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第5話 悠人争奪戦開始 その5

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 風呂からあがると、沙耶も小鳥の部屋に入っていった。何やらこそこそと話をしている。悠人はそのことには突っ込まず、煙草をもみ消すと、

「二人とも湯冷めするなよ」

 そう言って風呂に入った。

 小鳥が来てからというもの、悠人は毎晩湯につかっていた。浴槽に湯をはるのは年に一度か二度だった彼だが、いつの間にかその習慣が日常になっていた。
 冷えた体で湯船に入った時の感覚は、確かに贅沢この上ない物だ。目の辺りに水で濡らしたタオルを置き、そのまま肩まで湯船につかる。

(あさっては沙耶の引越しか……人の引越しの手伝いなんて、小百合が田舎に引っ越した時以来だな……沙耶のやつがどんな家具を持ってくるのかも気になる……まさかプリンセスバージョンのベッドとか来るんじゃないだろうな……それと……ここしばらく小鳥をほったらかしだから、明日は仕事が終わったら早めに帰って、ゆっくり付き合ってやるか……)

 湯船から出て体を洗い出したその時だった。勢いよくドアが開かれたかと思うと、小鳥と沙耶が乱入してきた。



「どわああああああっ!」



 悠人が前を隠しながら絶叫する。見ると二人とも、どこから持ってきたのかスクール水着を着ていた。

「お、お、お、お前ら」

「悠兄ちゃーん、今日は美女二人でご奉仕してあげるよ」

 沙耶は胸の辺りを両手で隠し、もじもじしている。

「おい小鳥……こ、これはさすがに少し……恥ずかしいのだが」

「だったらするなよ!」

「可愛いから大丈夫だよ。胸の辺りにゼッケンつけて、平仮名で『ほうじょうさや』って書いたら完璧、悠兄ちゃんのストライクゾーンだよ」

「意味不明だ小鳥!」

「いいからいいから、さあ悠兄ちゃん、美女二人がお背中流しますよー」

「小鳥、私は背中を流させたことはあるが、他人の背中を流した経験などないのだが……」

「大丈夫だってサーヤ。これは男の人にとって究極の夢なんだから」

「そうか、ならば是非もない。何事も経験だからな。それから遊兎、あまりじろじろ見るでない」

「いやいやいやいや、この状況で恥ずかしがられても困るぞおい。それにまじまじと見てるのはお前だ沙耶。39のおっさんの裸を凝視するな」

「いや、これはすまない……だが遊兎、男の裸体など私は子供の頃、お父様と一緒に入浴した時に見たぐらいだからな……その……色々と興味はあるのだ」

「その目をやめろ、視姦するな!」

「いや……しかしなんだ、その……男の背中というものは……大きいものだな」

 沙耶が泡のついた手で悠人の背中を撫でていく。

「ひゃあああああああっ!」

「ずるいサーヤ、私だって!」

 小鳥も両手に泡をいっぱいつけると、悠人の背中を撫でだした。

(理性が……俺の情けない理性が……)

「今思いついたぞ。手で洗うには背中が広すぎる」

 そう言うと沙耶はボディソープを手にすると、それを自分の体につけだした。

「これぞまさしく、ボディソープだな」

 そのまま悠人の背中に抱きつくと、体を上下に動かしだした。

「どうだ遊兎……いや、主人よ」

 赤面した沙耶が、上気した声で耳元でささやく。

「む……胸、胸が当たって……」

 悠人のむなしい抵抗が、沙耶の上下運動でかき消されていく。小鳥も負けじとボディソープをつけ、同じく悠人に抱きついた。

「悠兄ちゃん、小鳥と結婚したら毎日こうやって洗ってあげるからね」

 反対の耳元で小鳥がささやく。

「こ……」

 悠人が体を痙攣させながらうなる。

「これって俗に言うところの……泡踊り……」

「どうだ、気持ちいいか、主人よ」

「悠兄ちゃん、小鳥、いい奥さんになれるかな」

「た……たすけてくれえええっ」




『オムライス』の項目に丸をつける。

「今日も一つ丸がついたよ、お母さん」

「小鳥日記」を書き終えた小鳥が、窓から夜空を見上げてつぶやいた。日記を片付け、ホットミルクを口にする。

「悠兄ちゃんの家に来てまだ一週間なのに、もう何ヶ月もここに住んでるような感じだよ……それに友達が二人も出来たよ。毎日楽しくやってるから、心配しないでね」

 最後の一口を飲み干すとカーテンを閉め、布団にもぐりこんだ。

「明日もいいことありますように……って、きっと楽しい一日になるよね。だって悠兄ちゃんと一緒だから」

 再びそうつぶやき、悠人の匂いのする布団に顔をうずめた。




(またか……)

 気配を感じた悠人が、目をつむったまま身構える。

 沙耶だった。寝たふりを続けていると、そっと枕を置き悠人の布団に潜り込んできた。

「おい」

「ひゃっ……」

 悠人の声に、沙耶が声にならない声でそううなった。

「な……なんだ遊兎、まだ起きていたのか」

「起きてたかじゃないぞ沙耶。なんでまた、お前はここに来てるんだ」

「ビルが……」

「ビルが来るまでここで寝るつもりか」

「そ……そう言うな遊兎、別によいではないか。いかがわしいことをする訳でもなし」

「当たり前だ」

 もう寝てるだろう小鳥に気遣いながら、小声で沙耶の方を向いた。

「……!」

 息がかかるほどの距離に沙耶の顔があった。その近さに思わずとまどったが、暗さに目が慣れてきた悠人が見たものは、涙をいっぱいにためた沙耶の瞳だった。

「……か……勘違いするな遊兎、こ……これはその……違うのだ」

 涙を見られた沙耶が、顔を真っ赤にして慌てて涙を拭く。

「これは……そう、ビルにナパーム弾を落とされた夢を見てだな……その……なんだ……硝煙で目がやられて、ガソリンの匂いで鼻をやられてだな……それで目が覚めたらこんなことに……」

「ぷっ……」

「お……お前、何を笑うか何を。ここは笑うところではないぞ失敬な」

「なんてディープな言い訳をしてるんだよ、お前」

「い……言い訳ではない。ほんとにその……ビルのことを考えてたらこんな……こんなことに……」

「分かった分かった」

 まだ笑いながら、悠人が言葉をさえぎった。

「要するにお前は、カーツの次に大好きなビルの夢を見て目が痛くなったんだな」

「そうだ、分かればいいのだ分かれば」

「で、それと俺の布団に入ってくるのと、何の関係があるんだ?」

「……お前は思っていたより意地悪なやつなのかも知れんな」

 沙耶が口を尖らせた。

「はははっ、すまんすまん」

 布団から手を出して沙耶の頭を撫でる。

「ふぎゃ……」

「しょうがないやつだな、ちゃんと布団かぶれよ。風邪ひくからな」

 にっこり笑い「おやすみ」そう言って向こうを向いた。

「遊兎……」

 気がつくとまた涙があふれてきていた。沙耶自身も、この涙の意味がよく分からなかった。

 寂しいから?怖いから?遊兎のあたたかさが嬉しいから?遊兎のぬくもりが心地いいから?

 そう自問しながら沙耶は、悠人の背中に擦り寄るように身を寄せ、目を閉じた。

(あたたかいな、遊兎の背中は……)

 その時、今度は沙耶が何かの気配を感じた。見上げると、枕を抱いた小鳥が立っていた。小鳥は人差し指を立てて口元に置くと、にっこり微笑んで沙耶と反対方向、悠人の隣に枕を置いた。

「どわっ!なんだ小鳥、まさかお前も」

「折角だからみんなで寝ようよ」

「あ……あのなあ……」

 そう言いながらも、なぜか悠人もそうするのが一番いいような気になっていた。三人が別々の部屋で寝るのではなく、同じ部屋で枕を並べるのも悪くない。二人とも、なんだかんだ言って寂しいんだろう、そう思った。それに悠人自身もなぜか、この状況を望んでいたように思っていた。

 これまで一人での生活、一人の夜が当たり前だったはずなのに、この一週間の生活の中で、一人じゃないことに馴染んでいる自分を感じていた。そしてそう思った時、同じ家にいながら別々の部屋で寝ていることに、変な寂しさを感じていたのだった。

 夜になると、妙にこの部屋が広く感じられていた。だから沙耶が潜り込んでくることにも、小鳥が一緒にやってきたことにも怒る気にはならなかった。二人が年頃の娘だということを除けば、ごく当たり前のことだと思った。

「サーヤだけずるいよ。悠兄ちゃん、一緒に寝たいのは小鳥も一緒なんだよ」

 首を少し傾け小鳥が小さく笑った。

「小鳥もずっと我慢してるんだよ、悠兄ちゃん」

「またお前はそうやって……小悪魔的に笑いやがって」

「えへへへっ」

「布団、ここに並べるか」

 そう言って小鳥と沙耶の部屋から布団を持ってきた。流石に三つ並べるには無理があり、端は折れ曲がり間は重なった。

「ま、しゃあないか」

「こんなのもいいよね」

「庶民の夜だな、なかなかいいぞ」

「じゃあ電気消すぞ」

「はーい」

 電気を消すと三人が並んで布団にもぐった。

「これって川の字だよね」

「なんだ小鳥、その『川の字』とは」

「ほら、三人が並んで寝てる姿が漢字の『川』みたいでしょ」

「おお、なるほど。それは何か、貧乏な庶民が狭い部屋で一緒に寝るしかなく、その姿を惨めに思わないよう、そういった言葉で慰めてるということなのか」

「まあ……そんなところだね」

「おい小鳥、そこはしっかり否定しとけよ。また間違った知識をインプットしちまうだろ」

 その時悠人の右手にぬくもりが伝わってきた。小鳥の手だった。

「悠兄ちゃん、手をつないで寝よ」

「それはつなぐ前に言うこと……」

 左手を沙耶が握ってきた。

「……」

 悠人の両手に、これまで感じたことのなかったぬくもりが伝わってきた。どちらも小さい手だった。でもあたたかい、確かなぬくもりだった。沙耶の方は少し震えているようだった。

(まだ……不安なんだな、こいつ……)

 悠人が少し強く握り返すと、一瞬沙耶の体がピクリとした。だがその後安心したのか、震えは収まっていった。右手にも力をこめた。すると小鳥も、力をこめてきた。




(大好きな悠兄ちゃんの匂い……今日はこんなに近くに感じる……)

(なんだこの、変な安心感は……遊兎に手を握られているからなのか……)

(お休み小鳥、沙耶……)



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