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第4章 泡沫の愉悦

026 天使の囁き

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「悪魔も死神も、そして天使も。どうしてそうやって、全部分かってるような顔をするんだ。
 確かに俺たち人間は、あんたらに比べたら取るに足らない、下等な存在なんだろう。それでもこう見下されて、気分がいい訳ないだろう」

 雅司の言葉に、カノンが真顔になった。

「ご気分を害されたようですね、申し訳ありません。そういう意図はなかったので、謝罪させてください」

 立ち上がり、深く頭を下げる。
 その言葉に嘘はない、そう感じた。

「あ、いや……俺も言葉が過ぎたようです」

 ばつが悪そうに頭を掻く。カノンは微笑み、再びソファーに座った。

「それでどうですか? 私の問いにまだ、答えていただいてませんが」

 謝罪しつつも、逃げることを許さない。
 やはりこの女、一筋縄ではいかない。そう思った。

「それでは質問を変えてみましょう。雅司さん。もし今、この瞬間、契約が破棄されたとします。やはりあなたは死にますか?」




 その言葉に、雅司が動揺した。
 以前の自分なら、即答してた問いだ。

 ――ああ。間違いなく俺は死ぬ。

 しかし、言葉が出なかった。
 そのことに、自分自身驚いた。

 どういうことだ? 俺が望んでるのは、それだけじゃなかったのか?
 今すぐに、自分という存在を消し去りたい。何の痕跡も残さず、誰からも認識されぬままに消えてしまいたい。そう願ってた筈だ。
 その筈なのに。
 あれからまだ、半月しか経ってないのに。
 どうして言葉が出ないんだ。




 ――この半月の日々が、鮮やかに蘇る。
 料理を並べて微笑むノゾミ。
 ことあるごとに、夜這いを仕掛けて来るメイ。
 施設で見た、ノゾミの哀し気な瞳。
 感動物の映画で涙ぐむメイ。
 ジェットコースターで歓声をあげる二人。

 そうか……俺は今の生活を楽しんでいたんだ。
 この半月、本当に楽しかったんだ。
 これまで経験したことのない、幸せな日々。
 知らぬ間に、この生活がずっと続いてほしい、そう願ってたんだ。
 生きていることが幸せだと、生まれて初めて感じてたんだ。

「……」

 ノゾミと目が合った。彼女もまた、驚きの表情で雅司を見ていた。
 メイはうつむき、肩を震わせている。

「本当、人間は面白いですね」

 そう言って笑ったカノン。それが雅司を苛つかせた。

 分かったような顔しやがって。
 お前に何が分かると言うんだ。
 絶望なんて感じる必要もない、そんな恵まれた世界で生きてきたお前に、人間の何が分かると言うんだ。そう憤った。

「……いや、それでも俺は……死を選ぶ」

 脳裏に蘇る、忌まわしき現実。それが言葉を紡がせた。

「……あんたが感じてる通り、今の俺は人生を楽しんでいる。ノゾミたちと出会って手に入れた、貴重な感情だ。だが、それでも……俺は幸せが続かないことを知っている。俺をずっと見て来たのなら、あんただって知ってる筈だ。人間の末路を」

 その言葉に、ノゾミは施設の利用者たちを思い出した。

「どんなに金があろうが、力があろうが。人間の最後はああなんだ。あれが、神が俺たちに課した運命なんだ。それが分かっていて、どうやって未来に希望を持てると言うんだ!」

 自分でも驚くほど、声が震えていた。

「どうして神が、こんな運命を背負わせたのか。それは分からない。でもな……俺たちにだってあらがうことは出来るんだ!」

「それが、自ら人生を終わらせるということですか」

「……そうだ」

 理屈になってない。論理が破綻してる、そう思った。

 このままノゾミたちと過ごす未来、それを夢想しなかった訳ではない。もしそんな未来を選べるのなら……そう思ったのは事実だ。
 しかし、それを認めたくなかった。
 この女の前では。

「それに、契約が無効になることはないんだ。この問いに意味がないことぐらい、あんたも分かってる筈だ」

「そうですね」

「だったらどうして、こんなことを聞く。俺たちの平穏を壊して楽しいのか? それが天使様の愉悦なのか?」

 そう言って肩を落とす。
 何を言っても無駄だ、そう思った。
 気付きたくなかった感情。それに狼狽ろうばいした。

「契約を無効にすることは可能です」

「……知ってるよ。だがそれは、受け入れられるものじゃない」

「ご存知なのですね」

「契約者たるノゾミの消滅か、魂の譲渡先の変更。ノゾミが死ぬか、俺が別のやつに殺されるか。魅力のかけらもない選択だ」

「別の方法があるとしたら?」

「別……だと?」

「ええ。彼女たちは、あえて言わなかったのでしょう。まあ、気持ちは理解出来ますが」

「何だそれ。お前ら、何か隠してるのか」

 振り向くと、ノゾミもメイも、視線を合わせることを拒むようにうつむいた。

「答えてくれよ。ノゾミ、メイ」

「カ、カノン……お願い、それ以上は」

 声を絞り出すように、ノゾミが訴える。
 しかしカノンは、それを厳しい口調で退けた。

「駄目よ」

「なら……せめてこの場から外させて」

「ここにいなさい」

 ノゾミはうなだれ、肩を震わせた。
 天使が上位の存在なんだと、思い知らされた気がした。

「契約を全てなかったことにする。それが可能な方法があります」

「……」

「ですがそれには、天使の力が必要です」

「天使の……」

「私には、契約を無効にする権限が与えられています。勿論、代償は必要ですが」

「……また代償か」

「当然です。代償のないものなどありません。それが世界の摂理です」

「……」

「知りたいけれど、自尊心プライドがそれを許さない。そんな顔ですね」

 本当に嫌な女だ。
 微笑むカノンを睨みつける。

「リセットすることで、契約は破棄出来ます。彼女たちとの出会いも含め、全てなかったことになります。勿論、この半月の記憶もなくなります。
 でもそれだと、あなたは元の日常に戻るだけです。遠くない将来、あなたはまた、人生を終わらせる決断をするでしょう。そういう意味でも、リセットはお勧め出来ません。
 私が提案するのは、もうひとつの選択。彼女たちとの生活を続けられる、あなたにとって最良の未来です」

「その最良の未来とやらの為に、何を払えと言うんだ」

「あなたではなく、支払うのはノゾミさんになります。まあ、メイさんも希望するのであれば、特例として認めますが」

「……聞いていいか」

 雅司の言葉に、カノンは笑みを浮かべた。




「ノゾミさんが人間になるのです」


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