銀の少女

栗須帳(くりす・とばり)

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025 明かされる真実 その5

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 柚希の部屋で一緒に食事をしている間、早苗の頭の中には、これまで柚希に関して色々あった疑問が渦巻いていた。

 昨日、柚希に対する自分の気持ちを知った。
 いつかはこの思い、柚希に伝えたい、そう思った。
 そしてその思いは同時に、柚希のことをもっと深く知りたい、そう言った欲求を彼女の中にもたらしていた。
 しかしそれを要求すれば、柚希の心を遠ざけてしまうことになるかもしれない。
 そのジレンマが早苗を苦しめていた。

 どうして呼んでもいないのに、桐島先生は来たのか。
 それにあの空気……二人の間に、医者と患者と言う関係を越えた何かを感じてしまう。
 言葉を交わさずとも通じ合える信頼関係、そんな風にも思えた。
 それはいつ、どうして生まれたのか。



「ごちそうさまでした」

「え?」

「おいしかったよ早苗ちゃん」

「あ……う、うん。お粗末さまでした。その調子なら今夜ぐらいから、もうちょっとちゃんとした料理、食べられそうだね」

「うん。そろそろ固形物が食べたい気分かな」

「分かった、じゃあ夕ご飯、楽しみにしといてね」

「ありがとう……で、早苗ちゃん、まだ全然食べてないけど……食欲ないの?」

「あ、あはははっ……ちょっとまあ、さっきのことが気になってて」

「さっきの?」

「……うん……」

 そう言って早苗が箸を置き、うつむいた。



「あの……さ、柚希……私、昨日も言ったけどね、私の知らない所で柚希が色々と苦しんでるのを見ると……悲しいんだ……
 私、柚希のことをもっともっと知りたいんだ。柚希の好きなこと、嫌いなこと、夢中になれる物……でもさ、そうやっていちいち干渉するのって、ちょっとうっとおしい女だな、私って……って思ったりして……でもね、それでも私……」

 早苗がもじもじと、身をくねらせながら話す。

 柚希が初めて見る早苗だった。

「柚希……まだ何か私に隠してること、ない?」

「隠してることって」

「隠してるって言ったら言い過ぎかな……でも、あえて私に言ってないことって……ない?」

 柚希の脳裏に、真っ先に紅音の顔が映った。

 その瞬間、柚希は自分でも驚くぐらいに動揺し、それは早苗に伝わった。

「やっぱり……隠してるつもりじゃなかったけど、あるんだ……最近、色々変だったもんね」

 早苗の瞳に、心なしか暗い影が宿っているのを柚希は感じた。

「ねえ柚希、こんなこと聞いてる私って、自分でもおかしいって思ってる。でも柚希……教えてもらうこと、出来ない?」

 その聞き方は反則だ、柚希はそう思った。

 だが今それを断れば、早苗との間でこれまで築き上げてきた信頼関係を、少なからず傷つけてしまうのは明らかだった。

 何より早苗の表情が、ただの好奇心と言うには真剣すぎた。



「心配、これ以上かけられないよね。ごめんね早苗ちゃん、話すよ」

 早苗に対しては誠実であり続けよう、柚希がそう改めて思った。

「これ、見てくれるかな」

 そう言って柚希が、机の上に置かれた箱の中から、一枚のネガを取り出し早苗に渡した。

 それを受け取った瞬間、早苗は全身の血が逆流するのを覚えた。

 少し震える手でネガを窓にかざす。しかしそれを、見る必要もなかった。

 ネガを覗き込むと、その不安は的中した。

 以前見たあの女性だ。

 黒い日傘をさし、幸せいっぱいの表情でこちらを見ている。



「その人……桐島先生の娘さんなんだ」

「え?」

 柚希の言葉に、早苗が意外な表情でそう言った。

 桐島先生の娘さん……桐島先生に娘さんなんていたっけ……そう思いながら早苗は、何度か診察を受けに行った時の記憶をたどった。

 しかし早苗の中に、この女性の記憶はない。

「本当?本当に?桐島先生の娘さん?」

「う、うん……」

 早苗が再び記憶をたどっていく。

 そしてそれは、小学二年にまで遡った。



 その日、早苗は39度の高熱で学校を休み、桐島医院に来ていた。

「風邪ですね。とりあえず薬を出しておきますが、今夜はもう少し熱が上がるかもしれない。念の為、注射をうっておきましょう」

 明雄のその言葉は、小学二年の女児にとっては恐怖の宣告だった。

 椅子から転がり落ち、大泣きで診察室から逃げ出そうとした。

 付き添いで来ていた孝司が早苗を何とか捕まえて戻ったが、早苗は泣きながら抵抗した。

「早苗ちゃん、大丈夫だから。ちょっとチクッてするだけで、すぐに終わるから」

 そう言って明雄がなだめるが、早苗は聞こうとはせず、孝司の腕の中で暴れた。


 その時、診察室の扉が静かに開き、小さな女の子が中に入ってきた。

「こらこら、患者さんがいる時は入ってこないって約束だよ」

 明雄がその女の子に向かってそう言った。

 その子は「ごめんなさい」そう言って明雄に頭を下げると早苗に近付き、早苗の頭をその小さな手で撫でた。

「だいじょうぶ、だよ」

 その子がそう言って、手に持っていた鯨のぬいぐるみを早苗に差し出した。

「だいじょうぶ、だよ」

 再びそう言って、その子が笑った。

「つよい、つよい」

 早苗はぬいぐるみを掴み、そして女の子を見つめた。

 その子は銀色の長い髪で、真っ赤なワンピースを着ていた。

 その子の笑顔に、早苗は覚悟を決めて鼻をひとすすりした。


 針が刺さった瞬間、腕に痛みが走った。

 目をつむり、鯨を握り締めながら孝司にしがみついてる早苗の頭を、その子は注射が終わるまで撫で続けた。

 診察が終わり、早苗は涙を拭きながらその子にぬいぐるみを返そうとした。

 しかしその子は、ゆっくりと首を横に振り、笑いながら「ごほうび、だよ」そう言った。

 その女の子に早苗も笑って「ありがとう」そう言った。



「あ……」

 早苗の記憶が呼び覚まされた。

 あの時の女の子……確かにあの子、桐島先生の所の……名前、名前は確か……

「その人、紅音さんって言うんだ」

 そうだ、紅音ちゃんだ……でも私は、あの時しかあの子と……学校でも会ったことがないし、今まで忘れていた……

「紅音さんは体が弱くて、学校に通ってないんだ。外出するのも一日一回、犬の散歩をする時だけで、三ヶ月ぐらい前に、僕がその……最近よく行っている川で出会ったんだ。
 話してる内に、次の日もまた会って話しませんかってことになって……それから何度か会う様になって、友達になりませんかって話になって……」


 しどろもどろになりながら話を続ける柚希の顔を見ながら、早苗は柚希の中に、紅音に対する「想い」を感じた。

 そしてそれを感じる度に、胸が痛んだ。

「この前山崎くんたちに殴られた後で、紅音さんが僕をみつけてくれたんだ。でも、紅音さんはその僕を見て気を失ってしまって」

 柚希が紅音の核心に触れないよう、気をつけながら話を進める。

「たまたま紅音さんと一緒にいた、給仕の晴美さんが僕を車で送ってくれたんだ。だから先生がここに来てくれたのはその……そう言うことで……」

「……最近柚希の様子が変だとは思ってたけど、そう言うことだったんだ」

「……ごめん、隠すつもりじゃなかったんだけど」

「あははははっ、まあ言いにくい話だよね、確かに。でも驚いたな、同じ街に住んでるのに私、その……紅音さんのこと、全然知らなかったよ」

「まあ、一日一回しか外出しないし」

「で、その紅音さんの具合はどうなの?」

「あ、うん。先生が言ってたけど、大丈夫だって」

「そう、よかった……私も一度、会ってちゃんとお礼言いたいな。それからお詫びも」

「ええ?なんで?」

「そりゃそうじゃない。大事な弟が世話になったんでしょ。『姉』としては、ちゃんと挨拶しておかないと」

「……それってきっと、もう決定事項だよね」

「私のこと、ちょっとは分かってきたじゃない。あ、そう言えばさっき、桐島先生が土曜とかって言ってたよね。それって今度の土曜?診察に行くの?」

「う、うん……それでその後、夕食に招待されてて……」

「そうなんだ……うん、決めた!柚希、土曜日、私も一緒に行くから」

「ええ?土曜に?」

「そう、もう決めたからね。先生に電話してオッケーもらっててね」

「あ、あははははっ……決定事項、ね……」



 夜に電話で確認すると、思いのほか簡単に了承された。

 明雄の返事を伝えた晴美は、

「楽しみにお待ちしてますね、柚希さん。むふふふっ」

 と、いつもの調子で笑っていた。

 久しぶりに自分の家で入浴を済ませた柚希は、さっぱりした体をベッドに横たえて思索を重ねていた。



 ――紅音にはメデューサの力が宿っている――



 余りに非現実的な話だった。

 明雄の話を思い返し、自分なりに反証を挑んでいく。

「荒唐無稽」の一言で済むのなら、全てを否定することは簡単に出来た。
 しかし物事は、文献や常識よりも現象の方が常に勝る。
 自分が目にした現象を、何一つとして説明できない柚希にとっては、明雄の話を否定することが出来ずにいた。

 ただ一つ言えることは、それがどういった理由で起こっているとしても、自分は紅音を否定しないと言うことだった。
 誰が何と言おうとも、自分だけは紅音の味方であり続けたい、それだけは確かな思いだった。



 この二日ほとんど眠っていないのに、今夜も睡魔はやってこない。
 早苗はベッドの上で何度も寝返りをうちながら、混乱する思いに悩まされていた。

 柚希が話してくれたことで、最近胸の中にあったもやもやは解消することが出来た。
 しかしそれは同時に、新しい悩みを生み出してしまった。
 紅音のことを話している時の柚希の目……あれは明らかに、彼女に思いを寄せている物だった。
 そう思うと胸が痛み、聞かなければよかったと後悔の念が襲ってきた。

 紅音に対して自分の中にあるこの嫌な感情、これは明らかに嫉妬だった。
 もっと早く紅音の話を聞いていれば、こんな感情は生まれなかったのかもしれない。
 しかし今、自分が思いを告げたいと思っている相手は、違う女性を見ている。
 そう思っただけで、今までに感じたことのない嫌な気持がどんどんと湧き上がってきた。


「嫌だよ、こんな自分……」

 枕を抱きしめ、早苗がつぶやく。
 いっそのこと、柚希への気持ちを元に戻せば、こんな思いをせずにすむのに……
 そう思ったが、早苗自身、自分の気持ちを抑えることは出来なかった。

 忘れることが出来れば楽になれる、そう思って、柚希への思いをリセットしようとする。
 しかしそうすればする程、自分の中の柚希が大きくなってしまっていることに気付かされた。


「土曜、かぁ……」

 天井を見つめながら、再び紅音の顔を思い出す。
 そして今のこの気持ちは、結局の所、紅音に直接会ってからでないと先に進みそうにない、そう思った。

 外は再び雨が降っていた。
 いつもなら更に気が滅入るところだが、今の早苗はこの雨に、自分の中にある全てを一度洗い流してもらいたい、そんな風に感じていた。
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