神護の猪(しし)

有触多聞(ありふれたもん)

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北京大患(ほくきょうたいかん)

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目を開けると、そこは古の絵に描かれた都大路そのものだった。
「そうそう。言い忘れていたけれど、他人には私たちの姿は見えないから、安心して、ね」
女は尻尾を隠す気もなさそうだ。二人は道の真ん中を歩いた。彼の肩は、どこか上がっているように見える。女と並べばなおさらだ。
「ここは保良宮(ほらのみや)。ほら、平城京って有名でしょう。この時は確か修繕か何かをしていて……。ここが代わりの場所だったの」
女は丁寧に解説をした。その話を聞きながら、彼は少しずつ、周りの空気がどうも浮ついていることに気がつき始めた。都に生きる民たちの声に耳をそばだてる。
「……上皇様がどうもご病気だそうだ……」
「あまり言うものではないが……もう、お命は長くはないだろう……」
「何かに憑かれたとの噂もあるぞ……。ああ恐ろしや、恐ろしや」
女はどうも聞こえないふりをしている様子だった。何かを気にしているのかもしれない。彼はあえてその話には触れないことにした。
かなりの距離を歩いた。向こうの方に人だかりができている。
「あの人たちは一体……?」
「例の上皇よ。歴史的に表現すると……孝謙上皇。いま、病に臥せっている。さあ、もっと近くに行きましょう」
女は平然と部屋へと入って行こうとする。姿は周囲に見られてはいないと知っていても、彼は思わず躊躇してしまった。透明人間は、こんな気分なのだろうか。もし、そうであるならば、それほど気分は良くないものである。
廊下を抜けて、障子を開けると、そこでは大勢の貴族たちが、神妙な面持ちで熱にうなされている高貴な女性を見つめていた。その中の一人が恐る恐る口を開く。
「もはや、我々にできる手立てはありませぬ……。残念ながら……」
わっと空気が急変した。
「おいたわしや……」
彼はその場の空気に圧され、つい正座してしまっていたことに気づいた。それとほぼ同時にふと、上皇が現代で言うところの、何の病かが気になった。しかし、彼に医学的な専門知識などはない。インフルエンザかな、などと戯言を心の中で言ってみるのが関の山だった。
悲嘆な涙に皆が暮れる中、部屋の奥の方より突然、一人の男が現れ、大きな声を上げた。
「皆々様、お待ちくだされ。まだ、救い出す手立てはありまする」
その男こそ、道鏡であった。

「皆々様。どうか私におまかせを。必ずや、上皇様をお救い申し上げます」
「なんだと。それは本当か」
「私は嘘を申しません」
「けれども、どうやって……」
「私はかつて梵語を学んでおりました身。その奥義をもって、必ずや」
宮中が騒めいた。
「……ううむ。我々ではどうすることもできぬ。時間は刻一刻と迫っておる……。そなた、名は何と申す」
「弓削道鏡にてございます」
「……道鏡よ。おぬしだけが頼りかも知れぬ……。しかし、二言は許さぬぞ」
「承知いたしております」
おお、と言う声とともに、貴族たちは少し活気を取り戻したように見える。
「それでは皆々様に、私から一つ、お願いがございます。私が施すのは秘術ゆえ、何人もこの部屋に入らぬようお願いいたします」
貴族たちはいそいそと退出していった。それに伴って彼も出ようとしてしまったが、女にぐいと手を引かれ、我に帰った。
彼は初めて間近で道鏡を見たが、その不思議な眼光に少しばかり恐怖を覚えた。この短い間に、全ての人間が道鏡に釘付けになってしまったのだ。もちろん、彼は人ならざるものであると、解ってはいるのであるが。
「お父様。これが全ての始まりだったのよ……」
女はそうつぶやいた。
「……どういう意味です?」
「父はね、本当に秘術を使ったの。私たち、神に仕えるものたちのみに伝わる秘術を。死にゆく運命にあるものに、息を吹き返させる代物よ。死神っていう落語の演目があるわね。あれによく似た類だと思って欲しい。まあ、わかるとは思うけれど、到底神に赦される行為ではないわ。でも、あまりにも父は……焦っていたのよ……。きっと」
ぶつぶつと呪文を唱える道鏡の顔には、薄ら笑いが潜んでいた。
「お父様は病のことを知っていて、都に向かったのよ。病の治癒が、出世の足掛かりになると踏んでいたのね。でも、どうしてその後こうなったのか私は今でも不思議だわ……」
秘術が効いてきたのか、みるみる上皇の顔は血色を取り戻しはじめ、うっすらと目を開けた。
「ここは……。おぬしは誰じゃ……」
「ここは保良宮でございますよ。私の名は、弓削道鏡。禅師でございます」
「朕の命を救ったのは、おぬしか」
「その通りでございます」
「そうか。おぬしは命の恩人というわけか……」
上皇はぼうっと遠くを見つめた。二人の視線は合うことはない。
「何かございましたか」
「いや、何もない。とにかく、おぬしには多大なる礼をつかわそう」
「ありがたき幸せ」
しばらくすると、慌てて貴族たちが押しかけた。
「上皇様。よくぞ、よくぞお目覚めで……」
「すっかり元の通りじゃ。すべて道鏡のおかげじゃ」
「おお。やはりそなたの力であったか。感謝してもしきれぬ……。本当に……よかった」
貴族たちは涙を流した。しかし、その一方で、上皇は至って冷静であった。
「皆のもの。まだ朕の体はどうも優れぬようじゃ。疾くこの建物から退出せよ。しかし、道鏡、おぬしだけは残れ」

貴族たちは退散した。上皇と道鏡だけが、この部屋に残った。
「どういうおつもりでしょう。上皇様」
上皇はぽつりと独り言のように話し始めた。
「朕はここで死ぬはずだったのだ……。確かに黄泉の国へ赴く途中だった……。道鏡、おぬし、一体何をした」
鋭い視線を道鏡に向ける。
「何を……と申せば、私は秘術を使ったまで、でございますが……」
「秘術だと。はっ。そんなものはあり得ぬ。……朕は確かにこの目で亡き父と母のお姿を見た。ああ、やっとあちら側へ逝ける。これが死であるとはっきりわかったはずだった……。なのに……」
「上皇様、一体何を……」
「ええい。よくも……よくも朕を生き返らせたな。秘術やらなんやら分からぬが、余計なことをしよって!」
「上皇様は、今この瞬間に、ご自分にお命があることが、喜ばしくないのですか」
「当たり前じゃ!もうすぐに楽になれると……」
はっきりとした語調の裏で、上皇の目はわずかに潤んでいた。
「……道鏡といったな。おぬしよ、あの貴族たちを見たか……。あいつらは所詮、泣いている演技をしているだけなのじゃ。はっ。実に上手な芝居よのう。いまいましい。本当は朕のことなど、微塵も気にかけておらぬくせに!女である朕など、ただの傀儡としてしか、見ておらぬくせに!」
「そんなことはないように思いましたが……。とにかく、落ち着きなされませ。上皇様」
「おぬし、一体何者じゃ。正体を見せい。人ならざることは、もうわかっているのだぞ。何せ、蘇りの術を心得ているのだからな……。……いや、なに……悪いことはせん……。非力な朕には、所詮何もできんからな……」
その目は狂気を思わせた。他者に振り回され続け、疲れ切ったものの目だった。
道鏡は予想だにしないことに呆気に取られてしまっていた。道鏡本人としては、病に伏せっていた上皇を蘇らせることは、朝廷で頭角を表すための、最も手っ取り早い方法だったのだ。それを足がかりに、順調に地位を固めていく算段だった。しかし、現実目の前には行き場のない怒りに震える上皇本人が立っている。儘ならぬ口の動きで、こう答えた。
「わ、わたくしは……一介の……、き、狐でございます……。なにも……知らずに……」
道鏡は死を覚悟した。しかし、上皇の返答は意外なものであった。
「ほう。おぬしは狐であったか……。なるほど。秘術も使えるわけじゃ。ふふ。面白い。人間なんぞより、よっぽど狐の方が信頼できるやもしれぬなあ。おぬし、朕と取引をする気はないか」
「と、取引というのは……?」
「おぬし、ここに赴いたのは偶然ではなかろう。何を企んだ」
「私はただ……。いや、この際、正直に申し上げましょう。私は、狐の社会から、半ば追放されていました。毎日が、貧しい生活です。私には、子どもがおります。その子どもたちに、なんとか良い飯を食わしてやりたい。少しでも暖かいところで、眠らせてやりたい。そう何度も思いました。そのために、私は狐の集団ではなく、人間社会に取り入ることを思いつきました。その途中、といったところでしょうか……」
「ははは。狐の割には、正直なやつじゃ。気に入ったぞ。そうか、その願い、じきに叶えてしんぜよう。しかし、その代わりに、おぬし、朕の手足となって働くか」
「と、言いますと……?」
「どうも不穏な予感がするのじゃ。近く、乱の類が起こるやも知れぬ。まあ、わしが生きながらえたことが、大きかろうと思うが。生きながらえたからには、これから朕は誰にも振り回されずに生きたいと思うておる。さすれば、朕に歯向かうものどもも多く出るじゃろう。その者たちが動き出した時、おぬしはあらゆる力を使って、朕と与するか」
「できることならなんでもいたしましょう」
「よし。ならこれからは朕に直接仕えよ。朕の命を救ったのだ、皆にも認められるだろう。子どもの方も融通してやろうぞ」
「……ありがたき幸せ」
「今のやりとり、貴族どもには一切他言せぬように」
「承知いたしました」

彼はしばしの間、自分の存在を忘れているような感覚に陥った。
「人間の方が、狐なんかより、よっぽど不思議な生き物よね……」
女が隣でぼそりと言った。
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