結婚式の翌朝、夫に「皇太子の愛人だろう」と捨てられました――ですが私は、亡き国王の娘です

柴田はつみ

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第八章 遅すぎる違和感

 その薬は、腹立たしいほどよく効いた。

「団長、肩をお借りします」

 朝の訓練場で、ルスランがそう言ってアルファの肩へ湿布薬を当ててきた。
 昨夜から鈍く痛んでいた古傷だ。雨が近い日は、昔の傷が思い出したように熱を持つ。

「いらん」
「騎士団長が腕を上げるたびに顔をしかめていては困ります」
「しかめていない」
「皆そう言います」

 ルスランは平然と返した。
 昔からこういう男だ。遠慮があるようで、肝心なところでは全くない。

 アルファは舌打ちしたい気分のまま、渋々外套をずらした。
 冷たい薬が肩に当たる。

 その瞬間、ぴたりと熱が引いた気がした。

「……何だこれは」
「効くでしょう」
「妙だな」
「薬ですから」
「そういう意味ではない」

 アルファは眉を寄せた。

 冷やすだけではない。
 熱を取るのと同時に、筋の奥の張りまでやわらいでいく。即効性があるのに、無駄に刺激が強くない。かなり腕のいい薬師が作ったものだ。

 視線をずらすと、訓練場の端では捻挫した騎士が同じ薬を足首に巻かれていた。もう一人は打撲用の塗り薬を腕に擦り込まれている。見れば、皆の顔色が明らかに違った。

「昨日からとても楽です」
「腫れも引いてきました」
「これなら午後も動けそうです」

 口々にそんな声が上がる。

 アルファは黙ってその様子を見た。

 いつもの薬舗のものではない。
 あれほど効けば、誰でも分かる。

「どこから持ってきた」
「新しく頼んだ薬師です」
「名前は」
「それが‥‥」

 ルスランはそこで一瞬だけ言葉を切った。

 アルファはその間を見逃さなかった。

「言え」
「条件つきで引き受けてもらいました」
「条件?」
「作り手の名は伏せること、だそうです」
「ふざけているのか」

「効き目は本物です」
「名も明かせん相手の薬を使えと?」
「使ってみておられるでしょう」

 ルスランが淡々と言う。

 反論できなかった。
 実際、肩の痛みはさっきより明らかに引いている。

「怪しい者ではありません」
「なぜそう言い切れる」
「怪しい薬師なら、これほど丁寧に症状別の処方を分けません」

 そう言ってルスランは包みの中身を示した。

 打撲用、捻挫用、裂傷用、古傷用。すべて配合が違う。
しかも使用法まで細かく書かれている。

 几帳面だ。
 そして、効き目だけでなく使う側の無茶まで見越している。

「……腕は確かだな」
「ええ」
「値は」
「相場通りです。むしろ安い」
「ますます妙だ」

 名を伏せ、金も取りすぎず、薬だけはやけに確か。
 気に入らない条件ばかり揃っているのに、効き目のせいで切り捨てられない。

 アルファは肩を軽く回した。
 本当に痛みがやわらいでいる。悔しいほどに。

「団長」

 別の騎士が一礼して近づいてきた。

「王宮から使いが」
「今か」
「第一皇太子殿下がお呼びです」
「……分かった」

 アルファは肩の湿布を外しかけて、やめた。

 貼ったままでも動きに支障はない。

 むしろ、妙に神経を逆なでするこの違和感を持っていたかった。

 よく効く薬、名を隠す薬師、王宮からの呼び出し。

 嫌なものが、少しずつつながり始めている気がした。


 王宮の一室は、朝だというのに冷えていた。

 窓辺に立つレオンは振り返らなかった。

 第一皇太子として隙のない姿だが、背中だけで機嫌の悪さが分かる。

「お呼びと伺いました」
「来たか」

 それだけ言って、レオンはようやく振り向いた。

 涼やかな顔立ちに、まったく笑みがない。

 アルファは一礼したまま、内心で舌打ちした。
 用件はだいたい想像がつく。

「単刀直入に言う」

 レオンはまっすぐ言った。

「アンリに近づくな」

 やはり、と思った。
 だが予想していたはずなのに、その言葉は妙に胸に刺さった。

「……それは、殿下のご命令でしょうか」
「そう受け取ってもらって構わない」
「理由を伺っても」
「必要ない」

 アルファは顔を上げた。

「必要はあります。あの女はまだ私の妻です」
「妻?」

 レオンの目が冷えた。

「結婚式の翌朝に追い出しておいて、よくその言葉が使えるな」
「追い出してはおりません。実家へ戻っただけです」
「同じことだ」

 ぴしゃりと言い切られ、アルファの眉がきつく寄る。

「殿下こそ、ずいぶんとご執心のようだ」
「……何?」
「王都では前から噂になっていました」
「噂?」
「アンリを何度も王宮へ呼び寄せていたことも事実でしょう」

 そこまで言ったときだった。

 レオンの表情から、すっと何かが消えた。
 怒りの熱ではない。もっと冷たいものだ。

「お前は、まだそんなことを言っているのか」

 静かな声だった。
 だが静かすぎて、かえって嫌な重さがあった。

「事実を申し上げているだけです」

「違うな」

「何が」

「何も見えていない」

 アルファは一瞬、言葉に詰まった。

 それは怒鳴り声ではなかった。
 見下すのとも違う。
 あまりにもはっきりと、呆れられた声だった。

「殿下」
「アンリに近づくなと言った。これは忠告だ」
「……忠告?」
「もう、これ以上傷つけるな」

 その一言で、アルファの胸の奥がざらりとした。

 傷つけるな。
 そんな言い方をされる筋合いはない。
そう思うべきなのに、なぜかすぐには怒れなかった。

 今朝のアンリの顔が、ふいに浮かんだからだ。

 泣きそうだった。
 けれど途中から、妙に静かだった。
 怒りも泣き言もなく、ただ冷えた目でこちらを見ていた。

 あの顔を思い出すと、胸のどこかが落ち着かない。

「……殿下は、あの女の何をご存じなのですか」

 気づけば、そんなことを聞いていた。

 レオンは答えなかった。

 ただ、一瞬だけ視線を細める。
 
 アルファはその表情に、わずかな違和感を覚える。

 もし本当に恋仲なら。
 もしアンリを囲いたいだけなら。
 こんな顔をするだろうか。

 もっと別のものがある。
 そう感じるのに、正体がつかめない。

「……何も知らないまま、よくああも切り捨てられたものだな」

 レオンが低く言った。

 その言葉に、アルファの眉がぴくりと動く。

「殿下に、私たち夫婦の何がお分かりに」
「夫婦?」

 今度のレオンは、はっきりと怒りを滲ませた。

「その言葉を使う資格が、お前にあるとでも?」
「……」
「信じることもせず、事情を聞くこともせず、最初から疑うと決めていたのはお前だ」

 アルファは黙った。

 反論しようと思えば、いくらでもできるはずだった。
 噂があった。
王宮の使いも来ていた。
疑う理由は十分だった。

 そのはずなのに。

 レオンにそう言われた瞬間、なぜかセラの言葉がよみがえった。

 旦那様は、奥様を信じないと決めておられただけではありませんか。


「……いずれにせよ」

 アルファは声を整えた。

「アンリが王宮へ入ることになれば、噂はますます強まるだけです」
「お前がそれを言うのか」
「言います。あの女のためにも」
「今さら善人ぶるな」

 レオンの言葉は冷たかった。

「アンリがどこにいるか、誰のそばにいるかを決めるのは、お前ではない」
「殿下でもないでしょう」
「……その通りだ」

 短く返ったその声に、アルファは驚いた。

 否定されると思っていた。
 だがレオンはあっさり認めた。

「決めるのはアンリだ」
「でしたら、なおさら」
「だからこそ、お前は近づくなと言っている」

 レオンは一歩、アルファへ近づいた。

「今のお前に、あれの前に立つ資格はない」
「殿下」
「二度言わせるな」


 アルファは視線を逸らさなかった。
 だが胸の中では、別のざわめきが大きくなっていた。

 おかしい。

 レオンの態度は、恋敵のそれではない。

怒りもある。

 答えが見えないまま、嫌な違和感だけが積もっていく。

「失礼いたします」

 アルファはそれ以上何も言わず、一礼して部屋を出た。

 廊下へ出た瞬間、張りつめていた空気が少しだけほどける。
 だが胸の奥は、かえって重くなっていた。

 王宮の窓から入る風が、肩の湿布をわずかに揺らす。
 よく効く薬だ。熱を取るだけでなく、奥の痛みまで正確に拾ってくる。

 その感じが、妙に引っかかった。

 昨日からずっとそうだ。

 セラは「旦那様を好きだったように見えた」と言った。

 レオンは、あれ以上傷つけるなと言った。

 そして今、自分の肩には名も知らぬ薬師の薬が貼られている。

 その効き方が、どこか気に障るほど丁寧だった。

 まるで、無茶をする相手のことを知っているみたいに。

 アルファは足を止めた。

「……まさか」

 口に出した瞬間、自分でその考えを打ち消した。

 そんなはずがない。
 あり得ない。

 だが一度浮かんだ疑問は、簡単には消えなかった。

 アンリは、薬草店へ戻った。

 そして公爵家付騎士団には、名前を伏せた薬師が現れた。

 ただの偶然だと笑い飛ばすには、効きすぎる。

 アルファはゆっくり拳を握った。

 気づくには、遅すぎたのかもしれない。

 それでも今さらになって、胸の奥に小さく刺さった違和感だけが、どうしても消えてくれなかった。

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