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第七章 騎士団からの依頼
その依頼は、昼過ぎにやってきた。
午前中の客足がようやく途切れ、アンリが作業台の上を片づけていたときだった。
店の前に、重い足音が止まる。
からん、と鈴が鳴った。
「失礼する」
入ってきたのは騎士だった。
しかも一人ではない。
濡れた外套を肩にかけた男が二人、入口のところで軽く頭を下げている。
王都の見回り兵ではない。
鍛えられた体つきも、腰の剣も、上等な装備も、ひと目で分かった。
アンリは反射的に背筋を伸ばした。
「いらっしゃいませ。お怪我ですか?」
「いや。今日は診察ではなく依頼だ」
前に立った男が手袋を外しながら答えた。
三十前後だろうか。
きびきびした所作で、口調は簡潔だが乱暴ではない。
「薬を頼みたい」
「どのようなお薬でしょう」
「打撲、捻挫、切り傷。あとは、古傷の痛みに効くものも欲しい」
「数は?」
「かなり多い」
そこで男は暫く黙った。
そして‥‥
「公爵家付騎士団の者だ」
その一言で、アンリの指先がぴくりと止まった。
公爵家付騎士団。
つまり、アルファの騎士団だった。
胸の奥が一瞬で冷える。
けれど、アンリは顔には出さなかった。
「訓練でお怪我が増えたのですか」
「ああ。今週は強化期間でな」
「……そうですか」
強化期間。
あの人らしいと思ってしまった自分が悔しい。
きっと容赦のない訓練をさせているのだろう。自分の体にも他人の体にも、厳しい人だった。
アンリは作業台の上の紙を引き寄せた。
「症状の内訳を見せてください」
「話が早くて助かる」
男は一枚の紙を差し出した。
打撲十二名、捻挫五名、裂傷四名、古傷の痛み七名。
思った以上に多い。
「いつもの薬舗では足りないのですか」
「足りないし、効きも遅いと不満が出ている」
「騎士様はせっかちですから」
「その通りだ」
男はほんの少しだけ笑った。
「団長が特に効き目にうるさい」
「……団長」
「ああ。公爵閣下は『効かない薬は薬ではない』と言う方でな」
アンリは紙を見つめたまま黙った。
言いそうだと思った。
そういう人だった。
優しさを見せるときでさえ不器用で、でも仕事や剣のことになると妙にまっすぐで、厳しいことを平然と言う。
思い出したくもないのに、こういうところばかりはすぐに浮かんでしまう。
「作れますか」
男の問いに、アンリは顔を上げた。
断ることはできる。
けれど、その先にいるのは怪我をした騎士たちだ。
痛みで眠れない人や、腫れの引かない人がいるのなら、薬師として答えは決まっていた。
「作れます」
「助かる」
「ただし、条件があります」
男の目がわずかに細くなる。
「条件?」
「作り手の名前は伏せてください」
「……なぜだ」
もっともな疑問だった。
アンリは静かに言った。
「薬だけを届けていただきたいのです。誰が作ったかは、必要ありません」
「こちらとしては責任の所在をはっきりさせたい」
「問題があれば、わたしが責任を取ります。でも、名前は出さないでください」
男は黙り込んだ。
後ろの騎士が、何か言いたげに副長らしいその男を見る。
「副長」
「分かっている」
副長。
やはりそれなりの立場らしい。
彼はアンリをまっすぐ見たあと、低く言った。
「事情は聞かない」
「ありがとうございます」
「だが、効かなければ次はない」
「もちろんです」
アンリが答えると、男は小さくうなずいた。
「私はルスラン。副長を務めている」
「アンリです」
「知っている」
「……そうですか」
知っている。
それが店主としてなのか、公爵夫人だった女としてなのかは分からない。分からないが、今それを聞く気にはなれなかった。
アンリは紙を見ながら確認を続けた。
「打撲は肩と腕が多いですね」
「ああ」
「捻挫は足首」
「その通りだ」
「裂傷は医師を通していますか」
「医師の処置は済んでいる。だが治りが遅い」
「では、炎症を抑える軟膏と、熱を取る湿布を分けます」
「助かる」
「古傷の痛みは冷えると悪化します。温めてから塗るものを用意します」
「団長の肩にも効くか?」
「……肩?」
思わず聞き返してしまった。
ルスランは少しだけ眉を上げた。
「ご存じなかったか。公爵閣下、昔の傷が雨の日に痛むんだ」
「存じません」
嘘ではなかった。
そんな話は聞いたことがない。
聞かせてもらえるほど近くにいたつもりだったのに、知らなかった。
胸の奥が少しだけざわつく。
「では、肩にも使えるものを多めにください」
「……ほかの騎士の分として、ですね」
「そういうことにしておこう」
ルスランの言い方に、アンリは何も返さなかった。
そういうことにしておこう。
つまり、公爵本人も使う可能性があるということだ。
嫌だと思うべきなのに、薬の配合が先に頭に浮かんでしまう。
雨の日の古傷なら、熱を取るだけでは足りない。
血行を促すものを少し混ぜた方がいい。
「湿布薬は今日中に用意できます」
アンリは声を整えて言った。
「他は明日の昼までください」
「十分だ」
「ただ、効き目を見るために明日以降の状態も教えてください。配合を調整します」
「そこまでやるのか」
「必要ならやります」
ルスランはしばらくアンリを見ていたが、やがて低く笑った。
「噂より、ずっと職人だな」
「噂は薬を作りません」
「違いない」
話がまとまり、騎士たちは一度引き取った。
扉が閉まる。
静かになった店の中で、アンリはしばらくその場に立っていた。
「大丈夫ですか」
店の隅で控えていた護衛が声をかける。レオンが置いていった護衛だ。最初は鬱陶しいと思っていたのに、今はもう背景みたいに馴染んでいた。
「大丈夫よ」
「顔色が」
「少し驚いただけ」
本当にそれだけかは、自分でも分からない。
公爵家の騎士団。
アルファの名。
雨の日に痛む肩の古傷。
知りたくなかった。
けれど聞いてしまった以上、頭から離れない。
アンリは小さく息を吐いた。
「仕事よ」
そう自分に言い聞かせ、袖をまくった。
必要な薬草を棚から並べていく。
アルニカ、ヤナギの樹皮、消炎に使う根、熱を取る葉、筋をゆるめる実。
打撲用、捻挫用、裂傷用、古傷用。症状ごとに分け、量を量り、刻み、潰し、煎じる。
考えなくていい。
今は手順だけを追えばいい。
だが、薬を選ぶたびに思い出してしまう。
『効かない薬は薬ではない』
あの人なら本当にそう言う。
しかも真顔で。
そして、効くと分かれば誰より先に自分で試すだろう。そういう無茶をする人だった。
「……知らない」
誰に向けるでもなく呟いて、アンリはすり鉢を強く回した。
夕方になるころには、作業台の上に包みと瓶が並んだ。
湿布薬、痛み止めの塗り薬、裂傷用の軟膏、古傷用の温め薬。
必要数より少し多めに作ってある。
怪我人は大抵、無理をする。足りなくなるのが目に見えていた。
からん、と鈴が鳴った。
入ってきたのは、朝に噂話をしていた洗濯屋の娘だった。
アンリを見るなり、少し気まずそうな顔をする。
「あの……忙しい?」
「いいえ」
「お母さんの咳、前の薬ですごく楽になって。だからこれ、お礼」
差し出されたのは、まだ温かい焼き菓子の包みだった。
「兄が、店の前で騎士様見たって騒いでて……あ、でも変な意味じゃなくて」
「分かってるわ」
「ほんとに?」
「ええ」
娘はほっとしたように笑った。
「アンリさんって、やっぱりすごいね。あんな騎士団が薬を頼みに来るなんて」
「必要な人がいるだけよ」
「でも、ちゃんと効くって知られてるってことでしょ?」
その言い方に、アンリは少しだけ目を細めた。
噂も走る。
でも、こういう言葉も確かに広がっていくのかもしれない。
「ありがとう」
「ううん。じゃあ、邪魔しない」
娘が帰ったあと、アンリは焼き菓子の包みを見た。
あたたかかった。
少し前まで、面白半分で店を覗いていた人たちだ。
それでも今はこうして、ちゃんと薬の効き目を見てくれている。
それがほんの少しだけ、うれしかった。
日が傾くころ、ルスランが再び来た。
「約束より少し早いが」
「構いません。ちょうど終わりました」
アンリはカウンターの上に並べた薬を示した。
「湿布薬は熱のある腫れに。塗り薬は夜用です。裂傷にはこの軟膏。ただし、深い傷には使わないでください」
「分かった」
「古傷の痛みにはこれを。少し温めてから、布で当ててください」
「肩にも?」
「肩にも効きます」
言ってから、アンリは少しだけ目を伏せた。
ルスランはそれ以上何も言わなかった。
ただ、包みを受け取りながら低く言う。
「助かる」
「明日、効き目を聞かせてください」
「ああ。団長……いや、皆が何と言うかもな」
「薬のことだけ教えてください」
「分かっている。名前は出さない」
代金を置き、ルスランは一度だけアンリを見た。
「公爵閣下が効き目重視なのも分かる気がする」
「……そうですか」
「君の薬なら、あの人も黙るだろう」
それだけ言って、騎士たちは店を出ていった。
扉が閉まる。
急に静かになった店の中で、アンリはゆっくり椅子に腰を下ろした。
疲れていた。
腕も重いし、肩も張っている。
それでも、不思議と嫌な疲れではなかった。
薬が必要な人に渡った。
それだけだ。
相手が公爵家の騎士団でも、怪我人の痛みは同じ。そう思えば割り切れる。
あの人の近くへ、自分の薬が届く。
名前は伏せたまま。
顔も知られないまま。
けれど、薬だけは届く。
皮肉だった。
「……知らなくていい」
ぽつりと呟く。
アルファは知らなくていい。
誰が作った薬かも、どんな気持ちで配合したかも。
あの人が使うかどうかも、本当はどうでもいいはずだ。
怪我をした誰かが少しでも楽になればいいと、結局いつも通り願ってしまう。
それが悔しかった。
好きだった人のいる場所へ、仕事として手を伸ばした。
それは思っていたより苦い。
でも、少しだけ分かったこともある。
自分はもう、あの人に愛されるために薬を作るのではない。
信じてもらうために手を動かすのでもない。
必要な人がいるから作る。
そういう自分でいたい。
アンリは作業台の上に残った薬草を見た。
明日の分も準備しなければならない。
もう戻らない。
それでもあの人が知らない場所で、私はまだあの人の役に立ってしまう。
その事実だけが、胸の奥に静かで苦い痛みを残した。
午前中の客足がようやく途切れ、アンリが作業台の上を片づけていたときだった。
店の前に、重い足音が止まる。
からん、と鈴が鳴った。
「失礼する」
入ってきたのは騎士だった。
しかも一人ではない。
濡れた外套を肩にかけた男が二人、入口のところで軽く頭を下げている。
王都の見回り兵ではない。
鍛えられた体つきも、腰の剣も、上等な装備も、ひと目で分かった。
アンリは反射的に背筋を伸ばした。
「いらっしゃいませ。お怪我ですか?」
「いや。今日は診察ではなく依頼だ」
前に立った男が手袋を外しながら答えた。
三十前後だろうか。
きびきびした所作で、口調は簡潔だが乱暴ではない。
「薬を頼みたい」
「どのようなお薬でしょう」
「打撲、捻挫、切り傷。あとは、古傷の痛みに効くものも欲しい」
「数は?」
「かなり多い」
そこで男は暫く黙った。
そして‥‥
「公爵家付騎士団の者だ」
その一言で、アンリの指先がぴくりと止まった。
公爵家付騎士団。
つまり、アルファの騎士団だった。
胸の奥が一瞬で冷える。
けれど、アンリは顔には出さなかった。
「訓練でお怪我が増えたのですか」
「ああ。今週は強化期間でな」
「……そうですか」
強化期間。
あの人らしいと思ってしまった自分が悔しい。
きっと容赦のない訓練をさせているのだろう。自分の体にも他人の体にも、厳しい人だった。
アンリは作業台の上の紙を引き寄せた。
「症状の内訳を見せてください」
「話が早くて助かる」
男は一枚の紙を差し出した。
打撲十二名、捻挫五名、裂傷四名、古傷の痛み七名。
思った以上に多い。
「いつもの薬舗では足りないのですか」
「足りないし、効きも遅いと不満が出ている」
「騎士様はせっかちですから」
「その通りだ」
男はほんの少しだけ笑った。
「団長が特に効き目にうるさい」
「……団長」
「ああ。公爵閣下は『効かない薬は薬ではない』と言う方でな」
アンリは紙を見つめたまま黙った。
言いそうだと思った。
そういう人だった。
優しさを見せるときでさえ不器用で、でも仕事や剣のことになると妙にまっすぐで、厳しいことを平然と言う。
思い出したくもないのに、こういうところばかりはすぐに浮かんでしまう。
「作れますか」
男の問いに、アンリは顔を上げた。
断ることはできる。
けれど、その先にいるのは怪我をした騎士たちだ。
痛みで眠れない人や、腫れの引かない人がいるのなら、薬師として答えは決まっていた。
「作れます」
「助かる」
「ただし、条件があります」
男の目がわずかに細くなる。
「条件?」
「作り手の名前は伏せてください」
「……なぜだ」
もっともな疑問だった。
アンリは静かに言った。
「薬だけを届けていただきたいのです。誰が作ったかは、必要ありません」
「こちらとしては責任の所在をはっきりさせたい」
「問題があれば、わたしが責任を取ります。でも、名前は出さないでください」
男は黙り込んだ。
後ろの騎士が、何か言いたげに副長らしいその男を見る。
「副長」
「分かっている」
副長。
やはりそれなりの立場らしい。
彼はアンリをまっすぐ見たあと、低く言った。
「事情は聞かない」
「ありがとうございます」
「だが、効かなければ次はない」
「もちろんです」
アンリが答えると、男は小さくうなずいた。
「私はルスラン。副長を務めている」
「アンリです」
「知っている」
「……そうですか」
知っている。
それが店主としてなのか、公爵夫人だった女としてなのかは分からない。分からないが、今それを聞く気にはなれなかった。
アンリは紙を見ながら確認を続けた。
「打撲は肩と腕が多いですね」
「ああ」
「捻挫は足首」
「その通りだ」
「裂傷は医師を通していますか」
「医師の処置は済んでいる。だが治りが遅い」
「では、炎症を抑える軟膏と、熱を取る湿布を分けます」
「助かる」
「古傷の痛みは冷えると悪化します。温めてから塗るものを用意します」
「団長の肩にも効くか?」
「……肩?」
思わず聞き返してしまった。
ルスランは少しだけ眉を上げた。
「ご存じなかったか。公爵閣下、昔の傷が雨の日に痛むんだ」
「存じません」
嘘ではなかった。
そんな話は聞いたことがない。
聞かせてもらえるほど近くにいたつもりだったのに、知らなかった。
胸の奥が少しだけざわつく。
「では、肩にも使えるものを多めにください」
「……ほかの騎士の分として、ですね」
「そういうことにしておこう」
ルスランの言い方に、アンリは何も返さなかった。
そういうことにしておこう。
つまり、公爵本人も使う可能性があるということだ。
嫌だと思うべきなのに、薬の配合が先に頭に浮かんでしまう。
雨の日の古傷なら、熱を取るだけでは足りない。
血行を促すものを少し混ぜた方がいい。
「湿布薬は今日中に用意できます」
アンリは声を整えて言った。
「他は明日の昼までください」
「十分だ」
「ただ、効き目を見るために明日以降の状態も教えてください。配合を調整します」
「そこまでやるのか」
「必要ならやります」
ルスランはしばらくアンリを見ていたが、やがて低く笑った。
「噂より、ずっと職人だな」
「噂は薬を作りません」
「違いない」
話がまとまり、騎士たちは一度引き取った。
扉が閉まる。
静かになった店の中で、アンリはしばらくその場に立っていた。
「大丈夫ですか」
店の隅で控えていた護衛が声をかける。レオンが置いていった護衛だ。最初は鬱陶しいと思っていたのに、今はもう背景みたいに馴染んでいた。
「大丈夫よ」
「顔色が」
「少し驚いただけ」
本当にそれだけかは、自分でも分からない。
公爵家の騎士団。
アルファの名。
雨の日に痛む肩の古傷。
知りたくなかった。
けれど聞いてしまった以上、頭から離れない。
アンリは小さく息を吐いた。
「仕事よ」
そう自分に言い聞かせ、袖をまくった。
必要な薬草を棚から並べていく。
アルニカ、ヤナギの樹皮、消炎に使う根、熱を取る葉、筋をゆるめる実。
打撲用、捻挫用、裂傷用、古傷用。症状ごとに分け、量を量り、刻み、潰し、煎じる。
考えなくていい。
今は手順だけを追えばいい。
だが、薬を選ぶたびに思い出してしまう。
『効かない薬は薬ではない』
あの人なら本当にそう言う。
しかも真顔で。
そして、効くと分かれば誰より先に自分で試すだろう。そういう無茶をする人だった。
「……知らない」
誰に向けるでもなく呟いて、アンリはすり鉢を強く回した。
夕方になるころには、作業台の上に包みと瓶が並んだ。
湿布薬、痛み止めの塗り薬、裂傷用の軟膏、古傷用の温め薬。
必要数より少し多めに作ってある。
怪我人は大抵、無理をする。足りなくなるのが目に見えていた。
からん、と鈴が鳴った。
入ってきたのは、朝に噂話をしていた洗濯屋の娘だった。
アンリを見るなり、少し気まずそうな顔をする。
「あの……忙しい?」
「いいえ」
「お母さんの咳、前の薬ですごく楽になって。だからこれ、お礼」
差し出されたのは、まだ温かい焼き菓子の包みだった。
「兄が、店の前で騎士様見たって騒いでて……あ、でも変な意味じゃなくて」
「分かってるわ」
「ほんとに?」
「ええ」
娘はほっとしたように笑った。
「アンリさんって、やっぱりすごいね。あんな騎士団が薬を頼みに来るなんて」
「必要な人がいるだけよ」
「でも、ちゃんと効くって知られてるってことでしょ?」
その言い方に、アンリは少しだけ目を細めた。
噂も走る。
でも、こういう言葉も確かに広がっていくのかもしれない。
「ありがとう」
「ううん。じゃあ、邪魔しない」
娘が帰ったあと、アンリは焼き菓子の包みを見た。
あたたかかった。
少し前まで、面白半分で店を覗いていた人たちだ。
それでも今はこうして、ちゃんと薬の効き目を見てくれている。
それがほんの少しだけ、うれしかった。
日が傾くころ、ルスランが再び来た。
「約束より少し早いが」
「構いません。ちょうど終わりました」
アンリはカウンターの上に並べた薬を示した。
「湿布薬は熱のある腫れに。塗り薬は夜用です。裂傷にはこの軟膏。ただし、深い傷には使わないでください」
「分かった」
「古傷の痛みにはこれを。少し温めてから、布で当ててください」
「肩にも?」
「肩にも効きます」
言ってから、アンリは少しだけ目を伏せた。
ルスランはそれ以上何も言わなかった。
ただ、包みを受け取りながら低く言う。
「助かる」
「明日、効き目を聞かせてください」
「ああ。団長……いや、皆が何と言うかもな」
「薬のことだけ教えてください」
「分かっている。名前は出さない」
代金を置き、ルスランは一度だけアンリを見た。
「公爵閣下が効き目重視なのも分かる気がする」
「……そうですか」
「君の薬なら、あの人も黙るだろう」
それだけ言って、騎士たちは店を出ていった。
扉が閉まる。
急に静かになった店の中で、アンリはゆっくり椅子に腰を下ろした。
疲れていた。
腕も重いし、肩も張っている。
それでも、不思議と嫌な疲れではなかった。
薬が必要な人に渡った。
それだけだ。
相手が公爵家の騎士団でも、怪我人の痛みは同じ。そう思えば割り切れる。
あの人の近くへ、自分の薬が届く。
名前は伏せたまま。
顔も知られないまま。
けれど、薬だけは届く。
皮肉だった。
「……知らなくていい」
ぽつりと呟く。
アルファは知らなくていい。
誰が作った薬かも、どんな気持ちで配合したかも。
あの人が使うかどうかも、本当はどうでもいいはずだ。
怪我をした誰かが少しでも楽になればいいと、結局いつも通り願ってしまう。
それが悔しかった。
好きだった人のいる場所へ、仕事として手を伸ばした。
それは思っていたより苦い。
でも、少しだけ分かったこともある。
自分はもう、あの人に愛されるために薬を作るのではない。
信じてもらうために手を動かすのでもない。
必要な人がいるから作る。
そういう自分でいたい。
アンリは作業台の上に残った薬草を見た。
明日の分も準備しなければならない。
もう戻らない。
それでもあの人が知らない場所で、私はまだあの人の役に立ってしまう。
その事実だけが、胸の奥に静かで苦い痛みを残した。
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