イイ人やめました。うまく行ってたんだけどな

田中葵

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1 解き放つ

あの人、最近ちょっと冷たくなりましたよね。

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 休憩室でそう言ったら、何人かが曖昧に笑った。否定もしないし、肯定もしない。そういうときの沈黙は、だいたい答えだ。


 前は違った。
 分からないことがあれば聞けばよかったし、困っていれば向こうから声をかけてくれた。ミスをしても、私が上司に呼ばれる前に、さっと間に入ってくれることもあった。

 正直、助かっていたと思う。

 でも最近は、聞かないと何も言わない。
 頼むと、一拍置く。
 「今日は無理」と、普通に言う。

 別に、怒っているわけじゃない。声も表情も穏やかなままだ。ただ、前みたいに“先回り”しなくなっただけだ。

 それが、こんなに居心地悪いとは思わなかった。


 昼休みも、あの人は一人で過ごすことが増えた。スマホを見ているわけでもなく、誰かを避けている様子もない。ただ、そこにいる。以前みたいに、誰かの隣に自然に収まらない。

 私は声をかけようとして、やめた。
 理由はよく分からない。
 話しかけて、何かを頼む流れになるのが、急に怖くなったのだ。

 前は、そんなこと考えなかったのに。


 「最近、忙しいんですか?」
 思い切って聞いたとき、あの人は少し驚いた顔をしてから、首を振った。

 「忙しくはないよ。前と同じ」

 じゃあ、何が変わったんだろう。


 変わったのは、たぶん私たちのほうだ。
 あの人が“やってくれていたこと”を、仕事だと思っていなかった。
 好意とか、性格とか、そういう曖昧なものだと思っていた。

 だから、なくなったときに文句の言いようがない。


 冷たくなったわけじゃない。
 ただ、近くなくなっただけだ。

 それに気づいたとき、私は初めて、自分がどれだけ近づきすぎていたのかを知った。




あの人は、もともとそういう人だと思っていた。

 出しゃばらないけど気が利く。
 誰の味方というわけでもなく、でも結果的に場が丸く収まる。
 私とは少し距離があって、それがちょうどよかった。

 だから、変化に気づくのが遅れた。

 頼まれごとを断るようになったことも、雑談に参加しなくなったことも、「余裕がなくなったのかな」くらいに思っていた。

 ある日、ふと気づいた。
 あの人、私に何も頼まなくなったな、と。

 以前は、ちょっとした確認や愚痴を投げてきたのに。
 今は、仕事の話しかしない。

 たぶん、線を引かれたのだと思う。

 分かっているつもりで、一番、何も見ていなかったのは私だった。




評価はしていた。

 仕事ができる。空気を読める。調整がうまい。若手のフォローも自然だし、感情的になることもない。
 人柄も、穏やかで信頼できると思っていた。

 管理職としては、非常に助かる存在だった。

 だから、最近の変化には少し困っている。

 頼めばやってくれるが、即答ではない。
 理由もきちんと説明される。
 反論も、丁寧だ。

 間違ってはいない。
 むしろ、正しい。

 ただ、前のような“融通”がきかなくなった。

 気づいてしまった。
 私は、彼女の善意を、業務の一部だと勘違いしていた。

 評価はしていた。
 でも、守ってはいなかった。




別に、何も変わってないと思う。

 頼めば引き受けてくれるし、断るときも理由を言う。
 雑談だって、したければしてくれる。

 ただ、無理をしなくなっただけだ。

 ランチに行く日もあれば、行かない日もある。
 それを気にしなくなった。

 前より静かで、前より楽だ。

 たぶん、あの人は「イイ人」をやめただけ。
 同僚でいることを、選び直しただけだ。

 私は、その隣にいられるなら、それでいい。
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