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第八話(最終話)

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 モビウスは何も言わずに項垂れていた。

 ヴィクトルはグレイシアをじっと見つめたまま立ち上がり、モビウスに手を翳した。しゅるしゅるっと光の鎖がモビウスを拘束し、光の粒子となって消失した。

「魔法師団の取調室に転送した。彼は盗聴、市井での魔法の行使、業務妨害、監禁未遂…それにあの魔道具の出所も怪しいしまだまだ余罪が出るだろうね」
「ヴィクトルさん…」

 モビウスが居なくなり、ほうっと息を吐いて僅かによろめいたグレイシアを優しくヴィクトルが受け止めた。

「ごめん。あんな男の言葉を真に受けて、君のそばを離れるべきじゃなかった」
「……ずっと、お店に来てくれなかったのは、モビウスさんのせいなのですか?」

 グレイシアが怪訝な顔をして尋ねると、ヴィクトルは気まずそうに頬を掻いた。

「自分がグレイシアの恋人だ、グレイシアは僕のことを迷惑に思っている、ってね。信じられないなら君に会ってみるといい、俺からの贈り物を肌身離さず付けているって、そう言われてあの日君に会いに行ったんだ」
「はあ……押し付けられて付けざるを得なかっただけなのに、本当勝手な人。あなたもあなたですよ。ちゃんと聞いてくださればいいのに……ポジティブなのが取り柄なのでしょう?」
「返す言葉が見つからないよ…」

 まったく、とグレイシアが深く深くため息をついていると、ヴィクトルは少しそわそわした様子で顔を覗き込んできた。

「なにか?」
「いや、その…僕が来ない間、少しでも寂しいと思ってくれたり、したのかなーって」

 自信なさげに、だが少し期待を込めて…尻すぼみに問うヴィクトルを、悔しいけど可愛いなと思ってしまった。

「そうですね。物足りなさは感じていたかもしれません」
「ぐ、グレイシア…!」

 感涙して目を潤ませるヴィクトルに、グレイシアはぷっと小さく吹き出した。



 ――やだなあ、勝てない試合に臨むのは性分じゃないのに。


 グレイシアがもし、ヴィクトルに気持ちを傾けたとしても…果たしてアレクシアに勝てるのか。
 答えは否だろう。
 時空を超えてまでアレクシアの面影を探しに来た彼が、彼女以上に誰かを想うことが出来るのだろうか…

 だから、この人だけは、好きになるまいと思っているのに……どれだけ壁を作っても、どんどんこじ開けてくるんだから困ったものだ。

 グレイシアが物思いに耽っていると、ヴィクトルがそっとその手を取った。驚いて顔を上げると、いつになく真剣な眼差しのヴィクトルが目の前に居て、どきりと胸が高鳴った。

「…僕、君に恋人がいるって聞いた時、本当にショックでさ…せめて君の幸せをと願って身を引いたんだけど、全然諦められなかった。毎日グレイシアの顔が頭に浮かんで消えてくれないんだ」
「え……?」


 ――アレクシアじゃなくて、私を?


 窺うようにヴィクトルを見つめ返すと、彼は大仰なため息をついた。

「あーあ!折角カッコよくグレイシアを助けて『ヴィクトルさん素敵っ!好きっ!』って惚れてもらう予定だったのになあ。いいところはちょび髭のマスターにぜーんぶ持っていかれちゃったよ」
「……ふふっ、十分カッコよかったですよ」

 子供のように拗ねるヴィクトルに、思わず小さく吹き出した。

 モビウスに追い詰められた時、なぜか頭に浮かんだのはヴィクトルの姿だった。
 助けてくれた時のヴィクトルはサラサラの藍色の髪を風に揺らして、髪と同じ藍色の目が鋭く煌めいていて、確かに素敵だった。


 ――いつまでも意地を張らないで、少し素直になってみようか。


 そう思い、グレイシアはヴィクトルに微笑みかけた。

 グレイシアの言葉と優しい笑みに、ヴィクトルはぽかんと間抜けな顔で呆けている。

「ぐぐぐグレイシアっ!!」
「はい」

 そしてヴィクトルは、ぐあっ!と目を見開いてグレイシアの肩を勢いよく掴んだ。

「やっぱり僕は君が好きだ!アレクシアと同じ魂だからじゃない、他ならない君だから好きなんだ。始まりは確かにアレクシアの面影を探してのことだったけど、何度も会ううちに、僕はグレイシアという一人の女性に惹かれた。だから……」

 初めて会った時と違って、グレイシアの胸はどくどくと少し早めの鼓動を刻んでいる。

「僕と結婚してくださいっ!!!!」
「お断りします」
「なんでぇっ!?!?オッケーな雰囲気だったじゃんっ!!!」

 一刀両断されて崩れ落ちたヴィクトルの側に、グレイシアはしゃがみ込んで顔を覗き込んだ。その口元には笑みが浮かんでいる。

「いきなり求婚するなと言ったでしょう?まずは二人でどこかに出かけましょう。行ってみたかったカフェがあるんです。きちんとお付き合いをして、結婚の話はそれからです」
「ぐ、グレイシア…っ!」

 ヴィクトルはぶわっと目から涙を放出し、感極まっている。おおいおおいと泣きじゃくり、床には涙の海が広がる。

 あーあ、後で掃除しなきゃな、とグレイシアが苦笑していると、すんすん鼻を鳴らしながらヴィクトルが顔を上げた。折角の男前が涙でぐちゃぐちゃだ。

「あの、その、少しだけでいいんだ。少しだけ…抱きしめてもいい?」
「……はぁ、そんなことわざわざ聞かないでください」

 グレイシアは呆れ顔で、でも僅かに頬を染めて両手を広げる。途端にヴィクトルの意外と逞しい腕に抱きすくめられた。ぎゅうぎゅう抱きしめられて息が苦しい。

「ああ…どうしようグレイシア」
「なんでふか」
「今までにも増して君が愛しくて仕方がないよ。絶対君を幸せにすると誓うよ」
「…お願いしまふね」

 どくどくと脈打つ心音が身体を伝って響いてくる。わずかに触れる頬は濡れていて冷たいけれど、驚くほど熱くもあって、否応なしにヴィクトルの気持ちを感じてしまう。


 ――大好きなアレクシアのために、前世に転移しまでその面影を追うほど一途な男だもの、きっと大事にしてくれるわね。

 この縁を結んでくれた来世の自分に、グレイシアは心の中で感謝した。

 遠くで鈴を鳴らすような明るい笑い声が聞こえた気がした。
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