わたしのふりをする女

杉 孝子

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わたしのふりをする女

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 今日は、よく晴れている。桜はもう散ってしまったけれど、少しずつ暖かくなってきて、過ごしやすい季節になった。朝から風もなく、窓の外の木々が青々と揺れている。鳥のさえずりも心なしか明るくて、こんな日は昔のことをゆっくり思い出したくなる。

 だから、話してみようと思う。
 私の生きてきた過去の話だけど、聞いてくれる?

 私が生まれたのは、昭和も終わりに近い頃。集合団地の小さな部屋で、母と父に囲まれて育った。写真を見ると、母はいつも私を抱いていて、父は少し離れたところで笑っていた。

 母は綺麗な人だった。特に、鏡の前にいるときの母は、何か別の人みたいだった。
『女はね、鏡と仲良くしなきゃいけないの』
 そう言いながら、よく鏡を拭いていた。その鏡は、祖母の代から家にあった古い全身鏡で、ガラスが少し曇っていて、触ると妙に冷たかった。今思い返せば、鏡の前でメイクをしていたのだと思う。アイシャドウを引いて、綺麗な服を着て、夜の街に出ていった。

 小学生になっても、その言葉はなんとなく心に残っていた。私は、友達と遊ぶよりも、鏡の前で髪をといたり、口紅を塗る母を見ているのが好きだった。でも、ある日を境に母は家に帰ってこなくなった。
 最後に母を見たのは、ある日の夜だった。部屋に置かれた鏡をじっと見つめていた。まるで誰かと会話しているみたいだった。私が母を呼んでも振り返らずに、ただ黙って立ち尽くしていた。それが、最後だった。

『母さんは新しい人生を選んだ』
 そう言った父は、私が鏡を拭くたびに、目を逸らしていた。優しかった父もその頃から性格が変っていった。

 中学生になる頃、私は鏡を見ることが増えた。自分の顔を、毎日確かめるように。まだ母のようにはなれなかったけれど、目元や口元が母に似てきたと親戚に言われるのが嬉しかった。
 母に似て、自分でも美人だと思っていた。クラスでも、男子からの視線が他の子とは違うことにも気づいていた。

 でも、あるときから、少し変な感じがしていた。修学旅行の写真に写る自分の顔が、鏡で見る顔と違う気がしたの。友達との記念の写真も、プリクラの写真も。
 鏡の中の私は、いつも微笑んでいた。ほんの少しだけ、現実の私より楽しそうに。一度、夜中に鏡を見たら、私の後ろに誰かが立っている気がして、振り返ったけど誰もいなかった。
 ある朝、ふと、鏡の中の私が片目を瞑ったように思ったこともあった。私はウインクなんてしなかったのに。

 恋をしたのは高校に入ってから。相手は、美術部の先輩で、私のことを『目がすごく魅力的だね』と言った。自分の目がチャームポイントになったのは、その言葉のせいだと思う。
 先輩とは、短い期間だけ付き合った。別れた理由は覚えていない。青春の一ページってところね。
 ただ、別れた日、鏡の中の私が口を開いたように見えた。『よかったね』と、言ったような気がした。声は聞こえなかったけど、確かに唇がそう動いた。私は声を出していなかったのに。少し気味悪くなって、その夜、鏡を布で覆ったけど、布の下からカタッカタッと音がした。

 大学に進んでからは、特に不思議なことはなかった。鏡の中の私は、ちゃんと私と同じ動きをしていたし、誰から見ても『普通の女の子』だったと思う。でも、時々、鏡を拭くときに指紋が残らないことに気づいた。ガラスが、まるで私の存在を拒むみたいに。

 社会人になって、結婚した。相手は同じ会社の営業の人。とても優しい人だった。二人で暮らし始めた部屋は、古かったけれど、窓が大きくて気に入っていた。そして、母の使っていたあの鏡も、新居に持ち込んだ。母の鏡は、少し傷があって、端がくすんでいた。夫は、『その鏡、何か古臭くて、傷だらけだね。新しいの買ったら』って言ったけど、それでも私は手放せなかった。

 彼はその鏡が余り好きではなかったようだ。ある日、鏡を片付けようとしていた彼が言った。
「これ、どこかで誰かに見られてる気がするんだよね」
 そのとき、私はなぜかすごく怒ってしまった。わたしを見てるのは、わたしでしょ? そう、鏡の中の。

 結婚してすぐ、子どもを授かった。女の子だった。母に似て、目が大きくて、笑うと小さなえくぼができた。娘も、私がメイクをしているのを物心つく頃から興味を持って見ていた。でも、娘が鏡を見るとき、いつも少しだけ顔を背けるのが気になっていた。

 ある日、娘が私に言ったの。
「ママ、鏡の中にもうひとりのママがいたよ」って。
 私は笑った。子どもはそういうことを言うものだと思っていた。でも、その日から、なんとなく、鏡を見るのが怖くなった。夜中にふと目が覚めると、部屋の隅に置いた鏡から誰かがこちらを覗いている気がして、布をかけて眠るようになった。

 七歳の誕生日にあの言葉を言った日から、私は完全に変わってしまった。
「ママ、あの人、笑ってたよ」
「どの人?」
「鏡の中のママ。ママじゃないのに、ママの顔してた」
「鏡の中のママ? 鏡には、自分の顔が映るのよ。美穂ちゃんの顔が映ってたんでしょ」
「違うよ、ママだよ」

 私はそれ以来、鏡を見るとき、いつも息を止めるようになった。ほんの一瞬でも、あちらが違う動きをしたらどうしようって思って。そんなことはあり得ない。頭ではわかっている。いつも映るのは自分の顔しか映ってはいなかったのだから。でも、鏡を拭くたびに、ガラスが冷たくて、まるで私の手を拒むみたいだった。

 あるとき、夫が酔って帰ってきた夜、言ったの。
「お前、誰だよ」
 冗談めいて言ったつもりだったのかもしれない。けれど、私はそれを笑えなかった。

 夫は私の変化に気づいたようだったけど、何も言わなかった。ただ、ある晩、私が鏡をじっと見ていると、
「お前、最近、鏡ばっかり見てないか?」と怒ったように言った。
 夫とは、次第に会話が減り、夫は仕事と理由をつけて帰りが遅くなり、やがて家に帰ってこなくなった。まるで私を避けるように。

 娘も中学生になり、自室にこもるようになった。何かを感じ取っていたのだろうか。

 そんな娘が、ある日、言った。
「ママって、本当にママなの?」
 私は答えられなかった。答えようとしても、声が出なかった。
 そのとき、部屋の鏡に映る私が微笑んだ。私は笑ってはいないのに。

 それから、娘との会話はほとんどなくなった。彼女は鏡を避けるように部屋に閉じこもり、私を見る目が冷たくなった。
 ある夜、娘が久しぶりに口を開いた。
「ママ、あの鏡、捨ててよ」
「これは母さんからの形見なの」

 そう、答える私の声は震えていた。

――あれから、何年が過ぎたのか。
 夫も、娘も戻ってこない。

 今、この部屋には私ひとり。でも、ひとりじゃないの。ずっと、私の話を聞いてくれていた。

 ねえ、そうでしょう?
 あなたも誰かに語っていたのよね。
 同じように、誰かのふりをして。
 ねえ、わたしたち、似ているわよね?

 私が語ったこと、全部、本当だったのよ。
 嘘はついてないわ。ただ、ほんの少しだけ、違っていただけ。

 鏡の中の私は、そう言った。

 娘は出ていったんじゃないの……
 台所の、下に――

 あの日の夜、娘が鏡を割ろうとしたの。私を、鏡の中の私から解放しようとして。でも、鏡は割れなかった。代わりに、娘が…。

――だから、これでおしまい。

 ねえ、あなたも――
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