結婚式の翌朝、夫に「皇太子の愛人だろう」と捨てられました――ですが私は、亡き国王の娘です

柴田はつみ

文字の大きさ
15 / 20

第十五章 信じて欲しかった人

 その夜、アンリはひとりだった。

 与えられた部屋は広く、静かで、何ひとつ不自由はない。
 厚い絨毯が敷かれ、寝台にはやわらかな寝具が重ねられている。暖炉には火が入り、窓辺には夜気を防ぐ重いカーテンまで引かれていた。

 落ち着けるかと問われれば、とても首を縦には振れなかった。

 アンリは窓辺に立ち、指先でカーテンの端をつまんだ。少しだけ開けると、夜の庭園が見える。灯りに照らされた白い石畳。風に揺れる木々の影。遠くの回廊を、夜番の兵が静かに歩いていた。

 王宮は眠らない。
 誰かが休んでいても、誰かは必ず起きている。そういう場所なのだと、こうして窓の外を見ているだけで分かる。

「……落ち着かない」

 小さく呟いて、アンリは窓から離れた。

 机の上には、昼に見た書類の控えが置かれている。
 母、マリエ。
 女児一名。

 その文字を見るだけで、胸の奥が重くなる。


 母がなぜ何も言わなかったのか、少しは分かる。王宮にいれば、自分はただの娘ではいられない。名前より先に立場がつき、誰かの都合で動かされる。母は、それを知っていたのだろう。

 でも‥‥

 アンリはゆっくり息を吐き、寝台の端に腰を下ろした。

 

 レオンが兄だった。
 王宮との噂は誤解だった。
 自分は何も知らされないまま、ただ守られていた。

 そこまで分かって、最初に胸へ浮かんだのは母のことでも、王宮のことでもない。

 アルファだった。

 結婚式の翌朝のことを、まだはっきり覚えている。

 差し込む朝の光
 ひどく静かな寝室
 整えられたままの寝具
 そして、窓辺に立つアルファの背中。

 金の光を受けた横顔は美しかった。けれど、その時の彼は、アンリが知っているどの表情よりも遠かった。

君を愛していると、本気で思っていたのか。

 あの一言が、今も消えない。

 怒鳴られたわけではない。
 物を投げられたわけでもない。
 

 感情のままに傷つけられたのではなく、見限られたのだと分かったから。

「聞いてほしかった……」

 ぽつりと漏れた声は、自分でも驚くほど弱かった。

 
 信じると言ってくれなくてもいい。せめて、問いただしてほしかった。

 どうして王宮から何度も呼ばれるのか
 どうしてあんな噂が立っているのか
 どうして自分が何も言えないのか

 聞かれたとしても、あの時のアンリはうまく答えられなかっただろう。レオンが兄だとも知らなかった。母が何を隠していたのかも分からなかった。

 それでも。

 答えられないことと、最初から切り捨てられることは違う。

 アンリは両手を膝の上で重ねた。

 アルファのことが嫌いなら、こんなに苦しくはなかったと思う。
 最初から冷たい人だったなら、ここまで深く傷つかなかっただろう。

 でも、違った。

 優しかったのだ。

 薬草の籠を、何も言わずに持ってくれたこと。
 薬草店の前で、閉店後の短い時間を惜しむように立ち話をしたこと。
 苦い薬茶ばかり飲む自分に、別の茶葉を持ってきてくれたこと。
 店先の鉢植えを見て、花の色ではなく土の乾き具合に気づいたこと。

 そういう、ささやかなことだった。

 公爵だから好きになったのではない。


 ちゃんとアンリを見てくれる人だと思った。
 


 だから、あの朝の一言が何よりつらかった。

「好きだったから、余計に……」

 

 
 信じてもらいたかった‥‥。



 扉が控えめに叩かれた。

「アンリ様。まだお休みでなければ、お茶をお持ちしてもよろしいでしょうか」

 ミアの声だった。

「……お願い」

 入ってきたミアは、湯気の立つ小さな盆を持っていた。やさしい香りがふわりと広がる。刺激の少ない薬草茶だ。眠りを妨げないよう、レモンバームと少しのカモミールだけで整えられている。

「勝手に淹れてしまいました」
「ありがとう」
「少しでも温まられた方がよろしいかと思って」

 アンリは茶器を受け取った。
 手のひらに伝わる温かさが、少しだけ張りつめたものをゆるめてくれる。

「……眠れなさそうなお顔でしたので」
 ミアが遠慮がちに言う。

 アンリは苦笑いした。

「顔に出てる?」
「少しだけ」

 その言い方が優しくて、アンリは少し肩の力を抜いた。

 ミアは余計なことを聞かない。その距離の取り方がありがたかった。

「王宮では、皆、こうして夜でも起きているの?」
 アンリが尋ねると、ミアは小さくうなずいた。
「必要があれば、はい。殿下もまだお休みになっていないようです」
「そう」

 あの人も眠っていない。
 それを聞いて、変な気持ちになる。安心したいわけでもないし、ただ、自分だけが揺らされているわけではないのだと分かって、少しだけ気持ちが楽になった。

「アンリ様」
 ミアが控えめに声を落とした。
「もし、お話ししたいことがございましたら……」
「……」
「聞くだけなら、できます」

 その一言に、胸の奥が少しだけほどける。

 誰かに全部を話したいわけではない。
 けれど、ずっと胸の中に閉じ込めていると、息が詰まりそうだった。

「今日ね」
 アンリは茶器を見つめたまま言った。
「母のことも、王宮のことも、たくさんわかって辛かった」
「はい」
「でも、一番つらいのはそこじゃなかったの」

 ミアは黙って聞いていた。
 余計な慰めを挟まないところが、今はありがたい。

「信じて欲しかった人に、信じてもらえなかったことなの」
 自分の口で言った瞬間、胸の奥の形のなかった痛みが、少しだけ解けた。
「それが、まだこんなに痛いんだって、今日やっと分かったの」

 ミアはしばらく何も言わなかった。
 やがて、静かに頭を下げる。

「……大切な方だったのですね」
「うん」
 アンリは微かな声で答えた。
「大切だった」

 過去形にしたことに、自分で少し傷つく。
 でも、今はそう言うしかなかった。

 ミアが下がったあと、部屋はまた静かになった。

 アンリは窓辺へ向かい、もう一度外を見た。
 夜の庭園は変わらず静かだ。王宮の灯りは消えず、遠くの回廊にはまだ人影が動く。

 母のことを知れば、すべての答えが出るのだと思っていた。
 なぜ王宮が自分を放っておかないのか。
 なぜレオンが何度も呼ぶのか。
 なぜ噂が消えなかったのか。

 でも、答えが一つ増えたところで、別の痛みが消えるわけではなかった。
 むしろ、はっきりした。

 アルファ‥‥。
 


 

 アンリはそっと胸元に触れた。

 薬草袋は、もう縫い目がほどけている。
 母が隠していた鍵は見つかった。自分の知らない始まりへ通じる扉も開いた。

 だったら自分の心に残ったこの痛みは、どうすればいいのだろう。

 すぐには答えは出ない。
 けれど、一つだけ確かなことがあった。

 見ないふりは、もうできない。

「……わたし、まだ好きなのかな」



 アンリは目を閉じた。





 

あなたにおすすめの小説

冷たい王妃の生活

柴田はつみ
恋愛
大国セイラン王国と公爵領ファルネーゼ家の同盟のため、21歳の令嬢リディアは冷徹と噂される若き国王アレクシスと政略結婚する。 三年間、王妃として宮廷に仕えるも、愛されている実感は一度もなかった。 王の傍らには、いつも美貌の女魔導師ミレーネの姿があり、宮廷中では「王の愛妾」と囁かれていた。 孤独と誤解に耐え切れなくなったリディアは、ついに離縁を願い出る。 「わかった」――王は一言だけ告げ、三年の婚姻生活はあっけなく幕を閉じた。 自由の身となったリディアは、旅先で騎士や魔導師と交流し、少しずつ自分の世界を広げていくが、心の奥底で忘れられないのは初恋の相手であるアレクシス。 やがて王都で再会した二人は、宮廷の陰謀と誤解に再び翻弄される。 嫉妬、すれ違い、噂――三年越しの愛は果たして誓いとなるのか。

危害を加えられたので予定よりも早く婚約を白紙撤回できました

しゃーりん
恋愛
階段から突き落とされて、目が覚めるといろんな記憶を失っていたアンジェリーナ。 自分のことも誰のことも覚えていない。 王太子殿下の婚約者であったことも忘れ、結婚式は来年なのに殿下には恋人がいるという。 聞くところによると、婚約は白紙撤回が前提だった。 なぜアンジェリーナが危害を加えられたのかはわからないが、それにより予定よりも早く婚約を白紙撤回することになったというお話です。

貴方が私を嫌う理由

柴田はつみ
恋愛
リリー――本名リリアーヌは、夫であるカイル侯爵から公然と冷遇されていた。 その関係はすでに修復不能なほどに歪み、夫婦としての実態は完全に失われている。 カイルは、彼女の類まれな美貌と、完璧すぎる立ち居振る舞いを「傲慢さの表れ」と決めつけ、意図的に距離を取った。リリーが何を語ろうとも、その声が届くことはない。 ――けれど、リリーの心が向いているのは、夫ではなかった。 幼馴染であり、次期公爵であるクリス。 二人は人目を忍び、密やかな逢瀬を重ねてきた。その愛情に、疑いの余地はなかった。少なくとも、リリーはそう信じていた。 長年にわたり、リリーはカイル侯爵家が抱える深刻な財政難を、誰にも気づかれぬよう支え続けていた。 実家の財力を水面下で用い、侯爵家の体裁と存続を守る――それはすべて、未来のクリスを守るためだった。 もし自分が、破綻した結婚を理由に離縁や醜聞を残せば。 クリスが公爵位を継ぐその時、彼の足を引く「過去」になってしまう。 だからリリーは、耐えた。 未亡人という立場に甘んじる未来すら覚悟しながら、沈黙を選んだ。 しかし、その献身は――最も愛する相手に、歪んだ形で届いてしまう。 クリスは、彼女の行動を別の意味で受け取っていた。 リリーが社交の場でカイルと並び、毅然とした態度を崩さぬ姿を見て、彼は思ってしまったのだ。 ――それは、形式的な夫婦関係を「完璧に保つ」ための努力。 ――愛する夫を守るための、健気な妻の姿なのだと。 真実を知らぬまま、クリスの胸に芽生えたのは、理解ではなく――諦めだった。

王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました

さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。 王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ 頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。 ゆるい設定です

そんなにその方が気になるなら、どうぞずっと一緒にいて下さい。私は二度とあなたとは関わりませんので……。

しげむろ ゆうき
恋愛
 男爵令嬢と仲良くする婚約者に、何度注意しても聞いてくれない  そして、ある日、婚約者のある言葉を聞き、私はつい言ってしまうのだった 全五話 ※ホラー無し

うまくいかない婚約

毛蟹
恋愛
エーデルワイスは、長年いがみ合っていた家門のと結婚が王命として決まっていた。 そのため、愛情をかけるだけ無駄と家族から愛されずに育てられた。 婚約者のトリスタンとの関係も悪かった。 トリスタンには、恋人でもある第三王女ビビアンがいた。 それでも、心の中で悪態をつきながら日々を過ごしていた。

実家に帰ったら平民の子供に家を乗っ取られていた!両親も言いなりで欲しい物を何でも買い与える。

佐藤 美奈
恋愛
リディア・ウィナードは上品で気高い公爵令嬢。現在16歳で学園で寮生活している。 そんな中、学園が夏休みに入り、久しぶりに生まれ育った故郷に帰ることに。リディアは尊敬する大好きな両親に会うのを楽しみにしていた。 しかし実家に帰ると家の様子がおかしい……?いつものように使用人達の出迎えがない。家に入ると正面に飾ってあったはずの大切な家族の肖像画がなくなっている。 不安な顔でリビングに入って行くと、知らない少女が高級なお菓子を行儀悪くガツガツ食べていた。 「私が好んで食べているスイーツをあんなに下品に……」 リディアの大好物でよく召し上がっているケーキにシュークリームにチョコレート。 幼く見えるので、おそらく年齢はリディアよりも少し年下だろう。驚いて思わず目を丸くしているとメイドに名前を呼ばれる。 平民に好き放題に家を引っかき回されて、遂にはリディアが変わり果てた姿で花と散る。

貴方なんて大嫌い

ララ愛
恋愛
婚約をして5年目でそろそろ結婚の準備の予定だったのに貴方は最近どこかの令嬢と いつも一緒で私の存在はなんだろう・・・2人はむつまじく愛し合っているとみんなが言っている それなら私はもういいです・・・貴方なんて大嫌い