上 下
10 / 32

010 やっぱり私、信也くんが好き

しおりを挟む


「嘘―っ !」

 風呂場を探索していた早希が、叫びながら戻ってきた。

「だから早希……早希さん? いくら何もないからって、そこまで物色する? てか、フリーダムすぎない?」

「そんなことより信也くん、何あのお風呂」

「ばっちいだろ」

「そうじゃなくて」

「何かあった?」

「何もないから言ってるの! 流石にお風呂はって思ってたのに」

「何?」

「信也くん、シャンプーは?」

「ないけど」

 さも当然という顔で、信也が答える。

「まさかと思うけど信也くん、髪は何で洗ってるの」

「だから石鹸。頭も顔も体も、全部石鹸」

「これはちょっと……びっくりだわ」

「そう? 男なんてこんなもんだろ」

「そんなことないって。信也くん、髪はシャンプー使おうよ」

「ん~」

「それにリンスも。それだけで全然違うから」

「そうなのかな。分かった、今度買っとくよ」

「やっぱりそこは、こだわりって訳じゃないんだ」

「まあね。でもまあ、早希がそこまで言うんだから、一度試してみるよ」




 探索を終えた早希がテーブルの前に座り、信也の顔を覗き込む。
 信也はテーブルに灰皿を置くと、早希に断り煙草に火をつけた。

「信也くんが一番こだわってるのって、煙草なのかもしれないね」

「ああごめん、やっぱ煙きつい?」

「そういう意味じゃないよ。自分の部屋なんだし、堂々と吸ってください」

「恐縮です」

 そう言って二人、顔を見合わせ笑った。

 会話が途切れ、二人の間に沈黙が続く。
 耳に入るのは、堤防沿いを走る車と風の音だけ。
 しかしその沈黙は、二人にとって居心地の悪いものではなかった。
 穏やかで、心地良いひと時。
 互いの顔を見つめあい、視線は動かなかった。

「信也くん……」

 早希の口元がわずかに動いた。

「やっぱり私、信也くんが好き」

 憂いに満ちた大きな瞳に、胸が締め付けられる。
 こんな感覚、遠い昔に捨てたはずなのに。そう思った。

「信也くんは、どうして付き合うのが嫌なの?」

「……」

「今日は私の、23回目の誕生日。プレゼントだと思って、教えてくれませんか。
 私、ずっと信也くんを見てました。会社での信也くんは本当に優しくて、頼りがいがあって格好よくて。寝ぐせが立ってるのも好き。気を抜くと死んだ魚の目みたいになるけど、他人に対してはいつも真剣で」

「褒められるのに慣れてないから、その辺にしてくれるとありがたい。あと、さらりと嫌味を挟むのもやめてもらえると」

「魚の目の信也くんも好き。でも、どこか遠くに行ってしまいそうで少し怖い時もあって……今度から、そう感じたら手、握ってもいいですか」

「いやいや、勘弁してくれ」

「私は信也くんのこと、そういう風に思ってました。この気持ち、ずっと胸の中で育ててきました。
 なのに信也くん、女と付き合うつもりはないって。タイプじゃないって言うならまだしも、そんな理由じゃ私、引き下がれません。生まれて初めての告白、そんな簡単に諦められません」

「俺は」

 熱い視線に耐えられなくなり、信也が再び煙草に火をつける。

「俺は本当、早希が思ってるような男じゃない。そんな風に見てくれるのは、素直に嬉しいけど。
 でも俺は、誰とも付き合う気はないんだ」

「理由、聞かせてくれませんか」

「……」

「信也くん」

「……分かった、正直に言おう。俺は人を信じてないんだ」

「人を?」

「うん。俺は誰も信じていない」

「……どうして?」

「裏切られるのが怖いから。だから信用しない。シンプルだろ?」

「全然シンプルじゃない。と言うか、極端すぎるよ。人間って、そんな0か100かで割り切れるものじゃないでしょ」

「そう思える人はそれでいいと思う。でも、俺には無理なんだ」

「だから信也くん、生きることに喜びを求めてないんだ。そういうことか」

「どういうこと?」

「この家を見て、信也くんが楽しみから目を背けてることは分かった。便利なものがいっぱいあるのに、使おうともしない。楽しいものがたくさんあるのに、知ろうともしない。
 料理だって、工夫すればおいしく食べられるのに、この家には調味料もない。着る服で気持ちも変わるのに、興味を持とうともしない。
 信也くん。気付いたことがあるから聞きたいんだけど、信也くんはどうして石を集めてるの?」

「好きだから」

「じゃあどうして、石が好きなの?」

「それは……変化しないからだよ」

「やっぱり」

「何だよ、やっぱりって」

「思った通り。信也くん、人と深く付き合うことで、関係が変化するのを恐れてる。人の気持ちが変わることを恐れてる。
 確かに石は、よほどのことがない限り変わらない。まるで時間が止まってるみたいにね。でも人は違う。石じゃない。私も信也くんも、生きてるんだよ。今を」

「……」

 信也が難しい顔で煙草を揉み消す。

「……今日は楽しかったよ。名前で呼び合うことで、早希の新しい一面も見れたし」

「あー。信也くん、話をまとめようとしてるー」

「俺の話を聞いて、だいぶ幻滅したろ? 今まで通り仕事して、たまに軽口叩き合って。それでいいじゃないか。
 俺は早希の思うような男じゃないし、懐も深くない。情も薄い。早希の言う通り、人生に楽しみも求めていない。
 こんな俺で妥協なんかせず、もっといい男と付き合うべきだ。職場にもいるだろ?若いやつ。何なら紹介するよ」

「だからまとめないでくださいって」

「何日か経って冷静になったら、俺への気持ちなんてすぐ冷めるよ」

「信也くん……」

 早希が、信也の手に自分の手を重ねた。
 驚いて手を引っ込めようとしたが、早希は離さなかった。

「信也くん……多分私、信也くんが思ってる以上に信也くんのことが好き。今の信也くんの話を聞いても、全然想いが変わらない。それより今日一日、信也くんと過ごしたことで私、昨日よりもっと信也くんが好きになった」

「あ、あの……早希……」

 早希の温もりが伝わってくる。

「信也くん……」

 早希の顔が近付いてくる。ゆっくりまぶたが閉じられる。

「ひゃっ」

 信也が空いてる方の手で、早希の頭を軽く小突いた。

「この肉食女子め。一人暮らしの男の部屋、襲うのは俺の方だろ」

「もぉー」

 早希が頬を膨らませた。

「分かりました。じゃあ今日はこれで帰りますね。信也くんが手を出してくれたら、お泊まりもありって思ってたんだけど……今日は戦略的撤退とします」

「お泊まりって……お父さんとお母さん、泣くぞ……」

「……ははっ、そうですね」

 早希が軽く笑い、立ち上がった。

「じゃあ信也くん、今日は一日ありがとうございました。とっても楽しかったです」

「いや、結局何もしてあげられなくて悪かった。せっかくの誕生日だったのに」

「いえ、最高の誕生日でした。今までで二番目に」

「ならよかった。明日はゆっくり休んで、また月曜からよろしくな」

「信也くんは明日、どうしてるんですか」

「出かけるつもりだけど」

「お出かけ……どこにですか?」

「摂津峡」

「摂津峡って、高槻の?」

「うん。先週も行ったんだけど、雨が降ってきたんですぐ帰ったんだ。明日は天気もいいみたいだし、リベンジにね」

「そうですか……分かりました。じゃあ信也くん、おじゃましました」

「ああ。誕生日、おめでとう」

「ありがとうございます」

 そう言って笑顔を見せた早希が、信也の頬にキスをした。
 一瞬の出来事で、よける暇もなかった。
 しばらくして離れた早希は、うつむいたまま囁くように言った。

「信也くんの……こういう隙が多い所も好きなんです」

 そう言うと、早希は走っていった。
 呆然としていた信也だったが、ふと我に返ると、

「駅まで送ろうと思ってたけど……追っかけるのも悪いよな、多分……」

 そうつぶやき鍵をかけた。




 再び煙草に火をつけると、大きく煙を吸い込んだ。

「三島早希さん、か……」

 頬に手をやると、また胸が締め付けられた。
 だが信也にとってそれは、決して嫌な感覚ではなかった。
 そしてそう感じた時、彼の脳裏に秋葉の顔が浮かんだ。

「いや、駄目だ……駄目なんだ……」

 そうつぶやき、荒々しく煙草を揉み消した。


しおりを挟む

処理中です...