嘉永の虎

有触多聞(ありふれたもん)

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六等星

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北斎はろくに水も飲まず、取り憑かれたように富士山を描き続けた。岡田は隅で、自身の原稿を仕上げていたが、妙に懐かしい感覚があった。先生が奥で黙々とマンガを描き続け、アシスタントたちがその後ろでベタ塗りを担当する。薄暗い部屋で、ペン先が擦れる音が響く。岡田は特に先生の直線を引く音が好きだった。先生の描く一本の線で、いかなるものにも命が宿った。これは決して比喩表現の類ではない。先生の描くキャラクターたちは、老いも若きも、人も獣も、こんなに優しい顔をする……。

「先生、さすが!今回もすっごく面白いです!」
「いや……。僕なんてまだまださ」
「僕は……このイヌの顔が好きなんです。めちゃくちゃ可愛くないですか?」
「お。いいとこ突くねえ。あんまし出番はないけれど、僕のお気に入りなんだ。……実を言うと、アイデアは他の人から拝借したもんなんだけど」
「ええ?僕でも知ってますか?」
「ははは。日本中が知ってるよ……」
先生が誰のことを言っていたのか……岡田はずっと後に気づいた。

 気がつけば夜も更け、北斎の描いた富士の絵はまるで山のようになっていた。
「……夜風にでもあたりに行こうかね」
北斎はこう呟くと、手ぶらでドアのほうへ向かった。
「北斎さん、待って!」
「ああん?」
「窓の外、見てください。今日は満月ですよ」
星が幾千も輝き、丸い月がまるで夜空にぽっかり穴を開けたかのようにこちらを見ていた。
「ふん……こちらの世界は、昨日も思ったが、夜がつまらねえよなあ」
「えっ?」
「明るい、明るい。夜でもものがよく見えるなんてえのは、実につまらないと思わねえか」
「ああ……」
「思い出すねえ……昔々、儂は仮名手本忠臣蔵を描いたんだが……ふふ、あれには自信があったんだ」
「どうして?」
「お前さん、忠臣蔵の絵は、いくらか見たことがあるかい?」
「ああ……一回はたぶん」
「その時、あれは真夜中の事件なのにも関わらず、堀部安兵衛、大石内蔵助なんかの顔が、見えすぎやしないかと思わねえか。辺りは、夜の闇に沈んでいるはずなんだぜ」
「考えたこともありません。だって、あれは人物絵なんですから、夜でも、顔をはっきり描くのは当たり前でしょう」
「儂はその考えが嫌いだったんだ。しかし……忠臣蔵を描く以上、顔が見えねえってのはよくねえよな?そこで儂は……ふふ、どうしたと思う?」
「どうされたんですか?」
「はっ。儂はそこに星や月を描いたのよ。そうすることで、夜でも光が確かにあって、顔が見えることが説明つくだろ?有明の月は出鱈目なんだが、我ながらいい手だった……。でも、この世界は何だい。お星様が見てて呆れらあ」
岡田は苦笑いをしながら、
「……ところで、北斎さんは知らないでしょうけど、明るい星、小さい星と色々あるでしょう?一見、明るくて大きい星がここから近いと思われがちですが、そうでもないらしいです。ここから遠く遠くにある星が、実はとっても大きかったりするんです」
「儂の知り合いには幾らか学者の類の奴もいたが、そいつも天文学が好きでねえ。今度、その話でもしてやるとするか。中々面白いじゃねえか」
「ついでに言っとくと……ここ最近じゃ月に変わってお仕置きする女の子もいます」
「何だそれは。異国の伝説の類か?」
「伝説……間違っちゃいないですかね。はははは」
「けっ……おかしな奴だ……英泉にでも逢わせてやりたいよ」
「えいせん?」
「ああ……儂の……弟子だ。腕は悪くないが……」
「へえ……」
「本当に、うるさいやつらだ……」
岡田はのちに、英泉の名をとある資料から見つけ出すことになる。
『北斎肖像 渓斎英泉筆』
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