結婚式の翌朝、夫に「皇太子の愛人だろう」と捨てられました――ですが私は、亡き国王の娘です

柴田はつみ

文字の大きさ
14 / 18

第十四章 聞いてはいけない真実

 その夜、アンリはほとんど眠れなかった。

 与えられた部屋は広く、寝台も上等で、暖炉もある。寒くない、静かで、不自由もない。けれど、眠れるわけがなかった。

 胸の上には、母の薬草袋、枕元には、小さな銀の鍵。
 そして、布の包みから抜き取って持ち帰った「庇護対象の控え」が、何度も何度も頭の中で浮かぶ。

 母 マリエ
 女児一名

 その一文が、目を閉じるたびに胸へ刺さった。


 名前がない

 名前を持たないまま隠されていたことが、どうしても苦しかった。

 窓の外が少し明るくなり始めたころ、ようやく眠った気がした。けれど、そんなわずかな休みも、扉を叩く音ですぐに途切れる。

「アンリ様。お目覚めでしたら、殿下がお呼びです」

 ミアの控えめな声だった。

 アンリは寝台の上で目を覚まして、しばらく天井を見つめた。体は重い。

「……今、起きます」

 声は思ったより落ち着いていた。



 通されたのは、昨夜の保管室とは別の場所だった。

 古い書庫に似ている。けれど、そこよりもっと実務的で冷たい空気がある。壁際には鍵つきの棚が並び、机の上には分厚い台帳と書付の束が積まれていた。装飾は一つもなく、ただ「残すため」の部屋なのだと分かる。

「ここは?」
 アンリが尋ねると、レオンが短く答えた。
「薬庫に関する控えが集められている場所だ」
「……銀青花の」
「そうだ」

 朝の光はまだ弱く、小さな窓から差し込む日差しだけでは、足りない。文官が燭台を運び、机の上へ置いて一礼すると、すぐに下がった。

 レオンは一冊の台帳を開く。

「見ろ」

 アンリは机へ近づいた。

 紙面には整った字で、薬草名、量、受け渡し先、許可者の名が並んでいる。見慣れた薬草もあれば、名前だけしか知らない珍しいものもある。けれど、レオンが指で押さえた場所に目を落とした瞬間、アンリは驚いた。

 銀青花粉末 少量
 特別使用
 東棟

「東棟……」

 小さく読み上げる。

 その二文字だけで、昨夜の祈りの会の灯りと、甘い菓子の匂いがよみがえった。笑顔の奥に隠れていた冷たさを思い出す。

「名前はないんですね」
「ない」
 レオンが言う。
「場所だけだ」
「誰が使ったかは分からない」


 アンリは台帳をじっと見た。

 銀青花は、ただ珍しいだけではない。少量なら薬にもなり、多ければ毒にもなる。だから扱える者が限られるはずだ。なのに、残っているのは「東棟」の二文字だけ。

 あまりにも都合がいい。
 誰かを守るために、あえて曖昧にしたようにしか見えなかった。

「これだけでは足りない、という顔だな」
 レオンが言う。

 アンリは少し顔を上げた。

「はい」
「そうだろうな」
「東棟の誰が、何のために使ったのかまでは分からない」
「だが、王宮の外から手に入れたものではない可能性は高い」
「……」

 やはり、王宮なのだ。

 茶会の毒の気配も
 母の手帳も
 レオンの不自然な保護も

 少しずつばらばらだったものが、一本の線で近づいてくる。

 レオンはさらに別の書付を机へ置いた。

「これは閲覧と申請の控えだ」
「申請?」
「特別な薬草は、勝手に動かせない。王族本人、薬庫責任者、もしくはその名代だけだ」
「つまり」
「下働きの侍女が、思いつきで持ち出せるものではない」

 アンリは無意識に指先を握った。

 そこまで限定されているものが、あの茶会に出た。
子どものいたずらや、悪意だけで済む話ではない。

「じゃあ」
 
「かなり近い人間が関わっているんですね」
「そうなる」

 あまりにもはっきりした答えに、胸の奥がひやりと冷えた。

 王宮の中の、かなり近い誰か。
 それが誰なのかはまだ分からない。だが、遠い場所の敵よりもずっと厄介だということだけは、嫌でも分かった。


 その時、廊下の向こうで人の話し声がした。

 最初は、ただ通り過ぎるだけの会話かと思った。

 だが足音が止まり、扉のすぐ外で声が低く重なる。

 レオンが顔を上げる。

レオンは人差し指を口元へ運び、アンリをまっすぐ見た。

アンリは頷いた。


「……あの娘の件は、いつまで伏せるおつもりです」
「声を落とせ。ここで口にする話ではない」
「ですが、もう隠しきれません。殿下があれほど近くに置いておられるのですから」
「近くに置かねばならぬ事情がある」
「事情で済めばよろしいが。社交界では、すでに別の意味で見られている」

 アンリの背筋に冷たいものが走った。


 自分のことだと‥‥。

 レオンが扉へ向かおうと一歩踏み出す。
 けれど、その前に外の会話はさらに続いた。

「問題は、殿下があの娘に甘すぎることだ」
「黙れ」
「事実だろう。あれではまるで、ただの兄ではないように見える」
「だからこそ面倒なのだ。本人に罪はない」
「だが、公爵家との婚姻も壊れた」
「……」
「秘密を守るために娘が傷つくなど、本末転倒もいいところだ」

 頭の中で、何かが大きく鳴った気がした。

 ただの兄ではないように見える。
 本人に罪はない。
 公爵家との婚姻も壊れた。

 それはつまり、噂は本当に誤解だったということだ。
 レオンは兄。

 
 指先から力が抜けそうになる。

 結婚式の翌朝、アルファが向けた冷たい目が脳裏によみがえった。
 何も知らないまま、自分は否定すらうまくできなかった。理由を言えず、ただ見つめ返すことしかできなかった。

 そして‥‥あの一言だった。

 君を愛していると、本気で思っていたのか。

「もういい」

 レオンの低い声が落ちた。

 扉が開く。
 外にいた男たちは、顔をこわばらせて一礼した。宮内の役人だろう。アンリはとっさに目をそらした。見られたくなかった。今の顔を。

 足音が遠ざかっていく。
 扉が閉まり、部屋はまた静かになった。

 聞いてしまったものが、空気そのものを変えていた。

「……アンリ」

 レオンがこちらを振り返る。

 その顔を見た瞬間、どうしようもなく胸が痛くなった。

「どうして」
 声がかすれる。
「どうして、今まで言ってくれなかったんですか」

 問いは、自分でも驚くほど真っ直ぐに出た。

 レオンはすぐには答えなかった。
 だが、黙っているだけで答えの半分は分かる。守るために、きっと。

「お前に知らせれば」
 やがて絞り出すように言う。
「お前はもう、ただの娘ではいられなくなる」
「……」
「母君は、それを望まなかった」
「でも」

 アンリは一歩だけ後ろへ下がった。

「知らないままなら、何も言えません」
「アンリ」
「何も知らないまま疑われても、うまく否定もできない」
 
「そうやって守られていたなら、わたしは最初から、誰かに傷つけられても仕方のない場所にいたんですか」

 言いながら、自分の声が震えているのが分かった。

 責めたいわけではない。
 母を悪く言いたいわけでも、レオンだけを責めたいわけでもない。

 でも、悔しかった。

 何も持たないまま裁かれたことが。
 何も知らないまま、切り捨てられたことが。

 レオンは苦しそうに息を吐いた。

「仕方がないとは思わない」
「でも、起きました」
「……ああ」
「なら、同じです」

 部屋の中は静かだった。
 小さな窓の外では朝の光が少しずつ強くなっているのに、この部屋の中だけ時間が止まったみたいだった。

 

 けれど、今ここで目を逸らしたくなかった。

「わたしは」
 言葉を探しながら、はっきり口にする。
「もう、知らないまま傷つきたくありません」
「……」
「母が何を隠したのか。殿下が何を守ろうとしているのか。東棟で何が動いているのか」
 アンリはレオンを見上げた。
「全部は無理でも、せめて、わたし自身に関わることくらいは知りたいです」

 レオンは長く黙っていた。

 やがて、ほんのわずかに目を伏せる。

「分かった」
「本当に?」
「ああ。もうここまで来た以上、中途半端に伏せても意味がない」
「……」

 アンリは小さく息を吐いた。


 でも、これでようやく、自分の足元を自分の目で見られる気がした。


 知らないまま切られるよりは、ずっとましだ。

 アンリは台帳の上の「東棟」という二文字を見つめた。


 全部が一度に重なってきて、胸の奥で重たい塊になる。

 それでも、その重みをごまかしたくはなかった。

「次は何を見るんですか」
 アンリが静かに問うと、レオンは答えた。
「東棟の動きと、母君が残したもう一つの手がかりだ」
「もう一つ?」
「ああ」
「……やっぱり、まだ全部じゃないんですね」
「全部を一度に知れば、お前が持たない」

 今は、その言葉が前よりは誠実に聞こえた。

 

 アンリはそっと拳を握る。

 もう、知らないままではいたくない。
 

 その思いだけが、今までよりずっとはっきりしていた。

あなたにおすすめの小説

冷たい王妃の生活

柴田はつみ
恋愛
大国セイラン王国と公爵領ファルネーゼ家の同盟のため、21歳の令嬢リディアは冷徹と噂される若き国王アレクシスと政略結婚する。 三年間、王妃として宮廷に仕えるも、愛されている実感は一度もなかった。 王の傍らには、いつも美貌の女魔導師ミレーネの姿があり、宮廷中では「王の愛妾」と囁かれていた。 孤独と誤解に耐え切れなくなったリディアは、ついに離縁を願い出る。 「わかった」――王は一言だけ告げ、三年の婚姻生活はあっけなく幕を閉じた。 自由の身となったリディアは、旅先で騎士や魔導師と交流し、少しずつ自分の世界を広げていくが、心の奥底で忘れられないのは初恋の相手であるアレクシス。 やがて王都で再会した二人は、宮廷の陰謀と誤解に再び翻弄される。 嫉妬、すれ違い、噂――三年越しの愛は果たして誓いとなるのか。

貴方が私を嫌う理由

柴田はつみ
恋愛
リリー――本名リリアーヌは、夫であるカイル侯爵から公然と冷遇されていた。 その関係はすでに修復不能なほどに歪み、夫婦としての実態は完全に失われている。 カイルは、彼女の類まれな美貌と、完璧すぎる立ち居振る舞いを「傲慢さの表れ」と決めつけ、意図的に距離を取った。リリーが何を語ろうとも、その声が届くことはない。 ――けれど、リリーの心が向いているのは、夫ではなかった。 幼馴染であり、次期公爵であるクリス。 二人は人目を忍び、密やかな逢瀬を重ねてきた。その愛情に、疑いの余地はなかった。少なくとも、リリーはそう信じていた。 長年にわたり、リリーはカイル侯爵家が抱える深刻な財政難を、誰にも気づかれぬよう支え続けていた。 実家の財力を水面下で用い、侯爵家の体裁と存続を守る――それはすべて、未来のクリスを守るためだった。 もし自分が、破綻した結婚を理由に離縁や醜聞を残せば。 クリスが公爵位を継ぐその時、彼の足を引く「過去」になってしまう。 だからリリーは、耐えた。 未亡人という立場に甘んじる未来すら覚悟しながら、沈黙を選んだ。 しかし、その献身は――最も愛する相手に、歪んだ形で届いてしまう。 クリスは、彼女の行動を別の意味で受け取っていた。 リリーが社交の場でカイルと並び、毅然とした態度を崩さぬ姿を見て、彼は思ってしまったのだ。 ――それは、形式的な夫婦関係を「完璧に保つ」ための努力。 ――愛する夫を守るための、健気な妻の姿なのだと。 真実を知らぬまま、クリスの胸に芽生えたのは、理解ではなく――諦めだった。

【完結】恋人との子を我が家の跡取りにする? 冗談も大概にして下さいませ

水月 潮
恋愛
侯爵家令嬢アイリーン・エヴァンスは遠縁の伯爵家令息のシリル・マイソンと婚約している。 ある日、シリルの恋人と名乗る女性・エイダ・バーク男爵家令嬢がエヴァンス侯爵邸を訪れた。 なんでも彼の子供が出来たから、シリルと別れてくれとのこと。 アイリーンはそれを承諾し、二人を追い返そうとするが、シリルとエイダはこの子を侯爵家の跡取りにして、アイリーンは侯爵家から出て行けというとんでもないことを主張する。 ※設定は緩いので物語としてお楽しみ頂けたらと思います ☆HOTランキング20位(2021.6.21) 感謝です*.* HOTランキング5位(2021.6.22)

もう演じなくて結構です

梨丸
恋愛
侯爵令嬢セリーヌは最愛の婚約者が自分のことを愛していないことに気づく。 愛しの婚約者様、もう婚約者を演じなくて結構です。 11/5HOTランキング入りしました。ありがとうございます。   感想などいただけると、嬉しいです。 11/14 完結いたしました。 11/16 完結小説ランキング総合8位、恋愛部門4位ありがとうございます。

妹が私の婚約者と結婚しちゃったもんだから、懲らしめたいの。いいでしょ?

百谷シカ
恋愛
「すまない、シビル。お前が目覚めるとは思わなかったんだ」 あのあと私は、一命を取り留めてから3週間寝ていたらしいのよ。 で、起きたらびっくり。妹のマーシアが私の婚約者と結婚してたの。 そんな話ある? 「我がフォレット家はもう結婚しかないんだ。わかってくれ、シビル」 たしかにうちは没落間近の田舎貴族よ。 あなたもウェイン伯爵令嬢だって打ち明けたら微妙な顔したわよね? でも、だからって、国のために頑張った私を死んだ事にして結婚する? 「君の妹と、君の婚約者がね」 「そう。薄情でしょう?」 「ああ、由々しき事態だ。私になにをしてほしい?」 「ソーンダイク伯領を落として欲しいの」 イヴォン伯爵令息モーリス・ヨーク。 あのとき私が助けてあげたその命、ぜひ私のために燃やしてちょうだい。 ==================== (他「エブリスタ」様に投稿)

(完)そんなに妹が大事なの?と彼に言おうとしたら・・・

青空一夏
恋愛
デートのたびに、病弱な妹を優先する彼に文句を言おうとしたけれど・・・

冷徹公爵の誤解された花嫁

柴田はつみ
恋愛
片思いしていた冷徹公爵から求婚された令嬢。幸せの絶頂にあった彼女を打ち砕いたのは、舞踏会で耳にした「地味女…」という言葉だった。望まれぬ花嫁としての結婚に、彼女は一年だけ妻を務めた後、離縁する決意を固める。 冷たくも美しい公爵。誤解とすれ違いを繰り返す日々の中、令嬢は揺れる心を抑え込もうとするが――。 一年後、彼女が選ぶのは別れか、それとも永遠の契約か。

王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました

さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。 王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ 頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。 ゆるい設定です