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第11話 幼馴染・小百合 その2

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「なんで、なんでこんなことに……」

 公園のベンチで、肩を落とした悠人が力なく言った。

「……」

 小百合の頬を涙が伝っていた。



 二年後、小鳥は五歳になっていた。
 あの運動会の時、体調がすぐれないと言っていた小百合の父が肺癌で入院し、闘病生活の末にこの世を去って間もない日のことだった。
 小百合の家は社宅で、近いうちに引っ越さなければならなかった。悩んだ末に小百合が出した結論は、母と小鳥と三人で、母の実家のある奈良に引っ越すということだった。
 悠人は目の前が真っ暗になった。まただ……また運命は、俺からこの幸せを奪おうとする……しかし悠人は、前のように後悔したくなかった。臆病な気持ちに負けたくなかった。何より目の前で泣いている小百合、そして小鳥を失いたくなかった。



「小百合……結婚してくれ」



 不思議なほど静かに、悠人の口からその言葉が出ていた。
 これまで、ずっと口にすることが出来なかった言葉。再会してからのこの三年、その言葉を胸にしまいこんでいた。今ここで、このタイミングで言うことが卑怯だと分かっていた。それでも悠人は、その言葉を口にした。

「俺はこの三年……いや、お前と離れてからずっと、この言葉をお前に伝えたかった。俺はお前のことが好きだ。この世界の誰よりも好きだ。
 小百合、俺の嫁になってくれ。そして小鳥の……小鳥の父親にならせてくれ」

「悠人……」

 止め処なく流れる涙を拭い悠人を見上げると、悠人も泣いていた。

「ずっと……ずっとこの言葉、伝えたかった。小百合、愛してる。俺の残りの人生、全部お前と小鳥に捧げる」

「悠人……」

 小百合が悠人の胸に飛び込んでいった。胸元に顔を埋め、声を震わせ泣いた。

「悠人、悠人……」

 やがてそれは嗚咽に変わった。
 悠人が小百合を抱きしめる。いつも明るく強い幼馴染。しかしその体は細くはかなく、今にも消えてしまいそうだった。

「悠人……私も悠人のことが好き……ずっと、ずっと好きだった」

「小百合……」

「今の言葉、すごく嬉しい……子供の頃からずっと……ずっとずっと聞きたかった言葉だった……」

 悠人の中に、小百合とのこれまでが走馬灯のように思い出されていた。
 楽しかった子供の頃。おせっかいな幼馴染に振り回された学生時代。自分に素直になれなくて失った幸せ、そして再会。小百合を抱きしめながら、二度とこの手を離したくない……悠人が強く心に思った。

「でも……ごめんね悠人……私、あなたの気持ちにこたえられない」

「え……」

 小百合が悠人の胸から離れ、涙を拭った。

「……私ね、本当に悠人のお嫁さんになりたかった。いつからだったろう、そんな風に思い出したのは……悠人と過ごす平凡な毎日。喧嘩して仲直りして、一緒に笑って一緒に泣いて、子供が出来て忙しい毎日をバタバタしながら過ごして……どうでもいいことで笑いあって、年をとっても手をつないで……悠人とならそんな幸せを作れる、そう思ってた。だから今の言葉、本当に嬉しい……
 今の私は子供もいて、経済的にも半人前で……そんな私を好きだと言ってくれて……それにあの人との子供なのに悠人、会ったその日から小鳥のこと、本当に愛してくれて……」

 拭っても拭っても、小百合の大きな瞳から涙があふれていく。

「……だからこそ私は、これ以上悠人に甘える訳にはいかない、そう思うんだ」

「なんで……なんでだよ小百合。俺はお前のこと」

「悠人の言葉が本当だってこと、分かってるよ。悠人は私のことも小鳥のことも、本当に愛してくれている。これからもきっと、私たちのことをいっぱい愛してくれると思う……でもね、どんなに言い訳を並べても私は、一度悠人の元から去って行った。悠人の想いを踏みにじった」

「それは俺の方だ。俺があの時、もっと勇気を持っていたら」

「違うの……最後に決断したのは私。これは私が選んだ道なの。それなのに辛いから引き返して、『ごめん悠人、戻ってきちゃった』って言うのは駄目だと思う」

「それの何が悪いんだよ、完璧なやつなんていないんだ。引き返すことがあってもいいし、道を選びなおしたっていいんだ」

「私たちは一日一日、前を向いて歩いてる。今悠人の優しさに甘えるのは、この5年間の私の人生を、選択を否定することになってしまう」

「ちが……」

「それは、小鳥を否定することと同じなの。自分の選択の否定は、あの子の否定になってしまう……私は小鳥を否定したくないの」

「……」

「でも……こっちに戻ってきて悠人の顔を見て、悠人と話して悠人に触れて、私も悠人の優しさに甘えちゃった……そんな資格、私にはなかったのに」

「そんなことない!」

「私たち親子のために、悠人が歩いていくのを止めることは出来ない。悠人は悠人の人生を歩いて、悠人の幸せを見つけなくちゃいけないの」

「なんで、なんでそうなるんだよ小百合。俺はまたどこかで間違えたのか?またお前を失うのか?小鳥も失ってしまうのか?やっとつかんだ幸せが、またこの手からこぼれていくのか?」

「悠人……私、悠人のことが大好き。でも悠人は、いつまでも私を見てちゃ駄目なんだよ。悠人、言ったじゃない。私は家族だって。家族なら何があっても離れることはないって。
 私は悠人と離れてしまうけど、家族ならきっとまた会えるし、一緒に笑うことも出来る。私、頑張る。自分が選んだ人生を、逃げずに頑張る。だから悠人、悠人も……自分の幸せ、探して欲しいんだ」

「俺にとっての幸せは今、ここにあるんだ!」

「ありがとう悠人。私の大切な……幼馴染」

 そう言って、小百合が悠人の頬にキスをした。

「またいつか、笑顔で会おうね……悠人……」



 小百合が去った後、一人公園のベンチで悠人が泣いていた。
 小百合のはかなさに触れ、それでも自分の人生を歩もうとしている強さに触れ、これ以上何も言えない自分の弱さに涙した。
 また俺は、目の前の幸せを失ってしまった。何が、何がいけなかったんだ……そんな思いがぐるぐると回り、涙が溢れて止まらなかった。



「悠兄ちゃん、泣いてるの?」

 顔を上げると、目の前に小鳥が立っていた。
 夕焼けに包まれた公園、小鳥の影が長く長く伸びていた。悠人が慌てて涙を拭った。

「どうした小鳥、一人で来たのか?」

「うん。お母さんが、公園は一人でもいいって」

「そうだったな。でも車には気をつけるんだぞ。それから、知らない人とは話しちゃ駄目だからな」

「うん、先生もそう言ってた」

「いい子だな、小鳥は」

「悠兄ちゃん。もうすぐ小鳥ね、おばあちゃんとお母さんと引越しするの。悠兄ちゃんも来るの?」

「……」

 その言葉にまた、悠人の目から涙が溢れてきた。

「おばあちゃんの家に行くんだって。おばあちゃんの家、いっぱい山があって川があって、お風呂も大きいんだって。小鳥、楽しみなんだ」

「……そうか、楽しみか、よかったな小鳥」

 そう言って小鳥の頭を撫でる。

「でもごめんな。悠兄ちゃん、小鳥と一緒に行けないんだ」

「だから泣いてるの?」

「そうかも……な……」

「もう、悠兄ちゃんと会えないの?」

「……」

 その言葉に、悠人が耐え切れずに嗚咽した。

「悠兄ちゃん、大丈夫?」

「……あ、ああ、大丈夫だよ。小鳥、あっちに行ってもいい子でいるんだぞ。お母さん、大切にな」

「うん。小鳥、お母さんのこと大好き」

「そっか……小鳥は本当にいい子だな……」

「悠兄ちゃん、寂しいの?引越し出来ないから寂しいの?」

「そうだな……悠兄ちゃん、小鳥と一緒に遊べなくなるから寂しいんだ」

「そっかぁ……じゃあじゃあ、小鳥、悠兄ちゃんのお嫁さんになってあげる」

「小鳥がお嫁さんになってくれるのか?」

「うん。悠兄ちゃんのお嫁さんになったら、悠兄ちゃん寂しくないでしょ。お母さんもいるよ」

「ははっ……じゃあ、小鳥が大きくなったら結婚しようか」

「うん。小鳥、悠兄ちゃんのお嫁さんになってあげる。だから悠兄ちゃん、泣かないでね」

 そう言って小鳥は、悠人の頭をそっと抱きしめた。




 それから一ヶ月ほどして、小百合たちは去っていった。
 また一人になった。
 公園のベンチで煙草を吸っていても、道を歩いても、小百合も小鳥もいない。悠人の心の中に、大きな大きな穴が開いていた。
 悠人はひたすらに日々の日課をこなした。ありがたいことに仕事も繁忙期に入っていたので、自ら進んで残業した。家に帰るとくたくたになっていたが、寂しさを感じるよりずっとましだった。
 そうして気がつくと半年が経ち、以前ほど苦しまないことを感じた。時の流れが傷を癒してくれることを実感した。

 心の痛みが和らいできた頃から、悠人は再び自分の人生を見つめなおすようになった。そしてこのままではいけない、そう思った。
 小百合は自分の幸せよりも、俺の幸せを考えていた。自分と小鳥が、俺の幸せの妨げになることを恐れていた。自分の気持ちを押し殺し、自ら厳しい選択をした。それなのに俺がこのまま、これまでと同じ生き方をしていてはいけない。それは小百合に対して失礼だ。
 悠人は変わろうとした。自分自身を高めることに終始して、人の中に入ろうとしなかったスタンスを改めようとした。それは彼にとって、大きな大きな挑戦だった。なぜか分からないが、挑戦することで、何かが見えるような気がしたのだった。

 ほどなくして彼は、会社の近くのマンションに引越し、新しい生活をスタートさせた。会社でも仲間の輪の中に入っていった。次にいつ小百合に会えるのかは分からないが、再会した時に、小百合に笑われない自分になっていよう、そう思った。
 気がつけばまた、悠人は笑えるようになっていた。前を向いていこう、そうすればいつか、自分の人生に答えを出せるはずだ。



「小百合、小鳥、また会おうな。その時まで俺、がんばるよ」


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