銀の少女

栗須帳(くりす・とばり)

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018 壊された日常 その3

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「柚希さん、遅いですね」

 小さく息を吐き、晴美がそうつぶやいた。

「女性を待たせるなんてもってのほかですよ、全く……男子たる者、約束の十分前には到着して待ってるぐらいでないと」

「ふふふっ」

 小川の木の下で日傘を差し、晴美の隣で立っている紅音が小さく笑った。


「晴美さん、そのセリフって、この前一緒に見たドラマにありましたよね」

「はい。と言いますか、あのドラマで言ってなくても、男子としての最低限のマナーですから」

「柚希さんはこの十日間、試験の為にずっと頑張ってこられたんです。学校に通っていない私には分からないことですが、それでも大変だったと言うことは理解できます。
 それが今日、やっと終わったんです。緊張感から解放されたことですし、ほっとして、クラスの方々とお話をされたりしているんだと思いますよ。少しぐらい待ってあげましょうよ」

「甘い、甘いですよお嬢様。いいですかお嬢様、殿方への教育は最初が肝心なんです。最初からそのように甘やかしていたら、どんどん増長していくだけです。殿方の手綱をしっかりと握っておく為には、最初から心を鬼にして厳しく接しておかないと」

「でも、柚希さんにも柚希さんの生活がありますし……いつも私の都合を押し付ける訳にはいかないと思います。
 いいじゃないですか、こうして柚希さんを待っている間、柚希さんが好きなここの風景を見ていられると思えば」

「そのわりにはお嬢様、こうして私と話している間も、何回となく時計を見られてますよね。そんなに度々時計を見られても、時間は進んでないかと思いますが」

「あ……いえこれは……」

「むふふふっ、殿方に対して理解ある婦女子でいたいと思う気持と、早く私の所に来て!と言った本音との間で葛藤されているお嬢様。そんなお嬢様を見れただけでも、まあ今回の柚希さんの遅刻は許せますが」

「もおっ、晴美さんったら……大体どうして今日、晴美さんがここにいてるんですか」

「そりゃあもう、淡い憧れの気持ちから、ご自分でも気がつかないうちに柚希さんラブになってしまっているお嬢様が、待ちに待った今日この日。この日のお嬢様を見ずして何のお嬢様フリークでしょうか。でもご心配なく。私もそこまで野暮ではございませんので、お嬢様のデレデレになられたお顔を見れましたら戻りますので」

「もおっ……晴美さんったら……」

 そう言って紅音が苦笑した。

 そんな他愛もない会話をしている内に、約束の時間は過ぎていった。

 紅音の中で、焦りや不安な気持ちが生まれては消えていく。

 そしてそんな紅音を気遣うかのように、晴美は口を開いては紅音を戸惑わせ、照れさせ、笑わせていた。



 その時、二人の傍らで静かに座っていたコウが、体をピクリとさせたかと思うと、勢いよく起き上がった。

 そして土手の向こう側を見上げると、低いうなり声を上げた。

「どうしたの、コウ?」

 柚希さんが来たのだろうか……しかしコウの反応は、いつものそれとは明らかに違っている。

 紅音が、コウの見つめる土手に目をやった。



 一声大きく吠えると、コウが土手に向かって走り出した。

 その勢いに、紅音の中に妙な緊張感が生まれた。

 紅音と晴美がコウに続いて土手を上がる。

 するとそこには、傷だらけになってうずくまっている柚希の姿があった。


「ゆ……柚希さん、柚希さん!大丈夫ですか、柚希さん!」

 紅音が柚希を抱きかかえた。柚希の顔面は腫れあがり、あちこちから血が流れていた。息も不規則で荒くなっている。

 ――ずっと待っていた。今日という日を、今この瞬間をずっと心待ちにしていた。

 会える日を毎日指折り数え、会えたらどんな話をしようか、柚希さんはどんな話をしてくれるだろうか、そんなことを考えながら、ずっと寂しさに耐えていたのに……柚希を抱きしめ、涙を流しながら紅音はただ、柚希の名前を何度も何度も叫んだ。



「……」

 まだ体中が、痛みで悲鳴を上げている。

 呼吸をする度に胸が痛み、そして熱い息が口と鼻から漏れていく。

 山崎たちが去ってからも、柚希はその場から動けずにいた。

 今日は何日だっただろうか……今は何時で……大体ここはどこで、僕はなんで寝転んでるんだろうか……いや、どうでもいいか、そんなこと……とにかく僕は今、ここから動きたくない……そんな思いが浮かんでは消えるのを繰り返していた柚希の中に、一人の女性の顔が浮かんだ。

(誰だっけ、この人……)

 長い銀髪に真っ白な肌。

 憂いを帯びた大きなグレーの瞳は美しく、吸い込まれそうになる。

 その女性がじっとこちらを見つめている。そして優しく微笑んでくれた。



「柚希さん!柚希さん!」

 耳元で自分の名を呼ぶ声がした。

 顔には布越しでやわらかい感触が押し付けられていた。

 そうだ、僕は……意識がはっきりとしてきた柚希が、状況を少しずつ理解しだした。

 あれから柚希は、痛む体を引きずりながら紅音の元へと向かった。

 しかしそれは、この無様な姿を見せるためではなかった。

 遠くからでもいい、一目でいいから紅音に会いたい、その思いからであった。

 しかし今、自分は紅音に抱きしめられている。
 紅音は泣き叫んでいる。
 どうしてこうなっているのか?
 そんなことを考えている柚希の手を、何者かが舐めていた。

 見るとそこには、柚希の傷跡を舐めているコウの姿があった。

 しまった、コウか……柚希は自分の浅はかな考えが、コウによって潰されたことを知った。

 柚希は苦笑しながら、心配そうにこちらを見ているコウの頭をそっと撫でた。

 その仕草に気付いた紅音が、涙でぐしゃぐしゃになった顔を近付けながら、再び柚希の名前を叫んだ。

「柚希さんっ」

「あ……あはははっ……紅音さん、久しぶり……」

 柚希が精一杯明るくそう言った。

 しかし口の中があちこちが裂けている為か、うまく発音できなかった。

 その柚希の声に、また紅音の両眼からは大粒の涙が溢れてきた。

「どうして……どうしてこんな……」

「あ……紅音さん……」

 紅音の余りの混乱ぶりに、柚希が動揺した。その時だった。



「どうしてっ!」



 紅音が天を仰いでそう叫んだ。

 その声は、これまで柚希が知っている紅音の声とは思えないほど太く、そして強い叫び声だった。

 紅音が震える手で柚希を抱きしめる。

 何度もこうして紅音に抱きしめられていた柚希だったが、今自分を抱きしめているのは本当に彼女なんだろうか、そんな疑念が頭に浮かんだ。

 あの柔らかく、優しい抱擁とは程遠い、まるで男の腕の中にいるような感覚だった。



 紅音の体がわなわなと震える。

 そして柚希の耳に、低いうめき声にも似た音が聞こえた。

 紅音の様子に混乱する柚希が、

「紅音さん、落ち着いて……」

 紅音の腕をほどこうとした時、虫の飛ぶ音が耳元をかすめた。

 柚希は反射的に手でその虫を払おうとした。



 その時だった。



 全身が凍りつくような冷気を感じた。

 辺りが静まり返り、この場から突然音がなくなったような気がした。

 耳がキーンとして痛い。



「お嬢様っ、失礼します!」

 その不思議な感覚は、晴美の声によってかき消された。

 晴美のその声と同時に、柚希の体に突然電気が走った。

「え……」

 柚希の体を抱きしめていた紅音の腕の力が抜け、そのまま紅音の体は柚希の上に崩れてきた。

 どうにかして起き上がった柚希の目に、気を失っている紅音の姿が映った。

「紅音さん……紅音さん!大丈夫ですか紅音さん!」

「大丈夫です柚希さん。どうか落ち着いてくださいませ」

 晴美が不自然なほど冷静にそう言った。

 その晴美の右手に、黒い電動髭剃りのような物が握られていた。

「晴美さん、それって……」

「……スタンガンでございます」

「スタンガン……って、それってあの、人を気絶させるやつじゃないですか!」

 さっき感じた微弱な電気、それは紅音を通じて流れてきたものだったことを、柚希が理解した。

「でも、どうして……いやその前に晴美さん、一体何が」

「柚希さん、もう一度申し上げます。どうか落ち着いてくださいませ」

 混乱する柚希に、少し強い口調で晴美が言った。

「取り乱されるのも無理はありませんが、柚希さん、どうか今まず何を成すべきか、そのことを考え行動されるよう心がけてください。それが殿方の懐の深さと言うものです。とにかく……お嬢様を家にお送りします」

 晴美がそう言って、鞄から注射器を取り出した。

 そして薬を入れると、紅音の左腕を縛り、静脈に差した。

「……」

 手馴れた様子で注射を打ち終わると、晴美はポケットから車の鍵を出した。

「お嬢様を車にお乗せします。手伝っていただけますか」

「あ……は、はい、大丈夫です」

 晴美がすぐ近くに止めてある車に向かった。

 柚希も立ち上がり、紅音を抱きかかえようとした。



 その時柚希の目に、地面に転がっている妙な物が映った。

「え……」

 それはミツバチの死骸だった。

 そう言えばさっき、耳元を虫が飛んでいる音がしていたが、この蜂だったのか……でも……

 柚希がミツバチの異変に気付き、目を凝らした。

「……」

 柚希がミツバチを手に取った。

 そして次の瞬間、全身が震え上がるような寒気が柚希を襲った。



 ――そのミツバチは、石になっていた。



「な……」

 錯乱する紅音、耳元をかすめたミツバチ、突然襲ってきた冷気。

 石化したミツバチを見つめながら、柚希の中でそれらが交錯した。

 その時、車を回し戻ってきた晴美が、柚希の手からミツバチを取り上げると、小さなガラス瓶の中に入れて蓋を閉めた。

「柚希さん、先ほども申し上げましたが、今まず何をすべきなのか、しっかりと考えて行動してくださいませ。今はお嬢様を家にお届けするのが最優先です」

 そう言って晴美が、瓶を鞄の中に入れた。

 晴美の言葉にはっとした柚希は、

「す、すいません晴美さん」

 紅音の体を抱きかかえた。

 車はライトバンだった。
 後部のドアを開けると、病人を搬送するためのストレッチャーが置かれていた。
 そこに紅音を寝かせると、晴美は紅音の体をベルトで固定した。

「柚希さん」

 紅音を乗せ終えると、晴美が改めて柚希の体を見ながら言った。

「申し訳ありませんが、今日はこれにて失礼させていただきます。出来れば柚希さんの……怪我の手当てもさせていただきたい所ではあるのですが、私は桐島家にお仕えする身、何をおいてもまずはお嬢様ですので」

「気にしないでください。それより紅音さんのこと、よろしくお願いします」

「勿論それはお任せください……とは言え、流石にこのまま柚希さんを放っておいては、後でお嬢様に叱られてしまいます。まずは柚希さんをお送りさせて頂きます」

 そう言って晴美は助手席のドアを開けた。

「いえ、流石にそれは」

「何をおっしゃいますか。その傷、どう見ても家までたどり着けるようには見えません。さあ、お早く」



 道中、柚希の頭の中には様々なことが浮かび、絡み合っていた。
 晴美に聞きたいことも山ほどあったが、何から聞けばいいのかも分からず、気がつけば車は家の前に到着した。

「ここが柚希さんのお宅ですか」

 車から降りた晴美が、鞄を柚希に渡して言った。

「晴美さん、あの、その……」

「柚希さん。柚希さんが今からまず一番にすること、それは傷の手当です。そして今日はゆっくりとお休みください」

「は……はい……」

「食べ物は大丈夫ですか?よければ少し遅くなりますが、お嬢様の手当てが済んでから伺いますが」

「いえ、大丈夫です。いつも隣の方が、食事の世話をしてくれてますので」

「そうですか、なら大丈夫ですね。それと、傷の手当は」

「それも自分で出来ます。それより紅音さんのこと、よろしくお願いします」

 その言葉に、晴美がにっこりと笑った。

「ありがとうございます……それから、今日は色々と失礼なことを致しまして、本当に申し訳ありませんでした」

「晴美さん、そんな……頭をあげてください」

「柚希、柚希なの?」

 二階から早苗の声がした。

「では……今日はこれにて失礼致します」

 そう言って晴美は車に乗り込み、頭を下げるとエンジンをかけた。



「……」

 去っていく車を見送る柚希の背後から、もう一度早苗の声が聞こえた。

「やっと帰ってきた。柚希、今の車って」

 そこまで言って、早苗が言葉を失った。

 車が去っていくのを確かめた柚希が、突然その場に崩れたのだ。

「ちょ……柚希、どうしたのよ柚希っ!」

 早苗が窓から身を乗り出して、柚希に声をかける。

 しかし柚希は身動き一つしない。

 早苗が慌てて玄関に走って行く。



 極度の緊張が解けた柚希の意識の中に、山崎から受けた傷の痛みが戻ってきた。

 その余りの激痛に、柚希の意識はぷつりと途絶えたのだった。
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