SOLNEFIA(ソルネフィア)

森永らもね

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第一部 三章 ヴェトナの悪夢編

35 沈黙する正義

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 ヴェトナ街を出たシアン達とすれ違うようにして、ラスティアノ樹林にある古城には憲兵の捜索が入っていた。裏口から入り、エントランスホールに向かった一同はそこで見えた光景に、口々に「悪魔の仕業」だと顔を蒼白させる。臓腑を巻き付けながら串刺しになっている美しい女性、瓦礫に埋もれた人間とも獣とも言い難い奇妙な生物の巨体―――一体ここで何があったのだろう。
「イエッエッエッエッ。悪魔だなんてくだらない。狼狽える暇があるなら手を動かせ。使えないゴミ共め」
 とある白髪頭の男がエントランスホールに踏み入れる。猫背が酷く、後ろに手を回していて、腰の曲がった老人に見えるが、その歩みはどこか若々しい。頬は痩せこけ、まるまると開いた両目が顔の中で際立ち、ギョロりと眼光を帯びている。引き攣った奇妙な笑いと嗄れたその声に「も、申し訳ございません! リチャード・ブレイン博士!」と憲兵は道を作るように避け、敬礼した。
 リチャードはイザベルを一度見上げ、ゆっくりと瓦礫に埋もれた巨体に近づくと、後ろで手を組んだまま「ほう。随分派手にやられたな」と嬉しそうに見下ろす。巨大熊の皮膚と筋肉を凝縮し、繋ぎ合わせた体重三百キロある巨体を、こうもズタズタにされるとは、敵もなかなかに化け物だ。
 わざわざ再生能力が追いつかない皮膚の繋ぎ目を狙っている様子から見ても知性がある―――いや、銃創をつけた者とこの巨体を投げ飛ばした者は違う存在と考えられるだろう。敵は複数、となれば人間の仕業であることはまず間違いない。あちこちに投げ飛ばした野性的な攻撃だが、執拗に殴打しているところを見ると、対象にかなりの憎しみがあったようだ。
 野生の動物でさえ敵わない化け物の力を軽く凌駕する人間―――これは実に興味深い。動かなくなった巨体を見下ろして、リチャードは一人また奇妙な笑い声を上げた。
 愉悦に浸るリチャードの背後に捜索隊を取仕切る憲兵隊長が駆け寄ってきて「報告致します」と敬礼した。金髪の前髪を流し、襟足を刈り上げ、自分より背の低いリチャードを緊張した灰色の瞳がじっと見下ろしている。ガタイもしっかりしており、更には強面も重なって、いかにも人の上に立つ人間らしい威厳を感じられた。
「現在、確認出来る遺体は、その獣も含めて三体。先程、別の部屋でも子供の死体が大量に発見されました。続けて古城内を捜索します」
「いちいち報告せんでもいい。他の遺体は後回しにして、さっさとこの化物の遺体を回収しろ。貴重なサンプルだ」
「……しかし、遺体の特定の優先が我々の務め……事件の処理をし、いち早く報告をしなければなりません」
 帰りを待つ家族がいることを考えると、早く遺体の特定を進めたかった。ほう、私に逆らうのかとリチャードは顔を近づけ、隊長の左耳につけられたリングピアスを下に引っ張る。痛みから逃れようとする気持ちが働き、隊長はそれに合わせて体制を低くした。この隊の指揮官は誰だ? と自身の顔前に近づいた耳に向かってリチャードが問いかける。
「ブレイン博士……貴方、です」
 ブチッ。太い音と共に耳が引きちぎられ、隊長は声にならない悲鳴をあげて耳を抑えた。斜めに引きちぎられた耳は少し垂れ下がっていて、見るからに痛々しい。
「そうだ。なら、優先させるべきものがなんなのか分かっているだろう? つまらないことを聞いて時間を無駄にさせるんじゃあない。それでも文句があるならその場で自害したまえ」
 君のような凡人の代わりはいくらでもいると、リチャードは吐き捨てる。耳を抑えた隊長は「申し訳ございません」と顔を歪めた。それを見ていた兵は慌てて作業を進める。きっと、見せしめのつもりだったのだろう。普段から全体を取り仕切る自分よりも、リチャードの方が上の立場であるということを他の兵士に知らしめているに違いない。これが稀代の天才科学者―――リチャード・ブレインなのだと。
「エリック隊長! 地下からラヴァル卿と似た儀式の形跡が発見されました! それから……半壊した地下の瓦礫下から十代前半女児と思われる遺体も……」
 緊迫したエントランスホール内に威勢のいい声が聞こえ、立ち上がったエリックは「また黒魔術か……」と振り返る。北西地域を担当するエリックは、当然ながらラヴァル卿事件処理も立ち会っていた。黒魔術の周辺では多くの犠牲者が出てくる。凄惨な事件が連続で引き続き起こると、流石に疲弊してくるものだ。死体を見ていい気分になれる人間なんていない。憲兵の中で鬼と恐れられているエリックでさえも、まだ幼き子供の死を心苦しく思った。
 以前あったルカイアナ教団の事件を考えると、上もそろそろ黒魔術に危機感を覚えてほしいものだ。憲兵になったのも、そう言った悪から守るためだったというのに。必要となれば手のひらを返し、上にとって都合が悪ければ、人の死でさえももみ消してしまう。これが自分の目指していた正義と言えるのだろうか? 
 部下の失態で、一人の友人が崩れ落ちる光景を瞼の裏に浮かばせながら、エリックは暗然と目を伏せた。
「イエッエッエッエッ。黒魔術なんて未だにやっていたのか、あのオカルト女」
 串刺しになったイザベルを見上げるリチャードに、エリックは「彼女をご存知で?」と眉を顰める。実は、今回の事件を聞いてなかなか外に出ようとしないリチャードが動き出した事に疑問を持っていたのだ。ああ、と短く切るようにしてリチャードが答える。
「イザベル・ヘルキャット、だったかね。十数年前に夫を病で亡くしてな。たまたま用事があって通りかかった際に、亡くなって間もない死体を引きずりながら歩いていた」
 リチャードは当時のことを思い出す。手を絡めるように握り、死体を引きずるように歩いていた黒髪の女。その異様な光景に周囲の人間は自然と道をあけていたのを覚えている。聞けば『彼は生きている』『私たちの邪魔をしないで』と呟いてばかり。だが、イザベルは「死者が生き返った」と本気で信じ、そう訴えていた。
「その執念に惹かれてね。男の死体にちょっとした細工をしたのさ。あまりにも細い手足だったから、動き出しても、バランスが保てなかったんだろう。恐らく、倒れた時に強い衝撃を受けて動けなくなったに違いない」
 正直、あの美女が異常だったことぐらいしかエリックは理解できなかった。ところで君、と地下の報告をした憲兵にリチャードが問いかける。
「地下に、これと似た石がなかったかね?」
 そう言って懐から取り出した小瓶には、燐光石の欠片が入っていた。憲兵は顔を近づけて凝視し「同じかは分かりませんが、確かに石のようなものは沢山保管されていました」と言った。そうかと、まるで分かっていたかのようにリチャードは目を細める。
「全て残らず回収しろ。研究室に持って帰る」
 はっ、と短く兵隊のかけ声のように了解の意を示すと、憲兵は地下の方へと駆けていった。そのやり取りを見送っていたエリックは「博士、それは一体?」と問いかける。
「燐光石。正確にはメアナリアと呼ばれる動物寄生性線虫が多く含まれた凝灰岩だ」
「メアナリア、ですか?」
 聞き覚えのない単語に思わずオウム返しをする。話に火がついたのか、リチャードは「君たちよりもよっぽど利口な生物だ」と、引き攣った声をあげながら笑った。
「正式名称はメアトナタリアクロコンド。死体が好物でねえ。鋭敏な温度感覚と嗅覚を持ち、哺乳類の皮膚線から這い出る酪酸の匂いに信号が働くと、死体内に侵入し、生物の死んだ細胞を糧に増殖を繰り返す生物だ。そして、脳や脊髄を始めとした中枢神経系に集まると、あたかも生きているかのように生物を操る。脳がある場合は生前の記憶を所持することができるらしいが、奴らの恐ろしさは頭部や四肢がなくても動き出してしまうところだ」
「死者が生き返る、ということなのですか?」
 青ざめるエリックの言葉に「面白いだろう?」とリチャードがさらに続けた。
「黒魔術はまさに古代人が発明した最先端の化学と言えよう。メアナリアは死ぬと青白い光を発し、それを古代人の猿は神聖なものと勘違いした。普通は肉眼でやっと見えるぐらいの光だが、凝灰岩に含まれるガラスの粒が光を受けて反射し、より強い光を生み出したことで気がついたんだろう。魔法陣を描き、その中央に置いた死体には当然生き残ったメアナリアが入っていく。奴らの面白いところはそれだけじゃあない。生きている細胞を記憶できる利口さを持ち、死体じゃないと認識した生物には全く興味を示さない習性がある。黒魔術の儀式内に術者の一部を塗り込む過程があるらしいが、それはメアナリアに事前に細胞を覚えさせることによって自身を襲わせないようにするためのものだ。特に脳が酷く損傷している状態だと、酪酸の臭いに生者だろうが誰彼構わず襲う凶暴性があるからな」
 古代人の猿にしては素晴らしい発見だと、リチャードは口許に冷笑を浮かべる。死体が生き返るなんて、まるでアンデッドのようだと、エリックは息を飲み込んだ。死からの復活を喜ぶ人間は多くいるかもしれないが、本当にそれで生き返った人間が「生きている」と言えるのだろうか。あまりの衝撃にエリックが放心していると先程の憲兵がブロンド髪の女児を横抱きにして再度やってきた。
「おい、どうした」
「実は、先程の少女が生きていたようで……!」
 そこまで言ってからギョロりと睨みをきかせるリチャードに「石は別のものが回収しております」と、憲兵は慌てて付け足した。
「生存者か……!」
 横抱きにしていた少女を床におろすと、フラフラとその細い足で立ち上がった。閉じられた瞼はへこんでいて、いつまでも目を開かないところを見ても眼球がないようだった。
 大丈夫かい? と優しく肩に手を置くエリックに少女は少し顔を上げ「誰……? ママじゃない……」とおぼつかない声で返す。会話も可能なら何か聞き出せるかもしれない。
「憲兵だ。怖がらなくていい」
 大丈夫だと、優しく頭を撫で、エリックは安堵の笑みを浮かべたが、その様子を見ていたリチャードは「ほほう。これは丁度いい」と顎を撫でた。
「よし。ひとまずこの子は」
 肩に置いていた手を離し、エリックは立ち上がる。が、リチャードが声を遮って少女に近づくと、そのか弱い肩を強く押し出した。立っているのもやっとだったブロンド髪の少女は後頭部から強く背中を打ち付ける。ゴンッ、明らかに当たり所が悪い音だ。突然のことにエリックは、なっ、と短く切らした驚嘆声を上げた。
「何を……!」
「死者をも復活させるメアナリアの自己複製能力は素晴らしい。上手く利用出来れば人間に高い回復能力を与えることができる。だが同時に、奴らは脆弱だ。見ろ」
 先程の話を続け始めるリチャードに、目を見開きながらも、言葉に誘導させられ少女を見下ろす。当たりどころが悪かったとはいえ、少女の身長から床までの距離を考えたら、死に至るまでにはいかないはず。けれども、少女は背中を強く打ちつけたことで呼吸がままならず、背中を仰け反って苦しそうに悶えていたが、やがて完全に動かなくなった。いや、これは―――
「死んで、いる?」
 膝をつき、動かなくなった少女の脈を確認して、エリックは呟いた。いや、なぜこんな簡単に死んでしまったのだろう。確かに今の衝撃で首の骨が折れたなら分かるが、折れたわけではないようだ。それとも、後頭部強打による脳血管の破裂が原因か? いや、第一それらが原因なら間を置かず即死するだろう。顔にかかった少女の髪を払い、頬を撫で、困惑するエリックの背後で「これが本来の姿だ」とリチャードが見下ろした。
「体の中心を軸に内部の細胞にまで強く衝撃を受けると、衝撃を受けたところから死んでいき、仮初の命を与えられた生物はゆっくりと死体に戻る。これがメアナリアの弱点だ。当たりどころによっては数分の時間差を生むこともある」
「ということは、彼女は既に―――」
 そこまで発してから、エリックは背中に悪寒のようなものを感じた。先程の会話は、既に死んだ人間とのものだったのか。それじゃあ、まるで亡霊と話していたようなものじゃないか。メアナリアの恐ろしさに頬を硬直させ、眼球だけが左右にキョロキョロと動く。それを見ていた憲兵は後退りをし、無言で走り去るように逃げだした。リチャードは奇妙な笑い声をあげ「情けない連中だ」と逃げ出した憲兵の背中を見送る。
「脆弱故に、生息地域は限られていてね。メアナリアによって仮初の命を与えられた生物は、性質を理解して気をつけなければ長生きすることはできない。それでは、まだ使えないだろう? だから私は、奴らの性質を改良し、利用しやすいように作り替えた。この化け物は私の研究が成功した初めての事例だ」
 毛深い四肢に振り返り、まあ、もう必要のない被検体だがなと、リチャードは巨体を蹴りつける。まるで悪夢を見ているようだとエリックは博士の背中を見て思った。そういえば、動く死体の伝説はノルワーナが発と聞く。メアナリアによって動かされた死体を見た人が「アンデッド」の話を生み出したとなれば関連性があった。未だに情報の整理が追いつかずにいたエリックは、せめて落ち着こうと考えを無理やり空想話と繋げ、震えた長い息を吐いた。
「……そんな恐ろしい……メアナリアが何故、凝灰岩に?」
 恐ろしいからこそ素性を知らないのは怖かった。恐怖と困惑を紛らわせる為の質問とはいえ、そこにはメアナリアに対する興味が感じられる。その食いつきに、リチャードが楽しそうに口を開いた。
「かつてノルワーナの南西地域に、コルメナンという村があった。その村は休火山の麓に位置する村だったんだが、ある年に噴火し、その村はたちまち火山灰によって生き埋めにされた」
 聞き覚えのある事件だった。昼夜に渡って村全体に火山灰が振り続け、十数時間後に火砕流が発生し、一瞬にしてコルメナンは完全に地中へ埋まったという。噴火から数十年後に村は発掘されたが、中にいた人間は当然腐敗消失し、生前の苦しみを残した火山灰の痕だけが残った。その最後の一瞬を映した住民一人一人の姿に心を打たれた旅人が、アルマテアで本に記したことが有名になっている。エリックはそこまで考えてから「まさか……」と声を震わせた。
「大方君の想定通りだろう。生き埋めにされた事で次々と死体になっていく住民たちはメアナリアにとって格好の餌だった。死体に密集し、寄生したが、火山灰が固まった事で外に出られず、住民は窒息し、二度目の死を迎えた。流石にメアナリアも生物を生かす酸素がないとずっと取り憑いていられないらしい。メアナリアが人間の限界を超えるほど増殖したことで、肉体の方が持たなかった。腐敗消失というよりは膨張した細胞が弾け飛んだというのが正しい。そうして生きたまま残されたメアナリアは、長い間死体と共に眠り続けた。燐光石はつまり、人間を生き埋めにした火山灰の欠片ということになるな」
 リチャードの声に返す言葉がなかった。人を殺した火山灰で人が生き返るなんて、なんだか皮肉なものだ。人の苦しみが詰まった燐光石の呪いが、死者を復活させているようにも見える。どうりで黒魔術に使われるわけだ。
「メアナリアがここまで密集した状態で手に入るのは非常に難しい。全ては偶然の重なりが生んだ、正しく奇跡の石だ。黒魔術がなければ、この国にこの石が入ってくることはなかっただろう。あの女の一族にも感謝しなくてはな」
 イエッエッエッエッ、と喉からくる笑いを引き攣らせて、リチャードは「無駄話は終わりだ。早く仕事に戻れ。サンプルはひとつ残らず回収しろよ」とエリックの隣を通り過ぎた。エリックはその言葉に、再度優先順位の変更について抗議しようと振り返る。だが、開いた口からその言葉を引き出すことが出来ず、そのまま閉口させ「承知致しました」と目を伏せた。
 先程引きちぎられた耳たぶを抑え、エリックは恐怖に震える。いつもそうだ。自分の命欲しさに、いざと言う時に行動に移せていない。正義だなんて馬鹿馬鹿しい。自分は結局、ただの臆病者だ。自分の弱さを痛感し、エリックは顔を歪めさせた。
 エントランスホールの中央を歩いていき、リチャードは串刺しになったイザベルの銅像前に散らかった頭部らしき肉塊を見下ろす。血飛沫の痕跡から見るに、何かに潰されたようだ。獣の被検体が自分でそんな器用なことをやるとは思えない。やはり、獣の被検体を殺したのは別の被検体―――それも完成系に近いものの仕業に違いないのだろう。
「是非ともお会いしたいねぇ、そんな化け物に」
 圧迫されて飛び散った肉塊をリチャードは愛おしそうに見つめた。



 目覚めている時の記憶が瞼の裏で乱雑している。浮遊感に包まれ、それはどこか優しくも安息とは程遠い気持ち悪さがあった。空間が青紫色に染まってぐにゃぐにゃと歪んでいる。その光景を目にしてもなお認識できず、ただただ眺めていた。思わず耳を塞ぎたくなるような耳鳴りが鼓膜内で主張し続ける。やがて、それは甲高い悲痛な声へと変わっていった。死にたくない、死にたくないと。
「グレーテ!!」
 ツグナは勢いよく上半身を起こした。背中にもびったりと汗をかいていて、服が肌に張りついているものだから気持ち悪い。その光景を、部屋に入った途端に目撃したミシェルは目を見開き「起きて……!」と替えのシャツを落としそうになった。その場で眉を下げながら口角を上げたり、下げたりして、開いた口をパクパクとさせる。
「良かった……! どれだけ心配したと……!」
 感極まって駆け出し、ツグナを強く抱きしめる。何日も食事を取っていないせいで、体温が暗室の金属を触っているかのように低く、以前より一回り痩せているようだ。
 あの事件から既に二週間。外は暖かな陽光が照りつけ、本格的に春の始まりを迎える。あと数日遅ければ、シアンが最終的な決断を下すことになっていた。一度植物人間になった人間が意識を取り戻すという事例はこれまでになく、ミシェルでさえも正直、諦めかけていたというのに。なんて奇跡だろう。
 その運の良さや尋常じゃない回復能力に対する驚きは全て頭から抜け出し、ただただ「生きている」という喜びに言葉を失った。また、じわりと涙が溢れそうになったが、瞬きして何とか堪える。
 だが、溢れ出そうな感情を必死に抑えるミシェルとは違って、ツグナは酷く混乱しているようだった。数秒間に大袈裟すぎるほどの瞬きを重ね、頭を少し振りながらミシェルの腕を鷲掴み「グレーテは!?」と声をあげる。
 勿論、ミシェルはその名前に心当たりがあるわけではなかった。狼狽した赤い瞳に映る自分の顔に「グレーテ? 誰その子?」と困惑して返す。その言葉にツグナは突き飛ばすようにしてミシェルと向き直り、怯えたように離れた。
「赤髪で緑目の……一緒に行動していたんだ……それで……」
 必死に説明しようとして手でジェスチャーをしながら口を動かすが、ツグナは突如襲った目眩と頭痛にふらりと体を後ろに傾けた。危ない! と、ミシェルが倒れそうになったその腕を掴もうとしたが間に合わず、ツグナは背中から床に叩きつけられる。鈍い音にミシェルはベッド上から「大丈夫?」と声をかけるが、床に倒れたまま蹲っているツグナが答えることはなかった。
 その様子を見て、ミシェルはしばらく押し黙った後に「ごめん。その子のこと……グレーテが誰だか、知らない」と小さく呟く。間を置かず「知っている」とかすれた声がベッドの下から聞こえてきた。後について嗚咽が静まり返った空間に流れる。
「グレーテはっ、死んだんだ……! 僕の目の前でっ……守るって約束しだのに……!守れながっだ……! 僕のせいで―――! 」
 悲痛な声の嘆きが部屋に響いた。顔を覆い隠したツグナの手は爪を立て、ガリガリと掻き回すように自ら傷をつけていく。ミシェルはハッとし「馬鹿! 何してんのよ!」とその腕を無理やり掴んだ。 
 しかし、爪を立てたツグナに容易く振り払われ、ミシェルは手に切り傷を負う。なんて力だ。ナイフで切られたような痛みに、震えながら手を抑える。その間にもツグナは慟哭し、手足を地面に叩きつけながら暴れだした。白目を向き、ガチガチと歯を鳴らしている。両目から頬にかけて肌を引き剥がすように爪が下ろされ、蚯蚓脹れが痛々しく肌に這いずっていた。血が流れ、まるで涙を流して泣いているかのよう。髪を掻きむしり、細く柔らかい白い毛質が床にハラハラと落ちていく。引っ掻いた傷からしみでた血で髪も顔も真っ赤に染め上げられていった。
 まともに錯乱する姿を初めて見たので、ミシェルはどうすればいいか分からず動けなくなる。このままじゃヴェトナの悪夢がまた―――
『君には失望した』
 その声と共に向けられる拳銃。もし、またツグナが暴れだしたら、あの人は何としてでもツグナを殺すだろう。次はない、ミシェルは本能的にそう悟った。
 上半身を起こして頭を掻き毟るツグナをキッと睨みつけ、素早く背後に回るとその細い首に抱きついた。頸動脈を絞めるように腕を顎にしっかりと密着させ、首が折れる勢いで力を入れる。
 そうだ。今になってあの時の返事を思い出した。お人好しのこいつはいつだって「自分が辛いから」人に優しくするような、どうしようもない馬鹿で、誰よりも優しい奴だってことを。
「しっかりしろ……! 失ったのはあんたのせいじゃない! どんなに自分の無力さに絶望しても、人の死を悲しんでも、どうにもならないことだってあるんだ! 前を見ろ! 現実から目を逸らすな! 全て失ったわけじゃない……! あんたに救われているやつもいるんだよ! そんな悲しみに負けんじゃねえ!!」
 息が出来なくなったことで、抵抗しようとしていたツグナの力が徐々に抜けていく。急激に重くなって、抵抗することをやめた人物に、ミシェルは力なく腕を離した。
「っ、馬鹿野郎……!」
 項垂れたミシェルは自身の膝上に少年の頭を乗せたまま、振り絞るように呟いた。



「はあっ、はあっ……」
 夜の街に静寂とは程遠い荒げた息が駆けていく。ブロンドの髪を靡かせた女は路地裏へと追い詰められ、遂に逃げ場を失った。壁によりかかり、なんなの、なんなのと、現状が理解出来ていない恐怖に満ちた声で繰り返す。
「ぎゃはははは! 逃げるなんてひでえな、お嬢さん。誘ってきたのはあんたのほうだろう?」
 下品な笑い声を上げる影と向き合った若年の女性は、痙攣したかのように身体を震わせながらその場に尻をついた。顔半分は火傷によって皮膚が硬直しているが、恐怖に支配されたその瞳だけは暗澹として、薄らと目の淵に涙を浮かべている。
 身動きが取れなくなった女性を追いつめるようにふらつきながら近づく影は外套のフードを深く被っていて、その中から毒々しい真っ赤な瞳が見えた。
「その目…… まさかツグナ君?……でも声が、違う」
 震えるその言葉に眼前の赤目は「あ? ツグナ? 聞かねえ名だな。知ってか? ディオ?」と顔を上げた。屋根の上には、眼前の赤目と同じように外套のフードを深く被っている人物が立っていて、路地裏を見下ろしている。
 俺に気安く話しかけるな、ルカ、と冷たく言い放った後にその人物が路地裏に飛び降りてきた。あれだけの高さから降りてきても平然とその地に足をついて、ディオと呼ばれた影が女と向き合う。
「初めて聞く名だが、同じ目なら仲間の可能性がある。もしくは、あの方が現代に生きておられるのか……おい、火傷女。そいつは今どこにいる?」
 高圧的に見下ろされた瞳は、自分を追ってきた影と同様に真っ赤に光っていた。ひい、と小さく悲鳴をあげてから「知らない、知らないわ!」と女が首を横に振る。酷く脅えていて、会話もまともに出来なさそうだ。使えないなと、残念そうにディオが舌打ちをして背を向ける。
「行くぞ、ルカ。前みたいに人に見られたら面倒だ」
 隣を通り過ぎて路地から出ようとするディオに「んだよ。どうせなら、最後まで見てえじゃん」とルカが不満をこぼした。ふざけるなと、すぐさまディオが威圧した声で返す。
「それでこの前のように人間に知られたらどうする? 俺たちは表立って動くべきじゃない。今はまだな。もし、本当にあの方がいるなら、いつかきっと再会すべき時が来る。俺たちは来る日までただ待つだけだ」
 振り向かず、再度前へ歩き出すディオに、ルカは後頭部で腕を組んで「相変わらずお堅いねえ……だから女にモテねえんだよ」と嘲笑った。余計なお世話だと、苛立った声が背後で答える。どうやら助かったみたいだと安堵する女性に向かって「いやあ、残念だ」とルカが呟いた。
「オレ様に体があれば、あんたみたいな美人と一発やりたかったんだがな。まあ、縁があったら来世でまた会おうぜ。じゃあな、愛してる」
 人差し指に唇をつけてから離す動作をすると、ルカはディオを追って女性に背中を向けた。広場に向かって歩き出す二人の先は、よく見れば色彩が抜け落ちた灰色の世界になっており、その空間が水面のように揺らいでいる。この世のものとはまた違った冷風が突き抜けるように流れ込んできて、女性は思わず身震いした。先程までは普通だったのに。一体何が起こっているんだろう。
 戸惑いと恐怖から来る震えでその場から動けずにいると、その灰色の世界から黒い霧が待っていたかのように溢れ出しきた。意志を持った影のようにも見えるソレは、自分に背を向ける二人とすれ違うようにこちらへと向かってくる。黒い影は近づくまでに人間の歯列を形成していくと、女に向かって大きく口を開いた。
「いっ、いやああああ!」
 女の上半身を飲み込み、食いちぎると、影は大きく膨れ上がって風船のように破裂した。黒いモヤが空へと昇っていく。
「馬鹿だなあ。人間に戻ろうとして得た魂(心臓)が、自分の消滅に繋がっていることも知らずに」
「だが、消滅したことで流出する生命エネルギーはいずれまた次の肉体を得る。それがこの世界の理だ。この世には人間の理屈では証明できないものも存在する。それを幻想だと言い張る人間共に、いつか思い知らせてやろう。俺たちはここに存在していると」
 二人は灰色の世界に足を踏み入れると、空気に溶けていくかのようにして消えていった。
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