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058 協力者

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 奈津子がその場に崩れる。
 体中が震え、息が出来なくなった。

 胸が痛い。
 心臓を鷲掴みにされているようだ。

「……今の……今のって……」

「思い出した?」

 鏡の奈津子がそう言って笑う。

「あんなことが……本当に……」

「そう。あれは全部現実。あれからそうね……何度かやられたわ。あの時に生まれたもう一人のあなた、それが私。
 あなたはあの時、壊れそうな自分を守る為に私を生み出した。それからは……お互い、別々の記憶を持って生きてきたって感じね。まあ、私の専門はあなたが嫌なことに限られてたけど。おかげで随分とまあ、すさんだ女子になったものよ、ふふっ」

「そんな……私、覚えてない……」

「ああいう時、あなたは眠ってたからね。ほんと、ずるいよね」

「……」

「同じ南條奈津子なのに、あなたはいいところばっかり持っていってさ。辛いことは全部私に押し付けて」

「……ごめんなさい」

「でもあのクソ野郎、成績が上がってからは、ああいうことをしなくなった。そういう意味ではあいつ、ただの性欲まみれのおっさんって訳でもなかったのかもね。ある意味真剣に、あの方法がいいと信じてたのかも。ふふっ」

 空虚な笑い声が部屋に響く。

「あなたはあれ以来、辛い時には私に人格を譲ってきた。でもそれでも、何か辛いことがあったと感じていた。だから必死になって勉強した。
 おかげで成績は上がって、クソ野郎からされることもなくなった。あいつはあの行為のおかげだと信じてたみたいだけど、そんな訳ないよね。単にあなたが、死に物狂いで勉強しただけなんだから」

「私は……お父さんが本当に怖かった……だから頑張った。必死だった……でも……何より辛かったのはあの時、お母さんが助けてくれなかったことだった……」

「そうだね。おかげであなたはあれ以来、親に対して一切の感情を無くしてしまった。どんなことを言われても、何も感じなくなった」

「でも……あなたに辛いこと、全部押し付けてしまった……私の都合であなたを生み出して、辛いことだけをあなたに……」

「そうだね、言葉にするとそうなるね……でもね、奈津子。それでも私はあなたのこと、恨んでなんかいないよ」

「え……」

 奈津子が顔を上げると、鏡の奈津子が微笑んでいた。

「どんな理由であれ、あなたのおかげで生まれることが出来た。もう一人の南條奈津子として、あなたとは違う人生を生きてきた。確かに辛いことばっかりだったけど……でもそれって、生まれてきたからこそ感じられることでしょ? それってすごいことだと思わない? だからね、奈津子。私はあなたに感謝してるよ」

 その笑みに、奈津子の目から涙が溢れてきた。

「……ごめんなさい……でも……そう言ってもらえたら、私……」

「って、そんな訳ないだろうが!」

 突然の怒声に、奈津子が驚いて顔を上げた。
 鏡の奈津子が、体を刺し貫くような視線で睨みつけていた。

「私がどんな思いをしてきたと思ってるんだ! 勝手に生み出しておいて、体の主導権は一切譲ってもらえない。用がない時はずっと眠らされて、辛い時だけ無理矢理起こされて……ふざけるんじゃないよ!」

 その激高に、奈津子が鏡から後ずさる。

「お前がずっと憎かった! 同じ南條奈津子なのに、お前だけが日の当たる場所で生きていて、私はずっと闇の中に閉じ込められて……しかもお前は、勝手に生み出しておきながら、私の存在すら知らずに生きてきた! お前が憎い、そんなお前が憎い!」

 吊り上がった瞳で見据え、奈津子に負の感情を投げつける。

「身勝手で、自分のことだけが大切な下衆野郎。そんなあんただからね、例え記憶になくても、親が死んだ時にはほっとした筈だ。哀しむなんてこと、一切なかっただろう。そしてあなたはあれ以来、他人に対して病的なくらい無関心になった」

「……」

「元々壊れてるあなたを壊さなきゃいけないなんて、何の罰ゲームよ。ぬばたまには本当、同情したわ」

「同情って……あなたがぬばたまなんでしょ」

「だから、私は南條奈津子だって。ぬばたまなんて妖怪じゃない。さっきも言った通り、私は彼の協力者よ」

「協力者って……意味が分からない」

「あなたにりついた彼は驚いた。だって一人の人間の中に、二つの人格が存在してたんだから。
 とは言え、主たる人格はあなた。あなたを壊すという彼の目的は変わらなかった。そして彼は、私に接触してきた。協力しないかって」

「ぬばたまが……あなたに接触……」

「私は基本寝ているからね。言ってみればあなたにとって、私は影のような存在。そういう意味では彼と似ていた。そして、この肉体を手に入れたいという目的も同じだった」

「そんな……」

「あなたを壊して体を奪う。それが出来れば、彼は私の存在も受け入れると約束してくれた」

「でもそれじゃあ、今と変わらないじゃない」

「そうね、そうかも知れない。でも、私の一番の目的は果たせる」

「目的……」

「あなたを壊すことよ、南條奈津子。私にとって、この世界で一番憎い存在、それがあなた。そのあなたが絶望に飲み込まれて、泣きながら壊れていく。その為なら、私は何だって出来る」

 鏡の奈津子が、そう言って不敵に笑った。
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