていた熊人間は、再度悲痛な雄叫びをあげる。本能に揺さぶりをかけてくるような迫力のある声だ。そんな熊人間に向かって歩みを進めていたツグナは、変わらぬ笑みを浮かべて近づくと、その人間とも獣とも言い難い歪な顔を踏み潰した。
ぐしゃりと、肉塊が破裂したように周囲に飛び散る。血に汚れた灰色の眼球は飛び出し、足裏に生暖かい泥濘のような感触を覚えながら、張りついた肉の糸を引いて足を離した。
「イヒッ、ヒヒヒ! ヒハハハハ!」
何が面白いのか、ツグナはケラケラと笑い声をあげながら、グチャリグチャリと何度も同じように踏みつけた。衣服や頬に返り血が飛び散り、眼球を踏みつけ、真白な液体が赤黒に混ざって辺りに広がっていく。それでもまだ気が収まらないのか、頭のない熊人間の胴体を持ち上げ壁に投げ飛ばすと、追い打ちをかけるように蹴りあげた。
古びた廃城に異常とも言える痙攣的な笑いと、破壊音がなり続け、大きな揺れと共に城の壁が崩れ落ちる。 壁が崩れた衝撃で埃や石の欠片を巻き込んだ突風が、柱の影に隠れていた二人の髪を大きく揺らした。―――もう、戦いは終わったはずなのに。やめなさいよ、とミシェルが弱々しくツグナの背中に投げかけた。
「……っ、ベイカー……?」
パチリと一度瞬きして、視点を定めようとするシアンに「シアン様……良かった!」とミシェルが目を細めた。怠そうに起き上がった直後、シアンは熱を持った切り傷の痛みに襲われ、悶えるように蹲る。半裸になったシアンは、上半身と額に自身のシャツやワンピースの布切れがぐるぐるに巻かれていた。正直心許ないが、出血を塞ぐには十分な役割を果たしている。
「まだ、起き上がらない方が……命に別状がなかったとはいえ、深い傷なので……」
「あの化け物は……どうなった」
ふうふうと落ち着かせるように息をつき、胸を抑えたシアンに、ミシェルは「それが……」と不自然に言葉を切らしてエントランスホールを見た。ミシェルに誘導されるようにして、シアンは顔を向ける。
「なっ……!」
中央の銅像にはイザベルが串刺しにされ、少し離れたところには熊人間の頭部らしき黒々とした肉塊が、シワの多い肉塊と共に辺りに飛び散っていた。悲惨な光景に思わず目を背け「どういうことだ……一体何が」と口にしたところで、また古城が崩れる大きな音が聞こえてくる。音のする方へ目を向けると、そこには見覚えのある白髪頭が瓦礫の中から姿を現した。
「ツグナ? あいつ、生きて―――」
そこまで口にしてから、ハッとし「まさか、あいつが化け物とあの女を?」と上瞼を引き攣らせる。その言葉にミシェルは何も返すことはなく、コクリと首肯させた。
喉奥が開いた奇声に近い笑い声と、瞳孔が開いた赤目に、シアンはビリビリとした震えが足元から込み上げる。普段の表情とはまるで別人だ。いや、そもそもあれは一体―――
「誰だ?」
そう言葉にしてしまうシアンを否定することが出来ずミシェルは「……分かりません」と俯いた。
普段から無表情で笑うのは決して得意じゃない。けれども、年相応に感情豊かで、誰よりも正義感が強く、困っている人間は放っておけないお人好し―――そんな彼が、笑いながら平然と残虐行為を繰り返している。
「あんなことをするようなやつじゃないのに、ずっとあの調子で……」
戸惑うミシェルの言葉を横耳に、シアンは暴れているツグナを見て、出会った時の事を思い出していた。
今でもあの時向けられた、血のように真っ赤な瞳を忘れてはいない。触れれば殺すと訴える、殺意に溢れた毒々しい瞳。それが皮肉にしろ、ツグナの名前になったわけだが、今思えばあの時一瞬見せたツグナとその後のツグナではだいぶ印象が違っていたように思えた。
少し間を開けてから「いや、これが本来のツグナなのかもな」とシアンが呟く。その言葉が理解出来ず「どういう、ことですか?」とミシェルは怪訝に眉をひそめた。
「知っての通り、あいつは屋敷に来てからふた月ほども、錯乱状態が続いていた。幻聴に幻覚、不眠、更には身体中掻きむしるなどの自傷行為。あまりにも酷いものだから、強めの薬を投与していた。それからは、薬を少しづつ減らして人に慣れさせようとしていたんだが……」
それを聞いて、ミシェルはロザンド教会のことを思い出す。確かに、教会に送り付けた理由としてシアンは「社会勉強をさせたい」と言っていた。教会での統制された日々を過ごすことで、少しずつ外の世界との交流、理解を深め、人に慣れさせていく―――まあ、他にも理由はあったのだろうけれど、少なからず建前はそれだった。
現に、ツグナは教会での日々を踏まえて自分から人に歩み寄ろうとしていたし、屋敷では積極的に家事を手伝うようになっている。そう考えると、よくあそこから回復できたものだ。
「となると、これは錯乱しているだけ? という事ですかね」
回復してきたとはいえ、未だに情緒不安定なところがあるのだ。普通に考えるなら、これもそのうちの一つとして捉えるのが当然といえば当然だろう。どうだろうな、とシアンは顔を歪めた。
「もし、ツグナの治療が過去の記憶から形成される人格を矯正させたとすれば、あいつは本来の自分を常に抑制させていることになる。今回のこれは、何か強いストレスを感じた事で抑制されていた本質が現れている―――つまり暴走、という言い方が正しいかもな」
ラヴァル卿の事件でツグナと一度ぶつかっていたが、あの時の力とはまるで比べ物にならない。だが、これがツグナの本来の力で、普段は人を殺してしまうかもしれないという恐怖から自分の知らぬ間に力を抑制していたんだとすれば、この強大な力にも説明がついた。
これが、兵器としてのツグナ―――R-207の本来の力なのだろう。
「くっ……」
大きな地震と共にまたどこかの壁が崩れ落ちる。周囲の離れた壁にもヒビが入り、古城全体に破壊の波が広がっていった。このままこの場にいれば、いずれ崩壊に巻き込まれてしまうだろう。暴れるツグナを見て、シアンは何かを諦めたように瞬きを重ねてから「ベイカー、頼みがある」と言った。
「君の銃はまだ……手元にあるな」
傷を抑えながら傍に落ちている拳銃を見つめてシアンは言った。自分のものは先程殴り飛ばされた時に落としてしまって持ち合わせていない。変に分断されたその言葉に、ミシェルは違和感がありながらも「はい」と答えた。一時流れた沈黙を埋めるように、遠くで崩れ落ちる瓦礫の音が響き渡る。
「このままでは、いずれ崩壊に巻き込まれる。あの様子じゃ誰彼構わず攻撃してきそうだしな……苦渋な決断だが、もうこうするしかない。その銃でツグナを―――」
撃ち殺せ。シアンの放った言葉にミシェルは徐々に目を見開いた。理解出来ずに震えた声で「え?」と言葉を漏らす。眉を下げ、困惑している様子だが、無理に口角を上げて「そんな冗談……」と続けた。
「悪いな……流石にこんな傷を負って冗談を言えるほど、俺も余裕が、あるわけじゃない」
痛みで更に追い詰められているのか、シアンは険しい表情で柱に寄りかかった。見てみろ、とシアンがエントランスホールに顔を向ける。
見れば先程まで暴れていたツグナは疲弊し、自分で崩した瓦礫を避けきれずに傷を負いながらも、体が傀儡のように動かされていた。白目を剥き、笑いすぎたことで喉が裂け、血を吐いている。これじゃあ、死にかけているのはツグナのほうじゃないかと、ミシェルは息を飲んだ。
「自分が何をしているのかも分かっていないんだろうな。放っておいてもあいつは死ぬ。なら、せめて俺たちの手で殺してやった方があいつも本望だろう。それに、あいつがこのままここを破壊し、街に降りられても迷惑だからな」
半年も同じ屋根の下で過ごしていたとは思えないような冷酷な判断だ。だが、シアンが言っていることも事実ではある。これ以上、苦しみながらただ死を待つだけだというなら、早く楽にしてしまった方がツグナのためなのではないか。少し気持ちが傾きつつあるミシェルに「ベイカー、君は優秀だ」とシアンが口を開いた。
「銃の腕前も理解している。君なら、ここからでもツグナを狙えるだろう。だから、頼む。ツグナを……楽にしてやってくれ」
ふぅと長い息を鼻でついて、シアンが力なく目を瞑った。その言葉に誘われるようにして、ミシェルは震えながらも構えた銃をツグナに向ける。暴走していたツグナは動きが遅くなり、息を荒らげながらようやくその地に膝をついた。狙うなら、今がチャンスだろう。
『またお前かよ』
『うるせえ! 僕に触るな!』
『よかっ、た……』
『腕を失ってお前が無事なら別にいい』
『あの、その……ありがとう、な』
『ミシェル見てみろよ! 今夜は月が綺麗だ』
次から次へと耳に残っていたツグナの言葉が頭の中になだれ込んでくる。本当にこれでいいのか? と一度決意した心に迷いが生じた。構えた銃の先にとある男の姿が浮かぶ。手を後ろに縛られ、自分を見上げるその男にミシェルは肩から背中に沿って悪寒のような震えを感じた。
『ミシェル。お前は間違いなく優秀な兵士だ。俺が居なくてもきっと、上手くやって行ける。俺は、お前を……』
男の声が脳内で再生され、ミシェルは見開かせた目のまま、ツグナに向けていた拳銃を力なく下ろした。震えた吐息を漏らしながら「申し訳ございません。私には……」と項垂れる。
初対面の時からずっと、ツグナの事が嫌いだった。いかにも可哀想な目にあっていたみたいな態度で、うじうじと謝り続ける彼が気にくわなかった。
『あんた、なんでそんなに謝ってばかりいるわけ!? 見ていてイライラするからやめなさい』
『ごめ、ごめんなさい……すみません』
『あーー! だから! それをやめろっつってんだよ!』
元が奴隷かは知らないけど、下ばかり見て怯えられるのはなんだか気分がいいものではなかった。だから、少しだけ腹が立って意地悪に接していたら、いつの間にか口喧嘩をするのが当たり前になっていた。自分でも大人気ないとは思っている。
けれど、ツグナが回復するに連れて、そう思うことは徐々に減っていた。生意気になったけれど、あいつはあいつで真っ直ぐ生きていこうとしている。不安定な足で前へ進もうとしている。そんなツグナの成長を見て、少しずつミシェルの見方も変わっていった。
過去に何があったかは詮索しない。聞いたところで、他人の苦しみなんて到底理解できやしないから。だけど、もし耐えきれないのなら、人に話すことも手ではある。だから、こいつが自分から話してきてくれたら、長くても、途中で取り乱しても聞いてやろうと思っていた。痛みは分かり合えなくても、分け合うことはできるって、知っているから。
『ねえ、あんたはなんでそんなにお人好しなわけ?』
『……それは、分からない。けど―――』
あの時、ツグナはなんて返したんだっけ。なぜ今になってこんなことばかり思い出してしまうのだろう。以前の自分なら、ツグナを撃つことぐらい躊躇いもなく出来たはずなのに。今はもう、震えてできなかった。
「そうか。君には失望した」
楽にしてやれ、と言った時よりも急激にシアンの声色が下がる。ギロりと横目で睨みつけ、シアンはミシェルから拳銃を奪い取り、動けなくなったツグナに向けて容赦なく構えた。
正しい判断ができる人間だと思っていたが、この生きるか死ぬかの状況下で情が邪魔をしているようじゃ、結局馬鹿に変わりはない。しおらしくしてまで説得していたが、どうやら自分の見込違いだったようだ。撃鉄をあげる音に、この人は本気なのだとミシェルが青ざめる。
「ま、待って!」
声を張り上げ、ミシェルは引き金を引こうとするシアンの体を思わず押し倒した。体勢を崩したことで狙いが外れ、放たれた銃弾はツグナより数メートル前の床に撃ち込まれる。先程まで死にかけていたのにも関わらず、ツグナは首をぐるりと二人に向け、怪しく不気味な笑みを浮かべた。
「ちっ……気がつかれた……」
立ち上がろうとしたがもう遅い。四つん這いの体勢から素早く起き上がり、ツグナは二人に向かって飛びかかった。並んで尻をついているシアンとミシェルは、襲いかかってくるツグナの姿を目に映す。死を悟ると、周囲の光景が遅くなって見えるのは、どうやら本当らしかった。眼前の情報を伝える音が遠くで聞こえ、まるで水の中に潜っているかのよう。
だが、冷徹な銃声が遠くで聞こえた後、その銃弾は目の前にまで差し迫っていた少年の胸に風穴を開けた。衝撃で仰向けに吹き飛ばされ、ツグナは背中から地面に叩きつけられる。
全身を痙攣させながら血を吐き出し、動かなくなっていく一連を、ミシェルはただ黙って見つめていた。うそ、と呟くミシェルの横で、シアンは火薬の臭いを漂わせている銃を下ろす。
「ツグナ……あっ、ぅ、そんなっ……」
認めたくないと首を振り、ミシェルはふらつきながらツグナに近づいた。光を映さなくなった赤目は茫洋としていて、まるで反応を示さない。その頬を撫で、目縁を熱くさせながらも「血を、止めなきゃ」と呟き、自身の黒いワンピースの裾を更に引きちぎった。
ベイカー、と背後からシアンの声が聞こえてくるが、ミシェルは返すこともなく、ツグナの華奢な体に開けられた風穴を埋めることに集中した。胸に開いた傷口を塞ぎ終わり、それでもなお意識を戻さないツグナに、ミシェルはどうすればいいか分からず混乱する。
「ツグナっ……じ、冗談やめなさいよ! またそうやって……どうせ、目が覚めたらいつもみたいに生意気なことを言うんだから……ねえ、そうでしょう。本当っ、笑えないから……やめてよ」
頬を優しく叩きながら、無理やり口角を上げて話す声が若干震えた。先程傷を塞いでいた時についた血が視界に入って、ぼやけた。まだ少し温かみがある。握りしめて、何度も少年の名前を呼ぶ。言葉の端々に漏れた吐息が落ち着きなく、息切れを起こした時のようだった。
いや、ありえない。だって、ツグナは腕を失くしたって平気だったじゃないか。一度は死んでしまったと思っていたのに、こうしてまた助けてくれたじゃないか。そうだ、ありえない。だって―――
「おい。聞いて……」
問いかけた直後、顔を伏せるミシェルにシアンは目を見開いた。頭を垂れ、ミシェルは自身の口とツグナの口を繋げる。何度も息を吹き込み、口を離して、ツグナの胸に両手で圧力をかけるその一連の動作を繰り返した。圧力をかける度に、力を入れて漏れだした吐息が上掠り、泣きじゃくる子供の呻きのようにも聞こえた。
空気が入らないように傷口を塞いだというのに、その蘇生法は矛盾している。正しい知識さえも見失ってしまうほど、彼女は混乱しているのかと、シアンは落胆して目を細めた。傷口を抑えながら立ち上がり「ベイカー」と再度口にする。
「……やめろ、見苦しい。ツグナは……」
「ツグナはっ、人間です!!」
鼓膜を震わせる語気の強い声でミシェルはシアンの言葉を遮った。震えて掠れるその声に、シアンの口許が固く一文字に結ばれる。
「傷つけられれば血は流れるし、痛みは心に残る。感情だってあるんだ……ツグナは生きている! あんたの都合のいい道具じゃない……!」
「……ああ。そう、だったみたいだな」
震える背中を見て、シアンは目を伏せながら答えた。その言葉はきっと、情もなく簡単に切り捨てられることに対して言ったのだろう。まさか、数ヶ月前まで毛嫌いしていたツグナにここまでするなんて、想定していなかった。先程のミシェルに対して驚きや戸惑いを引きずり、鼓動が速くなる。
ツグナは道具だと決めつけて、自分に言い聞かせていたはずだったが、ミシェルの思わぬ行動に「相手が人間」だという意識が急激に芽生え始めた。自分の中で決めていた概念と相反する罪悪感に、じっとしていられなくなる。
広がっていたひび割れは古城中に広がっていき、衝撃が止んだ今でも崩壊が止まらない。やや遅れて聞こえてくる轟音でさえ気にならなくなり、狼狽した目で心底叫んだ。何故、何故君は、と。
馬を撫でていたクラリスは待っていた主の声を聞いて、嬉しそうに振り返った。そして、コマ送りのようにゆっくりと、途切れ途切れになりながら、笑顔から青ざめ、手で口元を抑えて涙した。これが、君の残した「生きた証」だというのか。
抱き合うクラリスとミシェルを見て、シアンは瞬きするように目を伏せた。
◆
「君の父、デイヴィッド・オールストンは死んだ」
翌日、シアンが向かったのは、オールストンの屋敷だった。眼前で座っていた品のなさそうな男は「親父が?」と一度聞き返してから、破裂するようにケラケラと笑い声をあげる。
「ざまあないぜ! 死んで当然だなあ!」
ソファに立てるように足を置いて、煙草を吸いながら話すデイヴィッドの息子に、シアンは無表情で「そうか」と答えた。思った以上に下品で荒れている。デイヴィッドが言うに、数年前から麻薬に溺れて、ゴロツキ共と連んでいるらしいが、見た目通り、いい性格をしているようだ。
「すぐにでも憲兵が古城の捜索に向かうだろう。遅くても二日以内には遺体の引渡しがされる。俺から伝えられるのはそれだけだ」
腕を組んでいたシアンが立ち上がる。それを見た男はソファの背もたれに腕を広げながら「はっ。そんな怪我でわざわざご苦労なこった」と白い息を吐いた。
「一応聞いておくが、あんたが殺したのか?」
「目の前で見殺しにしたようなものだ。否定はしない」
冷めた目つきで答えるシアンに「へえ。無様だなあ。見れなくて残念だ」と乾いた笑い声を上げた。
「これで、オールストン家の財産は俺のものだ。地下にいる奴隷たちもなあ! 俺の方が親父よりも上手く商売ができる!」
その言葉にシアンは足を止めた。振り向くことなく「奴が言っていたが」と呟く。
「君は無知で品性と社会性に欠けているから、商人に向いていないと」
「ああ!? 俺の事を何も知らねえくせによく言うぜ、あの豚! 今までろくに仕事も回さず、勝手に決めつけやがって! 今まで見下してきた事をあの世で後悔させてやるぜ!」
随分威勢がいいなと、シアンは口許に冷たい笑みを浮かべた。デイヴィッドが言っていたことも分かる。見た目は自分より年上のように見えたが、知能は十代の坊っちゃんだ。
「ひとつ忠告してやろう。商人の世界は思った以上にシビアだ。背中には気をつけろよ」
こんなバカ息子でも家族だと守っていたのに、最後まで報われない男だ。どういうことだ、と背中からデイヴィッドの息子の声が聞こえてくるが、シアンは振り向かずに「邪魔したな」と部屋を出た。
もう、あいつに会うことは二度とないだろう。
「グオッ……ブォ、オオ」
その声は、何かを必死に伝えようとしているかのようだった。熊人間に以前のヴェンの姿が重なり合う。獣の言葉ではハッキリと理解できないが、イザベルには彼が何を伝えようとしているか分かった気がした―――彼はまだ、あの「約束」を守ろうとしているのだと。
「ブオオオオオオ!!」
腹底から轟く雄叫びをあげ、熊人間は振り返ると同時にツグナを殴り飛ばそうとした。愛する人を前にその攻撃は今までよりも速く、強い力を感じる。
「イヒッ」
だが、その力はツグナのか細い腕によって容易く受け止められた。素早くその巨腕を掴むと、背負い投げするように熊人間の胴体と腕を引きちぎり、足で後ろに蹴りあげた。地面に叩きつけられた熊人間は片腕をなくし、バランスが取れないのか、なかなか起き上がれない。あ、あっ、と言葉をなくしたイザベルがツグナを見つめる。これで、彼女の前に阻む者はいなくなった。
「いやっ……いやあ……!」
腰が抜けてその場から動けなくなったイザベルの細い足首を掴むと、ツグナは投げ捨てるように斜め上へと放り投げた。熊人間とは違って体重が軽いため、イザベルは天井にヒビが入るほどの勢いで衝突する。
「がはっ……」
少しめり込んでいたが重力に逆らえず、イザベルはそのまま下へと落ちていった。石の天井に向かって自身の涙が上っていく。そんな彼女を待ち受けているのは、優しく希望に溢れた世界ではなく、天高く槍を突き上げている女の像だった。
私ね、夢見がとてもいいのよ。愛おしい貴方と、グレーテと三人で笑い合って、温かい食事を囲んで、キスをして。そんな、幸福な夢―――
「ベルは……ただ……幸せになりた―――」
衝撃と共に下腹部に激痛が襲いかかる。自重で深く深く突き刺さり、イザベルは逆さまに見えた熊人間を目にしながら大量の血を吐き出した。鼻に入り、頭皮にまでぽたぽたと伝っていくソレの生暖かく不快な感触に、湿った息を漏らし、そのまま動かなくなる。中央にあった女の銅像を赤色に染めあげ、掲げていた槍に腸を巻きつけながらずりずりと引きずり出していくように下がっていった。
串刺しになったイザベルに倒れていた熊人間は、再度悲痛な雄叫びをあげる。本能に揺さぶりをかけてくるような迫力のある声だ。そんな熊人間に向かって歩みを進めていたツグナは、変わらぬ笑みを浮かべて近づくと、その人間とも獣とも言い難い歪な顔を踏み潰した。
ぐしゃりと、肉塊が破裂したように周囲に飛び散る。血に汚れた灰色の眼球は飛び出し、足裏に生暖かい泥濘のような感触を覚えながら、張りついた肉の糸を引いて足を離した。
「イヒッ、ヒヒヒ! ヒハハハハ!」
何が面白いのか、ツグナはケラケラと笑い声をあげながら、グチャリグチャリと何度も同じように踏みつけた。衣服や頬に返り血が飛び散り、眼球を踏みつけ、真白な液体が赤黒に混ざって辺りに広がっていく。それでもまだ気が収まらないのか、頭のない熊人間の胴体を持ち上げ壁に投げ飛ばすと、追い打ちをかけるように蹴りあげた。
古びた廃城に異常とも言える痙攣的な笑いと、破壊音がなり続け、大きな揺れと共に城の壁が崩れ落ちる。 壁が崩れた衝撃で埃や石の欠片を巻き込んだ突風が、柱の影に隠れていた二人の髪を大きく揺らした。―――もう、戦いは終わったはずなのに。やめなさいよ、とミシェルが弱々しくツグナの背中に投げかけた。
「……っ、ベイカー……?」
パチリと一度瞬きして、視点を定めようとするシアンに「シアン様……良かった!」とミシェルが目を細めた。怠そうに起き上がった直後、シアンは熱を持った切り傷の痛みに襲われ、悶えるように蹲る。半裸になったシアンは、上半身と額に自身のシャツやワンピースの布切れがぐるぐるに巻かれていた。正直心許ないが、出血を塞ぐには十分な役割を果たしている。
「まだ、起き上がらない方が……命に別状がなかったとはいえ、深い傷なので……」
「あの化け物は……どうなった」
ふうふうと落ち着かせるように息をつき、胸を抑えたシアンに、ミシェルは「それが……」と不自然に言葉を切らしてエントランスホールを見た。ミシェルに誘導されるようにして、シアンは顔を向ける。
「なっ……!」
中央の銅像にはイザベルが串刺しにされ、少し離れたところには熊人間の頭部らしき黒々とした肉塊が、シワの多い肉塊と共に辺りに飛び散っていた。悲惨な光景に思わず目を背け「どういうことだ……一体何が」と口にしたところで、また古城が崩れる大きな音が聞こえてくる。音のする方へ目を向けると、そこには見覚えのある白髪頭が瓦礫の中から姿を現した。
「ツグナ? あいつ、生きて―――」
そこまで口にしてから、ハッとし「まさか、あいつが化け物とあの女を?」と上瞼を引き攣らせる。その言葉にミシェルは何も返すことはなく、コクリと首肯させた。
喉奥が開いた奇声に近い笑い声と、瞳孔が開いた赤目に、シアンはビリビリとした震えが足元から込み上げる。普段の表情とはまるで別人だ。いや、そもそもあれは一体―――
「誰だ?」
そう言葉にしてしまうシアンを否定することが出来ずミシェルは「……分かりません」と俯いた。
普段から無表情で笑うのは決して得意じゃない。けれども、年相応に感情豊かで、誰よりも正義感が強く、困っている人間は放っておけないお人好し―――そんな彼が、笑いながら平然と残虐行為を繰り返している。
「あんなことをするようなやつじゃないのに、ずっとあの調子で……」
戸惑うミシェルの言葉を横耳に、シアンは暴れているツグナを見て、出会った時の事を思い出していた。
今でもあの時向けられた、血のように真っ赤な瞳を忘れてはいない。触れれば殺すと訴える、殺意に溢れた毒々しい瞳。それが皮肉にしろ、ツグナの名前になったわけだが、今思えばあの時一瞬見せたツグナとその後のツグナではだいぶ印象が違っていたように思えた。
少し間を開けてから「いや、これが本来のツグナなのかもな」とシアンが呟く。その言葉が理解出来ず「どういう、ことですか?」とミシェルは怪訝に眉をひそめた。
「知っての通り、あいつは屋敷に来てからふた月ほども、錯乱状態が続いていた。幻聴に幻覚、不眠、更には身体中掻きむしるなどの自傷行為。あまりにも酷いものだから、強めの薬を投与していた。それからは、薬を少しづつ減らして人に慣れさせようとしていたんだが……」
それを聞いて、ミシェルはロザンド教会のことを思い出す。確かに、教会に送り付けた理由としてシアンは「社会勉強をさせたい」と言っていた。教会での統制された日々を過ごすことで、少しずつ外の世界との交流、理解を深め、人に慣れさせていく―――まあ、他にも理由はあったのだろうけれど、少なからず建前はそれだった。
現に、ツグナは教会での日々を踏まえて自分から人に歩み寄ろうとしていたし、屋敷では積極的に家事を手伝うようになっている。そう考えると、よくあそこから回復できたものだ。
「となると、これは錯乱しているだけ? という事ですかね」
回復してきたとはいえ、未だに情緒不安定なところがあるのだ。普通に考えるなら、これもそのうちの一つとして捉えるのが当然といえば当然だろう。どうだろうな、とシアンは顔を歪めた。
「もし、ツグナの治療が過去の記憶から形成される人格を矯正させたとすれば、あいつは本来の自分を常に抑制させていることになる。今回のこれは、何か強いストレスを感じた事で抑制されていた本質が現れている―――つまり暴走、という言い方が正しいかもな」
ラヴァル卿の事件でツグナと一度ぶつかっていたが、あの時の力とはまるで比べ物にならない。だが、これがツグナの本来の力で、普段は人を殺してしまうかもしれないという恐怖から自分の知らぬ間に力を抑制していたんだとすれば、この強大な力にも説明がついた。
これが、兵器としてのツグナ―――R-207の本来の力なのだろう。
「くっ……」
大きな地震と共にまたどこかの壁が崩れ落ちる。周囲の離れた壁にもヒビが入り、古城全体に破壊の波が広がっていった。このままこの場にいれば、いずれ崩壊に巻き込まれてしまうだろう。暴れるツグナを見て、シアンは何かを諦めたように瞬きを重ねてから「ベイカー、頼みがある」と言った。
「君の銃はまだ……手元にあるな」
傷を抑えながら傍に落ちている拳銃を見つめてシアンは言った。自分のものは先程殴り飛ばされた時に落としてしまって持ち合わせていない。変に分断されたその言葉に、ミシェルは違和感がありながらも「はい」と答えた。一時流れた沈黙を埋めるように、遠くで崩れ落ちる瓦礫の音が響き渡る。
「このままでは、いずれ崩壊に巻き込まれる。あの様子じゃ誰彼構わず攻撃してきそうだしな……苦渋な決断だが、もうこうするしかない。その銃でツグナを―――」
撃ち殺せ。シアンの放った言葉にミシェルは徐々に目を見開いた。理解出来ずに震えた声で「え?」と言葉を漏らす。眉を下げ、困惑している様子だが、無理に口角を上げて「そんな冗談……」と続けた。
「悪いな……流石にこんな傷を負って冗談を言えるほど、俺も余裕が、あるわけじゃない」
痛みで更に追い詰められているのか、シアンは険しい表情で柱に寄りかかった。見てみろ、とシアンがエントランスホールに顔を向ける。
見れば先程まで暴れていたツグナは疲弊し、自分で崩した瓦礫を避けきれずに傷を負いながらも、体が傀儡のように動かされていた。白目を剥き、笑いすぎたことで喉が裂け、血を吐いている。これじゃあ、死にかけているのはツグナのほうじゃないかと、ミシェルは息を飲んだ。
「自分が何をしているのかも分かっていないんだろうな。放っておいてもあいつは死ぬ。なら、せめて俺たちの手で殺してやった方があいつも本望だろう。それに、あいつがこのままここを破壊し、街に降りられても迷惑だからな」
半年も同じ屋根の下で過ごしていたとは思えないような冷酷な判断だ。だが、シアンが言っていることも事実ではある。これ以上、苦しみながらただ死を待つだけだというなら、早く楽にしてしまった方がツグナのためなのではないか。少し気持ちが傾きつつあるミシェルに「ベイカー、君は優秀だ」とシアンが口を開いた。
「銃の腕前も理解している。君なら、ここからでもツグナを狙えるだろう。だから、頼む。ツグナを……楽にしてやってくれ」
ふぅと長い息を鼻でついて、シアンが力なく目を瞑った。その言葉に誘われるようにして、ミシェルは震えながらも構えた銃をツグナに向ける。暴走していたツグナは動きが遅くなり、息を荒らげながらようやくその地に膝をついた。狙うなら、今がチャンスだろう。
『またお前かよ』
『うるせえ! 僕に触るな!』
『よかっ、た……』
『腕を失ってお前が無事なら別にいい』
『あの、その……ありがとう、な』
『ミシェル見てみろよ! 今夜は月が綺麗だ』
次から次へと耳に残っていたツグナの言葉が頭の中になだれ込んでくる。本当にこれでいいのか? と一度決意した心に迷いが生じた。構えた銃の先にとある男の姿が浮かぶ。手を後ろに縛られ、自分を見上げるその男にミシェルは肩から背中に沿って悪寒のような震えを感じた。
『ミシェル。お前は間違いなく優秀な兵士だ。俺が居なくてもきっと、上手くやって行ける。俺は、お前を……』
男の声が脳内で再生され、ミシェルは見開かせた目のまま、ツグナに向けていた拳銃を力なく下ろした。震えた吐息を漏らしながら「申し訳ございません。私には……」と項垂れる。
初対面の時からずっと、ツグナの事が嫌いだった。いかにも可哀想な目にあっていたみたいな態度で、うじうじと謝り続ける彼が気にくわなかった。
『あんた、なんでそんなに謝ってばかりいるわけ!? 見ていてイライラするからやめなさい』
『ごめ、ごめんなさい……すみません』
『あーー! だから! それをやめろっつってんだよ!』
元が奴隷かは知らないけど、下ばかり見て怯えられるのはなんだか気分がいいものではなかった。だから、少しだけ腹が立って意地悪に接していたら、いつの間にか口喧嘩をするのが当たり前になっていた。自分でも大人気ないとは思っている。
けれど、ツグナが回復するに連れて、そう思うことは徐々に減っていた。生意気になったけれど、あいつはあいつで真っ直ぐ生きていこうとしている。不安定な足で前へ進もうとしている。そんなツグナの成長を見て、少しずつミシェルの見方も変わっていった。
過去に何があったかは詮索しない。聞いたところで、他人の苦しみなんて到底理解できやしないから。だけど、もし耐えきれないのなら、人に話すことも手ではある。だから、こいつが自分から話してきてくれたら、長くても、途中で取り乱しても聞いてやろうと思っていた。痛みは分かり合えなくても、分け合うことはできるって、知っているから。
『ねえ、あんたはなんでそんなにお人好しなわけ?』
『……それは、分からない。けど―――』
あの時、ツグナはなんて返したんだっけ。なぜ今になってこんなことばかり思い出してしまうのだろう。以前の自分なら、ツグナを撃つことぐらい躊躇いもなく出来たはずなのに。今はもう、震えてできなかった。
「そうか。君には失望した」
楽にしてやれ、と言った時よりも急激にシアンの声色が下がる。ギロりと横目で睨みつけ、シアンはミシェルから拳銃を奪い取り、動けなくなったツグナに向けて容赦なく構えた。
正しい判断ができる人間だと思っていたが、この生きるか死ぬかの状況下で情が邪魔をしているようじゃ、結局馬鹿に変わりはない。しおらしくしてまで説得していたが、どうやら自分の見込違いだったようだ。撃鉄をあげる音に、この人は本気なのだとミシェルが青ざめる。
「ま、待って!」
声を張り上げ、ミシェルは引き金を引こうとするシアンの体を思わず押し倒した。体勢を崩したことで狙いが外れ、放たれた銃弾はツグナより数メートル前の床に撃ち込まれる。先程まで死にかけていたのにも関わらず、ツグナは首をぐるりと二人に向け、怪しく不気味な笑みを浮かべた。
「ちっ……気がつかれた……」
立ち上がろうとしたがもう遅い。四つん這いの体勢から素早く起き上がり、ツグナは二人に向かって飛びかかった。並んで尻をついているシアンとミシェルは、襲いかかってくるツグナの姿を目に映す。死を悟ると、周囲の光景が遅くなって見えるのは、どうやら本当らしかった。眼前の情報を伝える音が遠くで聞こえ、まるで水の中に潜っているかのよう。
だが、冷徹な銃声が遠くで聞こえた後、その銃弾は目の前にまで差し迫っていた少年の胸に風穴を開けた。衝撃で仰向けに吹き飛ばされ、ツグナは背中から地面に叩きつけられる。
全身を痙攣させながら血を吐き出し、動かなくなっていく一連を、ミシェルはただ黙って見つめていた。うそ、と呟くミシェルの横で、シアンは火薬の臭いを漂わせている銃を下ろす。
「ツグナ……あっ、ぅ、そんなっ……」
認めたくないと首を振り、ミシェルはふらつきながらツグナに近づいた。光を映さなくなった赤目は茫洋としていて、まるで反応を示さない。その頬を撫で、目縁を熱くさせながらも「血を、止めなきゃ」と呟き、自身の黒いワンピースの裾を更に引きちぎった。
ベイカー、と背後からシアンの声が聞こえてくるが、ミシェルは返すこともなく、ツグナの華奢な体に開けられた風穴を埋めることに集中した。胸に開いた傷口を塞ぎ終わり、それでもなお意識を戻さないツグナに、ミシェルはどうすればいいか分からず混乱する。
「ツグナっ……じ、冗談やめなさいよ! またそうやって……どうせ、目が覚めたらいつもみたいに生意気なことを言うんだから……ねえ、そうでしょう。本当っ、笑えないから……やめてよ」
頬を優しく叩きながら、無理やり口角を上げて話す声が若干震えた。先程傷を塞いでいた時についた血が視界に入って、ぼやけた。まだ少し温かみがある。握りしめて、何度も少年の名前を呼ぶ。言葉の端々に漏れた吐息が落ち着きなく、息切れを起こした時のようだった。
いや、ありえない。だって、ツグナは腕を失くしたって平気だったじゃないか。一度は死んでしまったと思っていたのに、こうしてまた助けてくれたじゃないか。そうだ、ありえない。だって―――
「おい。聞いて……」
問いかけた直後、顔を伏せるミシェルにシアンは目を見開いた。頭を垂れ、ミシェルは自身の口とツグナの口を繋げる。何度も息を吹き込み、口を離して、ツグナの胸に両手で圧力をかけるその一連の動作を繰り返した。圧力をかける度に、力を入れて漏れだした吐息が上掠り、泣きじゃくる子供の呻きのようにも聞こえた。
空気が入らないように傷口を塞いだというのに、その蘇生法は矛盾している。正しい知識さえも見失ってしまうほど、彼女は混乱しているのかと、シアンは落胆して目を細めた。傷口を抑えながら立ち上がり「ベイカー」と再度口にする。
「……やめろ、見苦しい。ツグナは……」
「ツグナはっ、人間です!!」
鼓膜を震わせる語気の強い声でミシェルはシアンの言葉を遮った。震えて掠れるその声に、シアンの口許が固く一文字に結ばれる。
「傷つけられれば血は流れるし、痛みは心に残る。感情だってあるんだ……ツグナは生きている! あんたの都合のいい道具じゃない……!」
「……ああ。そう、だったみたいだな」
震える背中を見て、シアンは目を伏せながら答えた。その言葉はきっと、情もなく簡単に切り捨てられることに対して言ったのだろう。まさか、数ヶ月前まで毛嫌いしていたツグナにここまでするなんて、想定していなかった。先程のミシェルに対して驚きや戸惑いを引きずり、鼓動が速くなる。
ツグナは道具だと決めつけて、自分に言い聞かせていたはずだったが、ミシェルの思わぬ行動に「相手が人間」だという意識が急激に芽生え始めた。自分の中で決めていた概念と相反する罪悪感に、じっとしていられなくなる。
広がっていたひび割れは古城中に広がっていき、衝撃が止んだ今でも崩壊が止まらない。やや遅れて聞こえてくる轟音でさえ気にならなくなり、狼狽した目で心底叫んだ。何故、何故君は、と。
馬を撫でていたクラリスは待っていた主の声を聞いて、嬉しそうに振り返った。そして、コマ送りのようにゆっくりと、途切れ途切れになりながら、笑顔から青ざめ、手で口元を抑えて涙した。これが、君の残した「生きた証」だというのか。
抱き合うクラリスとミシェルを見て、シアンは瞬きするように目を伏せた。
◆
「君の父、デイヴィッド・オールストンは死んだ」
翌日、シアンが向かったのは、オールストンの屋敷だった。眼前で座っていた品のなさそうな男は「親父が?」と一度聞き返してから、破裂するようにケラケラと笑い声をあげる。
「ざまあないぜ! 死んで当然だなあ!」
ソファに立てるように足を置いて、煙草を吸いながら話すデイヴィッドの息子に、シアンは無表情で「そうか」と答えた。思った以上に下品で荒れている。デイヴィッドが言うに、数年前から麻薬に溺れて、ゴロツキ共と連んでいるらしいが、見た目通り、いい性格をしているようだ。
「すぐにでも憲兵が古城の捜索に向かうだろう。遅くても二日以内には遺体の引渡しがされる。俺から伝えられるのはそれだけだ」
腕を組んでいたシアンが立ち上がる。それを見た男はソファの背もたれに腕を広げながら「はっ。そんな怪我でわざわざご苦労なこった」と白い息を吐いた。
「一応聞いておくが、あんたが殺したのか?」
「目の前で見殺しにしたようなものだ。否定はしない」
冷めた目つきで答えるシアンに「へえ。無様だなあ。見れなくて残念だ」と乾いた笑い声を上げた。
「これで、オールストン家の財産は俺のものだ。地下にいる奴隷たちもなあ! 俺の方が親父よりも上手く商売ができる!」
その言葉にシアンは足を止めた。振り向くことなく「奴が言っていたが」と呟く。
「君は無知で品性と社会性に欠けているから、商人に向いていないと」
「ああ!? 俺の事を何も知らねえくせによく言うぜ、あの豚! 今までろくに仕事も回さず、勝手に決めつけやがって! 今まで見下してきた事をあの世で後悔させてやるぜ!」
随分威勢がいいなと、シアンは口許に冷たい笑みを浮かべた。デイヴィッドが言っていたことも分かる。見た目は自分より年上のように見えたが、知能は十代の坊っちゃんだ。
「ひとつ忠告してやろう。商人の世界は思った以上にシビアだ。背中には気をつけろよ」
こんなバカ息子でも家族だと守っていたのに、最後まで報われない男だ。どういうことだ、と背中からデイヴィッドの息子の声が聞こえてくるが、シアンは振り向かずに「邪魔したな」と部屋を出た。
もう、あいつに会うことは二度とないだろう。
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