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043 神代風土記

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 亜希の死から一週間が過ぎた。




 葬儀の翌日。教室に入ると、生徒の姿はなかった。

 連絡は受けていたのだが、確認したいこともあり登校した奈津子。
 奈津子を待っていた坂井から、改めてしばらくクラスを閉鎖すると告げられた。
 今は教師たちが交代で家を周り、生徒たちの心のケアに努めているらしい。

「でも……もうすぐ文化祭もあって」

「昨日の職員会議で、うちのクラスは文化祭、不参加とすることが決まったんだ。まあ、当日他のクラスの催し物を見に来れればいいと思ってるんだが。
 とりあえず今月いっぱい、期末試験までの学級閉鎖が決まった。一応試験は行うつもりだし、範囲のプリントを配布しておく予定だ。参加出来ない者に関しても……事が事だけにな、今回の結果は進級に影響しないよう、配慮するつもりでいる」

「……そうですか」

「南條は……大丈夫なのか」

「はい……正直言うと、まだ心の中が整理出来てません。でも、何もしないでいる方が辛いって言うか……」

「確かに、それも一理あるな。折角来てくれたのにすまない。もしよかったら、今日の分だけでもお前に授業を」

「ありがとうございます。でも……大丈夫です。私だけ授業を受けるのも悪いですし。今日は帰ります」

「何かあったらいつでも連絡してくれ。情けない担任だが、少しくらいはお前たちの力になりたいからな」

 そう言って力なく笑う坂井に、奈津子も笑顔で応えた。




 玲子とも話をしていない。
 一度家の前にまで赴いたのだが、声を掛けることが出来なかった。
 幼馴染の亜希を失った彼女に、何を言えばいいのか分からなかった。きっと彼女は自分より哀しみ、苦しみ、深い喪失感にさいなまされている筈だ。
 昨日今日知り合ったばかりの自分が、分かったようなことを言うのは間違ってる。
 彼女からの連絡を待とう。そう思ったのだった。

 それに自分には今、やるべきことがある。
 宗一から預かった「神代風土記」の翻訳。
 確証も根拠もない。しかし奈津子は、ここに何か解決の糸口が隠されているような気がしていた。
 難解な筆文字をスキャニングし、ひとつひとつネットで検索する。それでも解読出来ないものは、有料サービスを使用した。
 その後、辞書を使って翻訳していく。
 作業は想像していたよりも大変だった。




 文字を指でなぞる。
 時折文字がぼやけた。
 瞳に溢れる涙。

 本当なら今頃、みんなで文化祭の練習に励んでいた筈だった。
 自分にとっては、初めてと言っていいイベントへの参加。
 台詞を間違え、誤魔化すように笑う亜希。そんな亜希の頭を小突く玲子。
 クラスメイトたちも楽しそうに笑いながら、自分の書いたシナリオを手に練習に励む。
 その筈だった。

 しかし今。自分はまた一人になっている。
 そんな自分が滑稽に思えた。
 こんな感情、初めてだ。

 寂しい。
 辛い。
 哀しい。

 奈津子は涙をぬぐい、表情を引き締めた。
 こうなってしまった全ての原因が、ここに綴られているのかもしれない。
 ならば今、自分のすべきことはこれなんだ。

 感傷に浸りたいなら、後で好きなだけ浸ればいい。
 今じゃない。
 クラスのみんなだって、いつまでも学校に来ない訳じゃない。
 時間でないと解決しない問題もあるんだ。
 だから今、この気持ちは閉じ込めておこう。
 再会する時まで取っておこう、そう思った。




 終わりが見えないと思っていた翻訳作業も、続けていく内にコツをつかんでいった。
 難解な筆文字も、何度も調べて行く内に読めるようになっていった。
 どうやらこの書物は、当時日本に生息していた妖怪・物の怪もののけの生態を記したもののようだった。中には馴染みのある妖怪もいた。

 そして今日。ようやく全ての翻訳が終わったのだった。
 よく集中力が続いたものだと、自分でも思った。
 だが、その理由ははっきりとしていた。
 何かに集中していないと、心が折れそうになっていたからだ。

 ーー視線。

 亜希の死を境に、自分に付きまとっていた視線が強くなっていくのを感じていた。
 どこにいても何をしていても、息が詰まりそうだった。気分を変えようと何度も外に出てみたのだが、視線は自分を追いかけて来る。
 空を見上げると、暗い雲が広がっている。
 重くし掛かってくる低い空に、ため息しか出て来なかった。

 心が休まることがなかった。
 奈津子の神経は日に日に消耗し、弱っていった。
 それでも作業に没頭している間は、視線のことを忘れられるような気がした。だから奈津子は翻訳に打ち込んだ。

「ふうっ……」

 パソコンに打ち込んだ文章を見返しながら、奈津子がため息をつく。
 しかしその表情に、やり遂げた達成感はなかった。
 それよりも作業を終えたことで、またあの視線に付きまとわれる恐怖が瞳に宿っていた。

 怖い。
 いい加減にしてほしい、もう勘弁してほしい。
 少しでいい、休ませてほしい。そう願った。
 しかし視線は彼女を離さない。
 益々強くなっていく。

「一体何が目的なの? 私にどうしてほしいの?」

 苛立ちながら、吐き捨てるようにつぶやく。

「……」

 姿見の一面鏡の前に立ち、顔を見る。
 随分やつれた気がする。
 考えてみればこの数日、食事もしっかりと摂れていない。それに夜も、視線が気になって眠れていない。
 自分をつけ狙っている視線の主が、いつ、どんな行動に出てくるか分からない。
 これまでの事件を顧みれば、抵抗することも出来ないだろう。それだけの力を持っている筈だ。
 それなのに視線の主は、ただ自分を見ているだけだ。
 疲れた。勘弁してほしい。
 何でもします、あなたの望む通りにさせてあげます。
 だからお願い。少しでいい、休ませて。
 そんな言葉が何度も脳裏を巡った。

 浅い眠りが続いているせいで、神経が高ぶっていた。目の下には黒ずんだ隈が出来ている。
 奈津子は首を振り、机の前に戻った。
 心が脆くなっている。でも駄目だ。
 これじゃ犯人の思う壺だ。
 おじいちゃんが言った通り、犯人の目的が心を壊すことだとしたら、今の私は筋書通りの状態になっている。
 負ける訳にはいかない。
 例え抵抗出来ないとしても。抗えないとしても。
 せめて一矢でもいい、報いたい。
 それに私は今、手掛かりになるかもしれない物を手に入れた。
 妖怪・物の怪もののけたちを綴った神代風土記。
 ここに何かが隠されているかもしれない。
 何をしても無駄かもしれない。それでもせめて、何が自分に起こっているのか、どんな目的で自分を苦しめているのかを知りたい。

 奈津子は表情を引き締め、パソコンに打ち込んだ翻訳に目をやった。
 勝てないかもしれない。でも負けたくない。
 知らない内に溢れてきた涙をぬぐい、奈津子はモニターを見つめた。
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