結婚式の翌朝、夫に「皇太子の愛人だろう」と捨てられました――ですが私は、亡き国王の娘です

柴田はつみ

文字の大きさ
1 / 11

第一章 幸せだったはずの朝

「君を愛していると、本気で思っていたのかい?」

 その言葉を、アンリはすぐには理解できなかった。

 朝の光が、薄いレースのカーテンを透かして寝室に差し込んでいる。

 昨夜、祝福に包まれて眠りについたばかりの部屋だった。
白い花で飾られた寝台。 
磨き上げられた鏡台。

まだほどいていない髪に残る香油の香り。どれも、たしかに幸福な花嫁の朝のはずだった。

 なのに、目の前に立つ夫アルファの声だけが、ひどく冷たかった。

「……え?」

 やっとのことで出た声は、自分でも情けないほど小さかった。

 アルファは窓辺に立っていた。

 国内でも名高い騎士。若くして武勲を立て、公爵家当主としても名を知られる男。

陽の光を受けた横顔は相変わらず整っていて、昨夜、誓いの口づけをくれた人と同じ顔をしている。

 けれど、その目にあったのは優しさではなかった。

 軽蔑。
 あるいは、ずっと押し殺していた怒り。

「聞こえなかったのか」
「い、いいえ……」

 アンリは寝台の上で身を起こした。指先が冷えていく。胸の奥が、嫌なふうにざわついた。

 何かの冗談だろうか。
 そう思いたかった。思わなければ、顔を上げていられなかった。

 昨日、アルファは確かに笑っていたのだ。

 人前では滅多に表情を崩さないと言われる人が、誓いの言葉のとき、たしかにアンリを見て微笑んでくれた。

あれが演技だったなんて、そんなことがあるはずがない。

 だからアンリは、震える声で言った。

「どういう……意味でしょうか」

 アルファは短く息を吐いた。呆れたような、見限ったような息だった。

「ここまで来ても、まだ続けるつもりか」
「続ける、って……」
「白を切るな。君が第一皇太子殿下に何度も呼び出されていたことくらい、調べはついている」

 アンリの背筋がこわばった。

 第一皇太子。
 その名を聞いた瞬間、胸の奥が別の意味で痛んだ。

 どうして、ここでその方の名前が出てくるのだろう。

 いや、理由は分かっていた。分かっていたからこそ、何も言えなくなる。

 アンリは母から遺された小さな薬草店を守りながら暮らしてきた。

貴族ではない。王宮とは本来、縁のない身だ。

 そんな自分のもとへ、第一皇太子レオンがたびたび人を寄こし、王宮へ来るよう言ってきたことは事実だった。

 そのたびにアンリは断ってきた。
 行けば、余計な噂になると分かっていたからだ。

 けれど、噂はとうに立っていたのだろう。

「違います」
 やっとのことで言えたのは、それだけだった。

「違う? 何がだ」

「わたしは、殿下とは……そのような関係ではありません」

「では、どのような関係なんだ」

 鋭く問われて、アンリは唇を閉ざした。

 言えない。
 言えるはずがない。

 母が生きていたころから、何度も言い聞かされてきた。

 王宮に関わることは軽々しく口にしてはいけない。どんなことがあっても、自分の身の上を他人に明かしてはいけない、と。

 アンリは理由のすべてを知っているわけではなかった。

 ただ、それが母の命がけの願いだったことだけは、分かっていた。

 だから黙るしかない。
 けれど、その沈黙は今この場では最悪の答えにしかならなかった。

 案の定、アルファの目がさらに冷えた。

「言い訳もできないか」
「違うんです、わたしは……」
「君は最初から、私ではなく別のものを見ていたんだろう」

 別のもの。

 その言い方が、あまりに残酷で、アンリは一瞬息をするのも忘れた。

「公爵夫人の地位か。あるいは、皇太子殿下との関係を隠すための隠れ蓑か。……どちらにせよ、私を選んだ理由が愛情でないことくらい分かっている」

「そんなこと、ありません……!」

 思わず声が大きくなった。
 喉が震える。胸が苦しい。

「わたしは、あなたを……」
「愛している、とでも言うつもりか?」

 かぶせるように言われ、アンリは言葉を失った。

 言うつもりだった。
 ちゃんと、そう言うつもりだった。

 昨夜は緊張でうまく言えなかったから、今朝こそはと思っていたのだ。

 求婚されたとき、信じられないくらいうれしかったこと。

薬草店の娘でしかない自分を、まっすぐ見てくれたことがどれほど救いだったか。

ずっと怖かったけれど、それでもこの人となら幸せになれるかもしれないと思えたこと。

 全部、伝えたかった。

 なのに。

 アンリの目の前で、アルファは薄く笑った。冷たい笑みだった。

「滑稽だな」
「……っ」
「君ほど器用な女なら、愛しているふりくらい簡単だろう。皇太子殿下に気に入られ、公爵家にも嫁ぎ、どちらに転んでも困らないようにしておく。実に賢い」

 違う。
 違う、違う、違う。

 頭の中で何度も否定の言葉が響くのに、声にならない。
 胸が締めつけられて、うまく息が吸えなかった。

 どうしてそんなふうに思われているのか。
 どうして、この人は最初から何も信じてくれていなかったのか。

 アルファは昨夜と同じ人だった。
 けれど、アンリが見ていたものは何だったのだろう。

「昨夜の式だけは、最後まで済ませた」
 アルファは淡々と続けた。

「公に恥をさらすわけにはいかなかったからな。だが、夫婦として振る舞うつもりはない。必要なら部屋は分けるし、社交の場でも最低限の体面だけは保とう。君もそれで困らないだろう」

「……困ります」
「何?」
「困ります……!」

 涙が、勝手に込み上げた。
 泣きたくなかった。こんな男の前で、すがるような顔などしたくなかった。それでも、目の奥が熱くなってしまう。

「わたしは、そのために結婚したわけではありません」
「では何のためだ」
「あなたが……あなたが、好きだったからです」

 言ってしまった瞬間、寝室がしんと静まり返った。

 もう遅い。
 こんな形で言いたかったわけじゃない。

 けれど、それがアンリの本心だった。
 見下されても、信じてもらえなくても、それだけは嘘ではなかった。

 アルファは、ほんの一瞬だけ黙った。

 アンリは愚かにも期待しかけた。

 もしかしたら。ほんの少しでも、届くかもしれないと。

 だが次に返ってきたのは、さらに鋭い言葉だった。

「そうやって、何人に同じことを言ってきた?」

 アンリの中で、何かが音を立てて崩れた。

 もう、だめだった。

 弁解も。願いも。愛情も。
 何を口にしても、この人には届かない。

 最初から決めていたのだ。

 アンリは皇太子の愛人で、自分を騙した女だと。
 その結論だけを抱えたまま、昨夜の式にも立ち、今こうして花嫁を裁いている。

 胸が酷く痛んだ。
 それなのに、不思議なくらい頭だけは冷えていく。

 ああ、そうか‥とアンリは思った。

 この人は、わたしを愛していなかったのではない。

 もっとひどい。

 最初から、一度も信じていなかったのだ。

 その事実のほうが、何よりも痛かった。

 アルファはアンリの返事を待たず、扉へ向かった。

「落ち着いたら侍女が来る。必要なものがあれば伝えろ」

「……旦那様」

 呼び止めた声は、驚くほど静かだった。

 自分でも、もう泣いていないことに気づく。

 アルファは振り返らないまま、足を止めた。

「わたしが何を言っても、信じてはくださらないのですね」

「信じるに値するものを、君は何も見せていない」

 それだけ言って、彼は部屋を出ていった。

 扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。

 アンリはしばらく動けなかった。

 目の前の花、昨夜脱がせてもらった手袋、鏡台の上に置かれた髪飾り。

どれも新しい花嫁のためのものなのに、全部がひどく空々しく見える。

 ゆっくりと、自分の左手を見た。

 薬指には、まだ昨日はめられたばかりの指輪がある。

 昨夜はこれを見て、何度も胸がいっぱいになった。

 母はもういない。

小さな薬草店の娘だった自分が、公爵の妻になるなんて。

怖くて、信じられなくて、それでも幸せになりたいと願った。

 その願いは、たった一晩で踏みにじられた。

 アンリは指輪の上からそっと手を握りしめた。
 ぎゅっと握っても、痛いのは指ではなかった。

 好きだった。
 本当に、好きだった。

 だからこんなにも苦しい。
 だからこんなにも、みじめだ。

 視界が滲む。
 けれど声を上げて泣くことだけはできなかった。

 泣いたところで、誰も信じてくれない。
 好きだと伝えても、届かなかった。
 ならもう、何をこぼしても同じだ。

 花嫁の朝に残ったのは、幸福ではなかった。

 ただ、胸の奥に深く残る、冷たい痛みだけだった。

わたしは、愛されていたわけではなかった。

 そう思った瞬間、アンリはたまらなく、孤独で、寂しかった。

あなたにおすすめの小説

三度裏切られた私が、四度目で「離婚」を選ぶまで

狛犬
恋愛
三度、夫に裏切られた。 一度目は信じた。 二度目は耐えた。 三度目は――すべてを失った。 そして私は、屋上から身を投げた。 ……はずだった。 目を覚ますと、そこは過去。 すべてが壊れる前の、まだ何も起きていない時間。 ――四度目の人生。 これまでの三度、私は同じ選択を繰り返し、 同じように裏切られ、すべてを失ってきた。 だから今度は、もう決めている。 「もう、陸翔はいらない」 愛していた。 けれど、もう疲れた。 今度こそ―― 自分を守るために、家族を守るために、 私は、自分から手を放す。 これは、三度裏切られた女が、 四度目の人生で「選び直す」物語。

ため息ひとつ――王宮に散る花びらのように

柴田はつみ
恋愛
「離縁を、お願いしたいのです」 笑顔で、震えずに、エレナはそう言った。 夫は言葉を失った。泣いてくれれば、怒ってくれれば、まだ受け止め方があった。しかしあの静けさは、エレナがもう十分に泣き終わった後の顔だと、ヴィクトルにはわかった。 幼なじみと結ばれた三年間。すれ違いは静かに始まり、深紅のドレスの令嬢によって加速した。ため息を飲み込み、完璧な微笑みを保ち続けた公爵夫人が、最後に選んだのは――。 王宮に散る花びらのような、夫婦の崩壊と再生の物語。

知らない結婚

鈴木葵
恋愛
親が決めた相手と11歳の時に結婚した伯爵令嬢、エマ。しかし16歳になっても、いまだに一度も夫に会った事がない。よほど妻に興味がないのか、例えそうだとしても社交界へデビューする日にはエスコートしてくれるはずだと思った。けれど他の女性をエスコートするからと断られてしまう。それに耐えかねて夫の領地まで会いに行けば、宿屋の軒先で女の人と揉めている夫とばったり出会ってしまい……。

片思いの貴方に何度も告白したけど断られ続けてきた

アリス
恋愛
幼馴染で学生の頃から、ずっと好きだった人。 高校生くらいから何十回も告白した。 全て「好きなの」 「ごめん、断る」 その繰り返しだった。 だけど彼は優しいから、時々、ご飯を食べに行ったり、デートはしてくれる。 紛らわしいと思う。 彼に好きな人がいるわけではない。 まだそれなら諦めがつく。 彼はカイル=クレシア23歳 イケメンでモテる。 私はアリア=ナターシャ20歳 普通で人には可愛い方だと言われた。 そんなある日 私が20歳になった時だった。 両親が見合い話を持ってきた。 最後の告白をしようと思った。 ダメなら見合いをすると言った。 その見合い相手に溺愛される。

冷たい王妃の生活

柴田はつみ
恋愛
大国セイラン王国と公爵領ファルネーゼ家の同盟のため、21歳の令嬢リディアは冷徹と噂される若き国王アレクシスと政略結婚する。 三年間、王妃として宮廷に仕えるも、愛されている実感は一度もなかった。 王の傍らには、いつも美貌の女魔導師ミレーネの姿があり、宮廷中では「王の愛妾」と囁かれていた。 孤独と誤解に耐え切れなくなったリディアは、ついに離縁を願い出る。 「わかった」――王は一言だけ告げ、三年の婚姻生活はあっけなく幕を閉じた。 自由の身となったリディアは、旅先で騎士や魔導師と交流し、少しずつ自分の世界を広げていくが、心の奥底で忘れられないのは初恋の相手であるアレクシス。 やがて王都で再会した二人は、宮廷の陰謀と誤解に再び翻弄される。 嫉妬、すれ違い、噂――三年越しの愛は果たして誓いとなるのか。

貴方が私を嫌う理由

柴田はつみ
恋愛
リリー――本名リリアーヌは、夫であるカイル侯爵から公然と冷遇されていた。 その関係はすでに修復不能なほどに歪み、夫婦としての実態は完全に失われている。 カイルは、彼女の類まれな美貌と、完璧すぎる立ち居振る舞いを「傲慢さの表れ」と決めつけ、意図的に距離を取った。リリーが何を語ろうとも、その声が届くことはない。 ――けれど、リリーの心が向いているのは、夫ではなかった。 幼馴染であり、次期公爵であるクリス。 二人は人目を忍び、密やかな逢瀬を重ねてきた。その愛情に、疑いの余地はなかった。少なくとも、リリーはそう信じていた。 長年にわたり、リリーはカイル侯爵家が抱える深刻な財政難を、誰にも気づかれぬよう支え続けていた。 実家の財力を水面下で用い、侯爵家の体裁と存続を守る――それはすべて、未来のクリスを守るためだった。 もし自分が、破綻した結婚を理由に離縁や醜聞を残せば。 クリスが公爵位を継ぐその時、彼の足を引く「過去」になってしまう。 だからリリーは、耐えた。 未亡人という立場に甘んじる未来すら覚悟しながら、沈黙を選んだ。 しかし、その献身は――最も愛する相手に、歪んだ形で届いてしまう。 クリスは、彼女の行動を別の意味で受け取っていた。 リリーが社交の場でカイルと並び、毅然とした態度を崩さぬ姿を見て、彼は思ってしまったのだ。 ――それは、形式的な夫婦関係を「完璧に保つ」ための努力。 ――愛する夫を守るための、健気な妻の姿なのだと。 真実を知らぬまま、クリスの胸に芽生えたのは、理解ではなく――諦めだった。

貴方なんて大嫌い

ララ愛
恋愛
婚約をして5年目でそろそろ結婚の準備の予定だったのに貴方は最近どこかの令嬢と いつも一緒で私の存在はなんだろう・・・2人はむつまじく愛し合っているとみんなが言っている それなら私はもういいです・・・貴方なんて大嫌い

「竣工おめでとうございます。施主はもう私ではないようなので」~建築家の妻を五年演じた私が離婚を決めたら、五年分の請求書をお渡しします~

まさき
恋愛
建築家の夫・蒼介を支えるため、自らのキャリアを捨てて五年。葉山澪は今日、離婚届にサインをもらった。 大学院時代、澪は蒼介と同じ建築家の卵だった。成績も評価も澪の方が高かった。それでも蒼介の「一緒にやろう」という言葉を信じ、彼の独立に全てを賭けた。事務所の実務、経理、クライアント対応——蒼介が設計だけに集中できるよう、澪は自分の図面を引くことをやめた。 三年目、蒼介は業界誌に「最も注目すべき若手建築家」として特集される。その記事に澪の名前はなかった。それでも澪は誇らしかった——四年目に、大手デベロッパーの敏腕プロジェクトマネージャー・桐嶋玲奈が現れるまでは。 玲奈と蒼介は打ち合わせのたびに盛り上がった。五年のブランクを抱える澪には、もう入り込む言葉がなかった。嫉妬も、訴えも、全て飲み込んだ。完璧な妻を演じ続けた。でも、もう十分だった。 家を出た澪は、大学時代の旧友の事務所に加わり、五年ぶりに設計と向き合う。最初は指が動かなかった。それでも、感覚は錆びていなかった。やがて澪が手がけた住宅が建築メディアに取り上げられ、業界に「葉山澪」の名前が静かに広がっていく。 一方、蒼介の事務所は澪の不在で混乱していた。澪が一人で回していた膨大な業務、澪が築いていたクライアントとの信頼——失って初めて、その大きさを知る。玲奈のプロジェクトにも重大なミスが発覚し、蒼介は初めて孤立する。業界の知人から「あの事務所の実務、奥さんがやってたんでしょう」と言われる日が来る。 後悔した蒼介は澪に連絡をとり、「愛している、戻ってきてほしい」と懇願する。澪の答えは静かで、明確だった。 「五年間、一度も私の名前を呼ばなかった人の言葉は、信じられません」 澪は蒼介に一枚の紙を渡す。金銭的な請求書ではない。五年間澪がやってきた全業務のリスト——蒼介の成功の、原価表だった。 そして澪が手がけた建物の竣工式。晴れた空の下、自分の名前が刻まれたプレートを見上げる。泣き終わった建築家の、静かで鮮やかな再生の物語。