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第十二章 母の形見
作業台の上に置いた小さな包みを、アンリはじっと見つめていた。
白い粉は、灯りの下で見てもほんのわずかだ。こんなものが本当に人を殺すのかと疑いたくなるほどの少ない量だった。
けれど、あの茶会で令嬢の顔色が変わっていくのを見た。
カップを落とし、椅子から崩れそうになる体を、周囲の令嬢たちが悲鳴まじりに支えた光景も、まだはっきり目に残っている。
ただの体調不良ではない。
もしこれが本当に銀青花なら、もう「嫌な噂がある」程度では済まない。
「……王宮」
ぽつりと漏れた言葉は、静かな店の中へ落ちた。
棚に並んだ薬瓶、乾燥棚に吊るした薬草、使い込んだ木の作業台。
全部、見慣れたものだ。母と二人で積み重ねてきた日々そのものだ。
本当なら、ここにいれば落ち着くはずだった。
なのに今夜は、どこか遠い。
その時だった。
店の扉が、強く叩かれた。
アンリの肩がびくりと揺れる。
夜に客が来ることはある。熱を出した子どものために薬を求める母親や、怪我人を抱えた近所の男たちが慌てて駆け込んでくることも珍しくない。
だが、そういう遠慮を含んだ叩き方ではなかった。
「……どなたですか」
緊張しながら問いかけると、返事はすぐに返ってきた。
「私だ」
低い声。
聞き間違えるはずがない。
「レオン殿下……?」
「開けろ」
強引なのに、乱暴には聞こえない。
アンリは思わず引き出しへ視線を落とす。
銀青花に似た粉を包んだ紙は、さっきしまったばかりだ。
今ここで見つかれば、たぶん全部持っていかれる。
でも、隠したところで、この人から何かを守りきれる気もしなかった。
アンリは小さく息を吸い、扉へ向かった。
鍵を外して開けた瞬間、夜気がひやりと頬を撫でる。
外套を羽織ったレオンが立っていた。
その後ろには護衛が二人、少し離れて控えている。王宮の人間が夜の薬草店の前に並んでいる。その光景だけで、日常から少しずつ足を踏み外していくような気持ちになった。
「何かございましたか」
平静を装ったつもりだった。
けれど……
レオンはアンリの顔を一度見て、それから店の奥へ視線を向けた。
「中へ入る」
「……はい」
断れる空気ではなかった。
レオンが中へ入り、護衛は扉の外に残る。
扉が閉まった。
薬草の匂いがする。
いつもなら落ち着く匂いだ。けれど今は、その匂いに守られている感じがしなかった。
レオンは作業台の前まで歩き、そこでようやくアンリを振り返った。
「茶会で何があった」
「‥‥」
アンリは少し黙った。
侯爵夫人がどこまで伝えたのか分からない。けれど、この人が何かを感じてここへ来たことだけは確かだ。
「令嬢が倒れました」
「……」
「茶と菓子に、変な苦みがありました」
「種類は」
「……銀青花に似ています」
その瞬間、レオンの目が変わった。
表情そのものは大きく動かない。
だが、空気が一段冷たくなったのが分かった。
「確かなのか」
「断定はできません。でも、似ています」
「それで十分だ」
その返しに、アンリは思わず眉を寄せた。
「十分って、何がですか」
「お前をここに置いておけない理由としてだ」
「え?」
レオンは短く言った。
「今夜のうちに王宮へ移る」
「そんな急に」
「急ぐ必要がある」
「でも、お店が」
「護衛を置く」
「そういうことじゃありません」
思ったより強い声が出た。
「どうしていつも、何も言わないまま決めるんですか」
「アンリ」
「殿下は何度もわたしを呼んで、噂になるようなことをして、それでも理由は何も教えない」
「……」
「今日だってそうです。危ないから来い、それだけでわたしが納得すると思っているんですか」
言い切ったあと、胸が痛む。
茶会で感じた恐怖。
王宮という言葉にまとわりつく不穏さ。
結婚式の翌朝からずっと飲み込んできた苛立ち。
レオンはすぐには答えなかった。
「母君が残したものがある」
やがて、低い声でそう言った。
「……お母さんの?」
「ああ」
「何を」
「それを見せるために来た」
「今まで見せなかったのに?」
「今しか見せられない」
ずるい、と思った。
また肝心なところを隠したままだ。
それなのに、その一言だけで心が大きく揺れてしまう。
アンリは無意識に胸元へ手をやった。
服の内側、肌に触れる場所に下げている小さな布袋。
母の形見の薬草袋だ。
薄い生成りの布に、青い花の小さな刺繍。
母が生きていた頃から、ずっとそばにあった。
熱を出した夜も。
初めて一人で客の相手をした日も。
結婚式の朝も。
不安になるたび、アンリはこの袋を握ってきた。
その薬草袋の端に、指先が引っかかった。
「……あれ?」
アンリは眉を寄せる。
いつもと感触が違う。
柔らかな香草だけではない。奥に、何か固いものがある。
「どうした」
「袋の中に……何か」
レオンの視線が落ちる。
アンリは作業台の前へ戻り、薬草袋をそっと手のひらに乗せた。
よく見ると、刺繍の裏側に近い縫い目が少しだけ緩んでいる。
今まで一度も気づかなかった。
大事にしすぎて、壊れるはずがないと思い込んでいたのかもしれない。
震える指で糸をつまむ。
ぷつり、と小さな音がして、袋の口が開いた。
乾いたラベンダーとローズマリーが、ぱらりと卓の上へこぼれる。
その奥に、銀色のものが小さく光った。
「鍵……?」
出てきたのは、ごく小さな銀の鍵だった。
それと一緒に、薄く折りたたまれた紙片が落ちる。
アンリの心臓が大きく鳴った。
震える指で紙片を拾い上げ、そっと開く。
そこに書かれていた字を見た瞬間、喉の奥が熱くなった。
母の字だった。
見間違えるはずがない。
薬草の札にも、仕入れの覚え書きにも、何度も見てきた字だ。
そこには、たった一行だけ記されていた。
困った時は、机の下を見なさい。
「机の下……」
思わず声が漏れる。
どこの机だろう。
薬草店の?
それとも、もっと別の場所の?
だが、母が鍵と一緒にこんなふうに隠していたのなら、ただの思い出ではない。何かを託したのだ。
レオンの表情が、わずかに変わった。
「見せろ」
アンリが紙片を差し出すと、レオンは目を走らせ、短く息を吐いた。
「……やはり」
「やはり?」
「母君が何か残しているなら、古い保管室だと思っていた」
「知っていたんですか」
「確信はなかった」
「でも、心当たりはあるのですね」
「ああ」
アンリは鍵を握りしめた。
小さな銀は、手の中でひどく冷たかった。
なのに、その冷たさが今は妙に頼もしくも感じる。
「行くぞ」
「今から?」
「夜の方が人目が少ない」
強引だ。
けれど今は、その強引さにすがりたい自分もいた。
自分ひとりで考えていたら、怖さばかりが大きくなって動けなくなっていたかもしれない。
「……分かりました」
短く答えると、レオンはそれ以上何も言わなかった。
アンリは急いで外套を羽織り、薬草袋と鍵、紙片を胸元へしまう。
振り返ると、見慣れた棚も、乾いた薬草も、いつもの店の姿のままだった。
でも、今夜は何かが違う。
ここから一歩出れば、もう前と同じではいられない気がした。
扉を開けると、夜の空気が頬に触れる。
王宮へ向かう馬車が、すでに待っていた。
アンリは一度だけ店を振り返った。
ここは自分の帰る場所だ。守りたい場所だ。
何が近づいているのかを知らなければならない。
王宮へ着いたのは、夜もだいぶ更けてからだった。
昼間に見た時よりも、夜の王宮はずっと静かで、ずっと冷たく見えた。
高い門の向こうに広がる石造りの建物は、灯りがともっていてもどこかよそよそしい。
人が暮らす場所というより、秘密や役目を何層にも積み重ねてきた場所そんなふうに思えた。
馬車を降りる時、アンリは無意識に胸元へ手をやった。
服の内側には、母の薬草袋
手の中には、小さな銀の鍵
ほんの少し前まで、あれはただの形見だった。
でも今は違う。母が何かを託していた証のように思えて、指先に力が入る。
「こっちだ」
先を歩くレオンが短く言う。
案内されたのは、王宮の表側ではなかった。
大広間も、客を迎える回廊も通らない。脇の廊下を曲がり、さらに人目の少ない区画へ入っていく。
壁に掛けられた灯りは最低限で、石の床に細く光を落としていた。
足音だけが静かに響く。
「こんな場所があったんですね」
「古い区画だ」
「今は使われていないんですか」
「表向きはな」
やがて、古い木の扉の前でレオンが立ち止まる。
控えていた年配の文官が一礼した。
「殿下」
「開けろ」
「かしこまりました」
鍵が回る音が、ひどく大きく聞こえた。
扉が開く。
中へ入った瞬間、アンリは足を止めた。
古い部屋だった。
広くはない。けれど倉庫のように雑然としてはいなかった。
壁際には低い棚があり、古い書類箱や布のかかった小さな調度が整然と置かれている。窓は小さく、外の光はほとんど入らない。その代わり、机の上の燭台が部屋の中央だけをぼんやり照らしていた。
古い紙の匂い。乾いた木の匂い。
それから、ほんのかすかに、薬草のような匂い。
錯覚かもしれない。
でもアンリには、その微かな香りがどうしても気になった。
「ここは……」
「母君が一時的に使っていた部屋だ」
レオンが言う。
「正式な居室ではない。人目を避けて書き物をする時だけ使っていた」
母が
アンリは部屋の中を見回した。
この机に向かっていたのだろうか。
この小さな窓から、何を見ていたのだろう。
薬草店で静かに薬を刻んでいた母しか知らない。だから、王宮の中にいた母を想像することが、まだうまくできない。
「紙片には、机の下とあったな」
レオンの声で我に返る。
「はい」
「なら、その通りにしろ」
アンリは机へ近づいた。
飾り気のない木の机だった。
天板には小さな傷がいくつもあり、使われていた年月を感じさせる。引き出しは三つ。取っ手は黒ずんだ真鍮で、派手さはない。
だが、よく見ると机の脚の内側に妙な金具があった。
「……これ」
アンリはしゃがみ込み、机の下をのぞく。
暗い。
だが灯りを近づけてもらうと、そこに小さな鍵穴があるのが分かった。普通に見ていても気づかないような位置だ。
「そんなところに」
思わず声が漏れる。
レオンは黙ったまま、燭台を少し寄せてくれた。
アンリは握っていた小さな銀の鍵を見下ろした。
大きさが合う。まるで最初からここへ差し込むために作られたみたいだった。
「アンリ」
「……はい」
「無理なら私がやる」
「いいえ」
アンリは首を振った。
これは母が自分へ残したものだ。
なら、最初に触れるのは自分でありたかった。
震える指で鍵を差し込む。
金属が触れ合う、小さな音。
それから、恐る恐るひねる。
かちり、と手応えがあった。
「開いた……」
その瞬間、机の下の板がわずかに浮いた。
そこに、母が最後に残した何かがある。
そう思った瞬間、怖さよりも知りたい気持ちの方が、少しだけ強くなっていた。
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