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第98話「文字は生き物みたいだ」
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視界一面を覆い隠して余りある古代の文字群を前に、俺は思わず言葉を漏らす。
「おぉ、……これは圧巻だなぁ」
「凄いですねぇ。なんというか空白の百年とかについても刻まれていそうな文量です」
最前列で映画でもみるような気分で見上げながら、俺とノワールは言い知れぬ感動に胸を打たれていた。
普段は考古学や博物学に特別な思い入れがあるわけでは無い俺だが、こうして直接的に歴史物に触れると流石に感慨にふけってしまう。
やはり生の本格というモノは良いものだ。
「読めない文字群に感動するってのも不思議な感覚だけどなー」
「そうは言ってもこういうモノからロストテクノロジーやオーパーツなんかの情報が手に入るってのは、やっぱり王道で良いじゃないですか」
「分かりみが凄い」
そうアホなことを言いあいながら、俺は文字をなぞる。
僅かに冷たい感触が手へと返る。
この壁の材質は石ではない。恐らくはオリハルコンと呼ばれる魔法金属だ。
黄金色に輝きを放つその様からは、時代による劣化や損傷の跡など微塵も感じさせない。
古代文字が主力として使われていた時代は少なくとも三百年は前のことらしいので、ファンタジー素材の頑強さには脱帽するばかりである。
「それでメグリさんは此処を調べているんですね?」
「うん。ノワールちゃんの言う通り。古代文明衰退の謎を解くことが私の夢だから」
そう言いながらノワールを抱き上げて、モフモフしだすメグリさん。
大変微笑ましい光景ですこと。
━━ちなみに。
古代文明の衰退とはそのままの意味である。
俺自身も大学に入ってから知ったのだが、どうやらこの世界は少なくとも一度、高次の文明レベルにまで発展した上で、全世界レベルで見る影もない程に衰退しているらしい。
要因は不明だが、それでも人類は爪の垢程度に残された文明のかがり火を拠り所に、学び、発展し、成長してきたそうな。
まぁ、そう言われてみればかなり納得のいく部分も多い話である。
今現在、人類圏として最長の歴史を持つ国でも保管されている記録は三百年ほど前のモノまでである。
だが、それにしては治水の技術も建築のノウハウも料理のレパートリーですら、この世界は異常な発展を見せている。
以前には散切り頭を叩くってレベルじゃあないと評したが、この世界は正に文字通りの温故知新にて日進月歩の発展を続けている最中なのである。
━━なんて、つらつらとしょうもない事を考えている間に、どうやら話は進んでいたらしい。
気づけば、俺の目の前では御歳五百になる大魔王様ことナイアさんがメグリさんに悪魔的な提案をしている最中であった。
「のぅのぅ。それならば、妾が全て読み解いて聞かせてやろうかの?」
「ええっ!? ナイアちゃんこれ全部読めるの!?」
「かかかっ。妾的にはむしろ慣れ親しんだ文字じゃからな。造作もないぞい」
「そーなの!?」
胸を張って威張るナイアさんとそれを驚愕の瞳で見つめるメグリさん。
俺とノワールはナイアの年齢を知ってるから驚かないけど、普通の人はそうなるよなぁ。
なんて考えていると、動揺で腕の力が抜けたのかノワールがするりと地面へ落ちた。
くるりと身を回し着地を決めた辺りは、流石は猫と言えるだろうか。
ノワールはそのまま、ててて、っとこちらへ近づいてくる。
ちなみにメグリさんは動揺しすぎてて、ノワールを落としたことにも気づいておらず、突如として現れた夢へのショートカットを前に頭を悩ませていた。
「ううん……!? 文字の内容は気になるけど……!? 自分で解析してこそのような気もするし……」
「ふむ。じゃあ辞めとくかの?」
「でも、気になるのぉ!!」
「う……ううむ。じゃあ読むかの?」
「やっぱり待ってぇぇ!!」
……なんというか、業が深いよなぁ。
ナイアとしては善意百%なんだろうが、メグリさんみたいに努力家の人としては自分の夢を他者に全て委ねるのは悩ましいモノだろう。
なんだが、悩みすぎて性格もちょっとブレてきてるし。
「余り他人に見せたい様子でもないでしょうし、ご主人。我々は少し離れましょうか」
そう言うとノワールはスタスタと歩き、少し離れた壁際まで行き、こちらへ来いと手招きをしだした。
気持ちは分かるから良いんだけど。
「なぁ、ノワールさんや。普通はご主人がスキルを呼ぶことはあっても、スキルがご主人を呼びつけることは無いんじゃないですかね?」
「まぁまぁ、あんまり小さい事を気にしちゃダメですよ、ご主人。それワカチコ、ワカチコ」
「ちっちゃくないよ!」
ずびしっ━━、っと突っ込みを入れる俺だが、それを華麗にスルーして壁へと指を滑らせるノワールさん。
今日も今日とて実に冷静な黒猫である。
まぁ、いつもの事なので俺も気持ちを切り替えて黒猫の手元へと視線を移す。
そこにはまたしても古代文字が所狭しと描かれていた。
どうやら俺が気付かなかっただけで、この部屋の壁一面、そして床に至るまでこの文字は刻まれていたらしい。
どういう執念であればこれほどまでの文量を残せるのか。
小中の読書感想文などで泣いていた身としてはコツが知りたいものである。
のほほんと、平和にそう考えていた俺だが、この後ノワールさんからの一言によって思考の全てがぶち壊される事になるとは予想もしていないのであった。
「そういえば、一つ気になったんですけどね。この古代文字ってご主人は読めないんですかね?」
「おいおい、ノワール。主人の突っ込みをさらりと流した上に、無茶ぶりをかますんじょねぇよ。残念ながら俺にそんなインテリジェンスは無いっての」
「あっはっはっはっ。大丈夫ですよ、ご主人の『かしこさ』にはもともと微塵の期待もしていませんから」
「インテリジェンスは『知性・知識』ですぅ。俺の地頭の良さを否定する材料にはならないと思いまーす。お前こそ賢さが足りないんじゃあないですかねぇ。ビバ・ノウレッジッ!!」
「それを言い出したら、ビバはイタリア語で、ノウレッジは英語ですよ、ご主人。━━っと、そうではなくて」
そう言うと、ノワールは身を乗り出して、俺としっかり視線を合わせながら、続きの言葉を吐き出した。
「この古代文字には、ご主人の『翻訳チート』は掛からないんですかね?」
「……は?」
そう。正に意味不明なその言葉を。
「ん? なんですか、そのハート様が北斗神拳を食らったような顔は」
「……それを言うなら鳩が豆鉄砲な」
「まぁ、なんでも良いんですが。なんでそんなに驚いてるんですか?」
「いやいやいやいや。お前がいきなり変なことを言うからだろがい」
俺は眉根を寄せながらそう返す。
一体、何を言っているんでしょうか、この黒猫は?
この剣と魔法のファンタジー世界へと飛ばされてはや数ヶ月。
<ノワール>というチートスキルこそあれど、俺自体は『魔法に対してやわらか戦車』『やーい、お前のステータス、スペランカー』『全体的にクソザコナメクジ』と評価される俺だぞ?
「そんな俺に……チートだと?」
「あら? もしかして今まで気付いていなかったんですか? ご主人」
何を言っているんだね、君は? ━━という視線を黒猫へと向ければ、何故だか相手方からも同じような視線を返された。
こだまでしょうか?
「はぁ……まさか本当に気付いてなかったんですね」
むしろ呆れがプラスされていた。なんてこったい。
「まず、この世界。使われる言語や文字。その一切合切が日本語では無いことに気がつきませんでしたか、ご主人? ……ああ。これは気付いてない顔ですね。百聞は一見に如かずと言いますし━━よっと、ちょっとこれを読んでもらっても良いですか?」
そうして、ノワールから唐突に差し出される謎フリップ。ってか、よく見たらノワールのステータスボードじゃねぇか。
「普通に『ノワール』だろ?」
「じゃあ、そこにある文字をそっくりそのまま模写して貰っても良いですか?」
「ん? いや、だから……なんじゃこりゃ?」
ノワールさんに言われるままにステータスボードの文字をなぞろうとして━━俺は気付いた。
「え……なに? このハンター文字みたいなやつ?」
「そういうことですよ、ご主人。当たり前ですけど、この世界ではこの世界独自の文字や言語が存在してます。ただ、そうなるとご主人みたいな転移者さんが困るでしょうからと、女神様が良い感じに翻訳魔法を付与してくれるんです」
気付いていないのは意外でしたけれど━━と、さらりとトンデモ発言を繰り出すノワールさん。
だが、俺が受けた衝撃は生半可なモノではなかった。
「なっ……なにぃぃぃっ!? えっ、じゃあ、俺って今は日本語で話してないのか!?」
「ええ。脳内の認識を弄られている所為で違和感などは感じていないでしょうが、流暢に異世界語を話していますね」
「じゃ……じゃあ、俺が今まで駄洒落だと思っていた台詞とか俳句は!?」
「ああ。それは大丈夫ですよ。それらも含めて良い感じに翻訳されてますから」
「マジかよ! すげぇな、翻訳チート!?」
「……というか、真っ先にでた心配がそれなんですねぇ」
━━などと呟くノワールさんだが、今の俺はそれどころではなかった。
「うぉぉぉおおお。ほんにゃくーなこんにゃくーでも食べた気分だ。つまり、今の俺はバイリンガルを超え、トライリンガルを鼻で笑い、クァリンガル、ペンタリンガルすら目じゃないってことだろう? ん? いや、待てよ。翻訳魔法の真骨頂は全ての言語の理解だとすれば……それどころじゃないな。そうか。そういうことか。つまりは━━」
俺はそこで言葉を区切り、息を吸い込む。だが、思考は止めない。否、止まらない。
全ての言語が通じるということは、常識的にそれだけで考えてもアドバンテージがヤバい。
日常の生活が便利になるとかそんなのは序の口だ。
この場所のような遺跡の解析によるロストテクノロジーの発見・活用。
更には俺自身が複雑なプログラム言語まで理解できるのならば、現代日本のように━━いや、それ以上に、ハイテクノロジーの武器やロボットを作り、操ることだって夢じゃない。まるでアニメみたいな話だが、本当のことさ!!
それに異種族の言語を理解できれば?
動植物・魔物との対話による使い魔契約も可能じゃね?
言うなれば、それは俺のワンダーランドだ。
━━力だ。
ここまで至れば、それは圧倒的な『力』に他ならない。
これだけの力があれば邪魔する奴なんて、ノートに名前を書くような気軽さで殺せてしまうだろう。
正に指先一つならぬ、口先一つでダウンさ。
嗚呼。胸が高鳴る。これまでに無い程に。心臓マヒを起こしてしまいそうな激しい動悸の中で、俺は天啓を受け、天命を得た。そうか、つまりはそういうこと━━
「僕が新世界の神だ」
━━僕はキメ顔でそう言った。
そうさ。
僕は殺し屋。依頼人は秩序。十四の十字を身に纏い、これより使命を実行する。
それだけの力が俺にはある。
頭上を仰ぎ、両手を広げ、万感の想いを込めて、俺は宣言した。
今までの俺は確かに弱かった。認めよう。
今までの俺は確かに脆かった。認めるさ。
━━だが、これからは違う。
俺は今、真に正しく自分のチートを理解したのだ。
もはや俺はノゾムじゃあない。言うなれば……超ノゾムだ。
ここからだ。ここから始めよう。一から? いいや、零から。
まっさらな状態で始めようぜ。俺の勇者としての成り上がりを。
無色からの転生さ。転生したらチートだった件ってやつだ。始まりこそデスマーチだったけれど、今後はありふれた展開で異世界最強になってやる。いや、待てよ。どこぞの盗賊のように影の実力者になるのも良いな。旅団ですけど、何か? ━━ってな具合よ。謙虚、堅実がモットーなんてそれはないでしょう。この能力じゃあメイン盾には成れないし、今は悪魔が微笑む時代なんだしな。これ程までのとんでもスキル。あえて能力を平均値に抑える必要は無い筈だ。
「ノワール。今まで苦労をかけたな。これからはもっと楽な暮らしをさせてやるよ」
「……うわぁ。いきなり気持ち悪いですね。どうしたんですか、ご主人? 冒涜的な虫型の未来人に意識でも乗っ取られました?」
感慨に耽る俺に対して、辛辣に返すノワールさん。
相も変わらず礼を失した黒猫ではあるが、今の俺にはそれすら気にならない。
「未来から来たという点では━━いや、違うな。未来が来たという点ではその通りだぜ、ノワール。そこで見ていろよ。お前の主人のはじめの一歩を」
そうして俺は再び壁に刻まれた古代文字へと向き直る。
未だに読めないその文字群を鼻で笑い、俺は脳内で翻訳魔法の発動を念じた。
もはや脳内はお花畑を通り越して、満員御礼のドームの如き有様である。
鳴り響く脳内観客の『なっりかね!!』のコールに合わせて、俺はデンプシーなロールを駆使して、古代文字を読み進める。
そう! 読み進めるのさ! 読み進めて━━……あ、あら? よ……読めへん?
そ……そんな訳があるかいな!?
ワイはノゾム!
プロチーターノゾムや!
俺は動揺を誤魔化しながら、一つ深呼吸を行い、改めてシャンと立つ。
そうして、誠実な気持ちを込めて、再度翻訳を強く願いながら文字へと向き合った。
そう、ちゃんとしようぜ。これこそが俺の男坂への第一歩。
人類にとっては小さな一歩だが、俺にとっては大事なはじめの一歩なのだから━━
「……」
「……ご主人?」
「…………」
「…………私は今、何を見せられてるんですかね?」
「……ふっ」
「!? ちょっ!? 大丈夫ですか、ご主人ー!?」
ずっしゃあ━━、と崩れ落ちた俺へとかけられるノワールの心配げな声。
だが、俺は今それどころではなかった。
「読め……ない……だと……?」
チートを使用したにも関わらず、目の前の古代文字は変わることなく、ミミズののたくりとしてそこに存在していた。
どういうことなのだ?
理解不能、理解不能。俺の頭脳が間抜けになったのか?
「あー。もしかして読めませんでした? まぁ、翻訳チートとは言っても万能じゃあないですしねぇ。対象外でしたか」
そうして、呆然と立ち尽くす俺へと返される無情な黒猫の言葉。
そのなんだか訳知りな態度に、俺は愕然と振り返る。
「ノ……ノワール? お前、もしかしてこの翻訳チートの詳細を知っているのか?」
「ん? ええ、はい。もともと私と同じタイミングで女神様からご主人へとインストールされたスキルですからね。なんとなく程度ではありますけど」
そう言って、なんでもないかのように首を傾げるノワールさん。
だが、俺はそんな黒猫の態度に目眩がするような思いであった。
自分でもどんどんと顔色が青ざめていくのが分かる。
━━だって、そうだろう?
俺と同じく現代日本の知識があるコイツが、翻訳チートの可能性に気づかない訳が無いのだから。
そして、そんなノワールがこれまで話題にも出さなかったということは━━
「な……なぁ、ノワール?」
「本当にどうしたんですか、ご主人? 急に具合が悪そうですけど……」
━━翻訳魔法が役に立たないからじゃあないのか?
頭に浮かんだその呪詛のような疑問は、さながら錆びのように思考の片隅へとこびりついてくる。
実際に今、栄光の道であったロストテクノロジーへの足がかりは途絶えた訳で。
……いやいや。いやいやいやいや。
俺は被りを振って、後ろ向きな思考を吹き飛ばした。
逆に考えろ、成金望。
女神様がくれたギフトがチートじゃないのだろうか? いや、そんな訳がないだろう?
そんな心を惑わす不安を吹き飛ばすように、俺は黒猫へと言葉を投げつけた。
「ノワール! この翻訳魔法ってプログラム言語は理解できるよな!?」
「え? いや、多分無理ですよ。それって向こうの言葉じゃないですか。非対応です、非対応」
「じゃあ、こっちの世界の動物とか植物となら話せるんだよな? な!?」
「それも無理ですねぇ。それらの言葉は理解出来なくても日常生活に支障は無いでしょうし、メーカー対象外です」
「それなら!! 魔物はどーよ!? 会話出来れば戦闘も回避出来て生存率も上がる訳だし!? 使役とか出来れば生活も豊かになるんじゃ━━」
「━━いやぁ、無理でしょう。魔物側がこの世界の公用語を話せるなら分かりませんが、ほとんどの魔物って知性のかけらもありませんし。話す必要を神様が認めてるとは思えません。……というか、そもそも今までの魔物の中で話せたヤツっていましたっけ?」
「……くそったれめっ!! 嗚呼、いないね。いないさ。いないとも。いないからこそ━━ 」
俺はそこで息を吸い、悔しさを噛み締めながら右の手のひらを力任せに床へと叩きつけた。
「━━特別待遇が必要なんだろうがよぉ!! 与えられたギフトに胡座をかきつつ、恩恵だけを暴飲ッ!! 暴食ッ!! したいんだろうがよぉ!! 日本人はそういう展開に飢えてんだよぉ!! 僕はなぁ、僕は、僕は、僕は、僕は、僕は、僕はなぁ!! 強くなきゃいけねぇんだよ!! 誰よりも!! 誰よりもだ!! この僕が弱くなるなんて、あっちゃならない事なんだ!!」
「……うわぁ。なんてみっともない駄々っ子でしょうか。匂宮雑技団にはこんな道化師もいたんですね」
「くそっ……なにが超ノゾムだ……どうした? 笑えよ、ノワール? ちくしょう……ちくしょぉぉぉおう!! 完全体に……完全体に成れさえすればぁぁぁぁああああ!!!!」
黄金に輝く文字群を前に、少年の声だけが、悲しく、虚しく、木霊する。
力が……力が欲しいと少年は嘆き続ける。
だが、その声に応えるモノはなく、この場には夢も希望も、奇跡も魔法も存在しないのであった。
「おぉ、……これは圧巻だなぁ」
「凄いですねぇ。なんというか空白の百年とかについても刻まれていそうな文量です」
最前列で映画でもみるような気分で見上げながら、俺とノワールは言い知れぬ感動に胸を打たれていた。
普段は考古学や博物学に特別な思い入れがあるわけでは無い俺だが、こうして直接的に歴史物に触れると流石に感慨にふけってしまう。
やはり生の本格というモノは良いものだ。
「読めない文字群に感動するってのも不思議な感覚だけどなー」
「そうは言ってもこういうモノからロストテクノロジーやオーパーツなんかの情報が手に入るってのは、やっぱり王道で良いじゃないですか」
「分かりみが凄い」
そうアホなことを言いあいながら、俺は文字をなぞる。
僅かに冷たい感触が手へと返る。
この壁の材質は石ではない。恐らくはオリハルコンと呼ばれる魔法金属だ。
黄金色に輝きを放つその様からは、時代による劣化や損傷の跡など微塵も感じさせない。
古代文字が主力として使われていた時代は少なくとも三百年は前のことらしいので、ファンタジー素材の頑強さには脱帽するばかりである。
「それでメグリさんは此処を調べているんですね?」
「うん。ノワールちゃんの言う通り。古代文明衰退の謎を解くことが私の夢だから」
そう言いながらノワールを抱き上げて、モフモフしだすメグリさん。
大変微笑ましい光景ですこと。
━━ちなみに。
古代文明の衰退とはそのままの意味である。
俺自身も大学に入ってから知ったのだが、どうやらこの世界は少なくとも一度、高次の文明レベルにまで発展した上で、全世界レベルで見る影もない程に衰退しているらしい。
要因は不明だが、それでも人類は爪の垢程度に残された文明のかがり火を拠り所に、学び、発展し、成長してきたそうな。
まぁ、そう言われてみればかなり納得のいく部分も多い話である。
今現在、人類圏として最長の歴史を持つ国でも保管されている記録は三百年ほど前のモノまでである。
だが、それにしては治水の技術も建築のノウハウも料理のレパートリーですら、この世界は異常な発展を見せている。
以前には散切り頭を叩くってレベルじゃあないと評したが、この世界は正に文字通りの温故知新にて日進月歩の発展を続けている最中なのである。
━━なんて、つらつらとしょうもない事を考えている間に、どうやら話は進んでいたらしい。
気づけば、俺の目の前では御歳五百になる大魔王様ことナイアさんがメグリさんに悪魔的な提案をしている最中であった。
「のぅのぅ。それならば、妾が全て読み解いて聞かせてやろうかの?」
「ええっ!? ナイアちゃんこれ全部読めるの!?」
「かかかっ。妾的にはむしろ慣れ親しんだ文字じゃからな。造作もないぞい」
「そーなの!?」
胸を張って威張るナイアさんとそれを驚愕の瞳で見つめるメグリさん。
俺とノワールはナイアの年齢を知ってるから驚かないけど、普通の人はそうなるよなぁ。
なんて考えていると、動揺で腕の力が抜けたのかノワールがするりと地面へ落ちた。
くるりと身を回し着地を決めた辺りは、流石は猫と言えるだろうか。
ノワールはそのまま、ててて、っとこちらへ近づいてくる。
ちなみにメグリさんは動揺しすぎてて、ノワールを落としたことにも気づいておらず、突如として現れた夢へのショートカットを前に頭を悩ませていた。
「ううん……!? 文字の内容は気になるけど……!? 自分で解析してこそのような気もするし……」
「ふむ。じゃあ辞めとくかの?」
「でも、気になるのぉ!!」
「う……ううむ。じゃあ読むかの?」
「やっぱり待ってぇぇ!!」
……なんというか、業が深いよなぁ。
ナイアとしては善意百%なんだろうが、メグリさんみたいに努力家の人としては自分の夢を他者に全て委ねるのは悩ましいモノだろう。
なんだが、悩みすぎて性格もちょっとブレてきてるし。
「余り他人に見せたい様子でもないでしょうし、ご主人。我々は少し離れましょうか」
そう言うとノワールはスタスタと歩き、少し離れた壁際まで行き、こちらへ来いと手招きをしだした。
気持ちは分かるから良いんだけど。
「なぁ、ノワールさんや。普通はご主人がスキルを呼ぶことはあっても、スキルがご主人を呼びつけることは無いんじゃないですかね?」
「まぁまぁ、あんまり小さい事を気にしちゃダメですよ、ご主人。それワカチコ、ワカチコ」
「ちっちゃくないよ!」
ずびしっ━━、っと突っ込みを入れる俺だが、それを華麗にスルーして壁へと指を滑らせるノワールさん。
今日も今日とて実に冷静な黒猫である。
まぁ、いつもの事なので俺も気持ちを切り替えて黒猫の手元へと視線を移す。
そこにはまたしても古代文字が所狭しと描かれていた。
どうやら俺が気付かなかっただけで、この部屋の壁一面、そして床に至るまでこの文字は刻まれていたらしい。
どういう執念であればこれほどまでの文量を残せるのか。
小中の読書感想文などで泣いていた身としてはコツが知りたいものである。
のほほんと、平和にそう考えていた俺だが、この後ノワールさんからの一言によって思考の全てがぶち壊される事になるとは予想もしていないのであった。
「そういえば、一つ気になったんですけどね。この古代文字ってご主人は読めないんですかね?」
「おいおい、ノワール。主人の突っ込みをさらりと流した上に、無茶ぶりをかますんじょねぇよ。残念ながら俺にそんなインテリジェンスは無いっての」
「あっはっはっはっ。大丈夫ですよ、ご主人の『かしこさ』にはもともと微塵の期待もしていませんから」
「インテリジェンスは『知性・知識』ですぅ。俺の地頭の良さを否定する材料にはならないと思いまーす。お前こそ賢さが足りないんじゃあないですかねぇ。ビバ・ノウレッジッ!!」
「それを言い出したら、ビバはイタリア語で、ノウレッジは英語ですよ、ご主人。━━っと、そうではなくて」
そう言うと、ノワールは身を乗り出して、俺としっかり視線を合わせながら、続きの言葉を吐き出した。
「この古代文字には、ご主人の『翻訳チート』は掛からないんですかね?」
「……は?」
そう。正に意味不明なその言葉を。
「ん? なんですか、そのハート様が北斗神拳を食らったような顔は」
「……それを言うなら鳩が豆鉄砲な」
「まぁ、なんでも良いんですが。なんでそんなに驚いてるんですか?」
「いやいやいやいや。お前がいきなり変なことを言うからだろがい」
俺は眉根を寄せながらそう返す。
一体、何を言っているんでしょうか、この黒猫は?
この剣と魔法のファンタジー世界へと飛ばされてはや数ヶ月。
<ノワール>というチートスキルこそあれど、俺自体は『魔法に対してやわらか戦車』『やーい、お前のステータス、スペランカー』『全体的にクソザコナメクジ』と評価される俺だぞ?
「そんな俺に……チートだと?」
「あら? もしかして今まで気付いていなかったんですか? ご主人」
何を言っているんだね、君は? ━━という視線を黒猫へと向ければ、何故だか相手方からも同じような視線を返された。
こだまでしょうか?
「はぁ……まさか本当に気付いてなかったんですね」
むしろ呆れがプラスされていた。なんてこったい。
「まず、この世界。使われる言語や文字。その一切合切が日本語では無いことに気がつきませんでしたか、ご主人? ……ああ。これは気付いてない顔ですね。百聞は一見に如かずと言いますし━━よっと、ちょっとこれを読んでもらっても良いですか?」
そうして、ノワールから唐突に差し出される謎フリップ。ってか、よく見たらノワールのステータスボードじゃねぇか。
「普通に『ノワール』だろ?」
「じゃあ、そこにある文字をそっくりそのまま模写して貰っても良いですか?」
「ん? いや、だから……なんじゃこりゃ?」
ノワールさんに言われるままにステータスボードの文字をなぞろうとして━━俺は気付いた。
「え……なに? このハンター文字みたいなやつ?」
「そういうことですよ、ご主人。当たり前ですけど、この世界ではこの世界独自の文字や言語が存在してます。ただ、そうなるとご主人みたいな転移者さんが困るでしょうからと、女神様が良い感じに翻訳魔法を付与してくれるんです」
気付いていないのは意外でしたけれど━━と、さらりとトンデモ発言を繰り出すノワールさん。
だが、俺が受けた衝撃は生半可なモノではなかった。
「なっ……なにぃぃぃっ!? えっ、じゃあ、俺って今は日本語で話してないのか!?」
「ええ。脳内の認識を弄られている所為で違和感などは感じていないでしょうが、流暢に異世界語を話していますね」
「じゃ……じゃあ、俺が今まで駄洒落だと思っていた台詞とか俳句は!?」
「ああ。それは大丈夫ですよ。それらも含めて良い感じに翻訳されてますから」
「マジかよ! すげぇな、翻訳チート!?」
「……というか、真っ先にでた心配がそれなんですねぇ」
━━などと呟くノワールさんだが、今の俺はそれどころではなかった。
「うぉぉぉおおお。ほんにゃくーなこんにゃくーでも食べた気分だ。つまり、今の俺はバイリンガルを超え、トライリンガルを鼻で笑い、クァリンガル、ペンタリンガルすら目じゃないってことだろう? ん? いや、待てよ。翻訳魔法の真骨頂は全ての言語の理解だとすれば……それどころじゃないな。そうか。そういうことか。つまりは━━」
俺はそこで言葉を区切り、息を吸い込む。だが、思考は止めない。否、止まらない。
全ての言語が通じるということは、常識的にそれだけで考えてもアドバンテージがヤバい。
日常の生活が便利になるとかそんなのは序の口だ。
この場所のような遺跡の解析によるロストテクノロジーの発見・活用。
更には俺自身が複雑なプログラム言語まで理解できるのならば、現代日本のように━━いや、それ以上に、ハイテクノロジーの武器やロボットを作り、操ることだって夢じゃない。まるでアニメみたいな話だが、本当のことさ!!
それに異種族の言語を理解できれば?
動植物・魔物との対話による使い魔契約も可能じゃね?
言うなれば、それは俺のワンダーランドだ。
━━力だ。
ここまで至れば、それは圧倒的な『力』に他ならない。
これだけの力があれば邪魔する奴なんて、ノートに名前を書くような気軽さで殺せてしまうだろう。
正に指先一つならぬ、口先一つでダウンさ。
嗚呼。胸が高鳴る。これまでに無い程に。心臓マヒを起こしてしまいそうな激しい動悸の中で、俺は天啓を受け、天命を得た。そうか、つまりはそういうこと━━
「僕が新世界の神だ」
━━僕はキメ顔でそう言った。
そうさ。
僕は殺し屋。依頼人は秩序。十四の十字を身に纏い、これより使命を実行する。
それだけの力が俺にはある。
頭上を仰ぎ、両手を広げ、万感の想いを込めて、俺は宣言した。
今までの俺は確かに弱かった。認めよう。
今までの俺は確かに脆かった。認めるさ。
━━だが、これからは違う。
俺は今、真に正しく自分のチートを理解したのだ。
もはや俺はノゾムじゃあない。言うなれば……超ノゾムだ。
ここからだ。ここから始めよう。一から? いいや、零から。
まっさらな状態で始めようぜ。俺の勇者としての成り上がりを。
無色からの転生さ。転生したらチートだった件ってやつだ。始まりこそデスマーチだったけれど、今後はありふれた展開で異世界最強になってやる。いや、待てよ。どこぞの盗賊のように影の実力者になるのも良いな。旅団ですけど、何か? ━━ってな具合よ。謙虚、堅実がモットーなんてそれはないでしょう。この能力じゃあメイン盾には成れないし、今は悪魔が微笑む時代なんだしな。これ程までのとんでもスキル。あえて能力を平均値に抑える必要は無い筈だ。
「ノワール。今まで苦労をかけたな。これからはもっと楽な暮らしをさせてやるよ」
「……うわぁ。いきなり気持ち悪いですね。どうしたんですか、ご主人? 冒涜的な虫型の未来人に意識でも乗っ取られました?」
感慨に耽る俺に対して、辛辣に返すノワールさん。
相も変わらず礼を失した黒猫ではあるが、今の俺にはそれすら気にならない。
「未来から来たという点では━━いや、違うな。未来が来たという点ではその通りだぜ、ノワール。そこで見ていろよ。お前の主人のはじめの一歩を」
そうして俺は再び壁に刻まれた古代文字へと向き直る。
未だに読めないその文字群を鼻で笑い、俺は脳内で翻訳魔法の発動を念じた。
もはや脳内はお花畑を通り越して、満員御礼のドームの如き有様である。
鳴り響く脳内観客の『なっりかね!!』のコールに合わせて、俺はデンプシーなロールを駆使して、古代文字を読み進める。
そう! 読み進めるのさ! 読み進めて━━……あ、あら? よ……読めへん?
そ……そんな訳があるかいな!?
ワイはノゾム!
プロチーターノゾムや!
俺は動揺を誤魔化しながら、一つ深呼吸を行い、改めてシャンと立つ。
そうして、誠実な気持ちを込めて、再度翻訳を強く願いながら文字へと向き合った。
そう、ちゃんとしようぜ。これこそが俺の男坂への第一歩。
人類にとっては小さな一歩だが、俺にとっては大事なはじめの一歩なのだから━━
「……」
「……ご主人?」
「…………」
「…………私は今、何を見せられてるんですかね?」
「……ふっ」
「!? ちょっ!? 大丈夫ですか、ご主人ー!?」
ずっしゃあ━━、と崩れ落ちた俺へとかけられるノワールの心配げな声。
だが、俺は今それどころではなかった。
「読め……ない……だと……?」
チートを使用したにも関わらず、目の前の古代文字は変わることなく、ミミズののたくりとしてそこに存在していた。
どういうことなのだ?
理解不能、理解不能。俺の頭脳が間抜けになったのか?
「あー。もしかして読めませんでした? まぁ、翻訳チートとは言っても万能じゃあないですしねぇ。対象外でしたか」
そうして、呆然と立ち尽くす俺へと返される無情な黒猫の言葉。
そのなんだか訳知りな態度に、俺は愕然と振り返る。
「ノ……ノワール? お前、もしかしてこの翻訳チートの詳細を知っているのか?」
「ん? ええ、はい。もともと私と同じタイミングで女神様からご主人へとインストールされたスキルですからね。なんとなく程度ではありますけど」
そう言って、なんでもないかのように首を傾げるノワールさん。
だが、俺はそんな黒猫の態度に目眩がするような思いであった。
自分でもどんどんと顔色が青ざめていくのが分かる。
━━だって、そうだろう?
俺と同じく現代日本の知識があるコイツが、翻訳チートの可能性に気づかない訳が無いのだから。
そして、そんなノワールがこれまで話題にも出さなかったということは━━
「な……なぁ、ノワール?」
「本当にどうしたんですか、ご主人? 急に具合が悪そうですけど……」
━━翻訳魔法が役に立たないからじゃあないのか?
頭に浮かんだその呪詛のような疑問は、さながら錆びのように思考の片隅へとこびりついてくる。
実際に今、栄光の道であったロストテクノロジーへの足がかりは途絶えた訳で。
……いやいや。いやいやいやいや。
俺は被りを振って、後ろ向きな思考を吹き飛ばした。
逆に考えろ、成金望。
女神様がくれたギフトがチートじゃないのだろうか? いや、そんな訳がないだろう?
そんな心を惑わす不安を吹き飛ばすように、俺は黒猫へと言葉を投げつけた。
「ノワール! この翻訳魔法ってプログラム言語は理解できるよな!?」
「え? いや、多分無理ですよ。それって向こうの言葉じゃないですか。非対応です、非対応」
「じゃあ、こっちの世界の動物とか植物となら話せるんだよな? な!?」
「それも無理ですねぇ。それらの言葉は理解出来なくても日常生活に支障は無いでしょうし、メーカー対象外です」
「それなら!! 魔物はどーよ!? 会話出来れば戦闘も回避出来て生存率も上がる訳だし!? 使役とか出来れば生活も豊かになるんじゃ━━」
「━━いやぁ、無理でしょう。魔物側がこの世界の公用語を話せるなら分かりませんが、ほとんどの魔物って知性のかけらもありませんし。話す必要を神様が認めてるとは思えません。……というか、そもそも今までの魔物の中で話せたヤツっていましたっけ?」
「……くそったれめっ!! 嗚呼、いないね。いないさ。いないとも。いないからこそ━━ 」
俺はそこで息を吸い、悔しさを噛み締めながら右の手のひらを力任せに床へと叩きつけた。
「━━特別待遇が必要なんだろうがよぉ!! 与えられたギフトに胡座をかきつつ、恩恵だけを暴飲ッ!! 暴食ッ!! したいんだろうがよぉ!! 日本人はそういう展開に飢えてんだよぉ!! 僕はなぁ、僕は、僕は、僕は、僕は、僕は、僕はなぁ!! 強くなきゃいけねぇんだよ!! 誰よりも!! 誰よりもだ!! この僕が弱くなるなんて、あっちゃならない事なんだ!!」
「……うわぁ。なんてみっともない駄々っ子でしょうか。匂宮雑技団にはこんな道化師もいたんですね」
「くそっ……なにが超ノゾムだ……どうした? 笑えよ、ノワール? ちくしょう……ちくしょぉぉぉおう!! 完全体に……完全体に成れさえすればぁぁぁぁああああ!!!!」
黄金に輝く文字群を前に、少年の声だけが、悲しく、虚しく、木霊する。
力が……力が欲しいと少年は嘆き続ける。
だが、その声に応えるモノはなく、この場には夢も希望も、奇跡も魔法も存在しないのであった。
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