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第十六章 疑いの出どころ
その夜、アルファはほとんど眠れなかった。
寝台に横になっても、目を閉じるたびに浮かぶのはアンリの顔だった。
王宮で見た、あの静かな目。泣いてもいない。怒鳴ってもいない。ただ、ひどく遠い目でこちらを見ていた。
聞いてほしかったです。
今はもう、あの時と同じ気持ちではいられません。
あの言葉が、何度も胸の奥に落ちてくる。
わかってる。
何ひとつ言い返せないほど。
アルファは深夜のうちに起き上がった。
暖炉の火はもう弱くなっていて、広い寝室は静まり返っている。結婚してから、いや、結婚する前から、この部屋はずっと整っていた。侍従が整え、灯りを管理し、季節に合わせて寝具を変える。何も不自由はない。
なのに今夜は、その整いすぎた空間がひどく冷たかった。
「……最低だな」
掠れた声が、誰もいない部屋に落ちる。
知らなかったからではない。
知ろうとしなかったからだ。
第一皇太子が何度もアンリを呼んでいた。
社交界でも面白がる声はあった。
噂は確かに、あった。
だが、それだけだ。
それだけで、どうして自分はあれほど簡単にアンリを疑えたのか。
怖かったのだ。
自分より高いところにいる男に、最初から勝てないのではないかと。
アンリの心の中に、自分の知らない場所があるのではないかと。
問いただして違うと言われるより、先に切ってしまった方が楽だった。
アルファは顔をしかめ、上着を羽織った。書斎へ行く気にはなれなかった。書類を開いても、きっと何も頭には入らない。今夜は軍務も政務も、ひどく遠い。
廊下へ出ると、夜番の侍従が驚いたように頭を下げた。
「旦那様」
「馬を」
「この時間に、ですか」
「用意しろ」
それ以上は言わせなかった。
夜明け前の王都は、昼とは別の町に見えた。
店の軒先は閉ざされ、石畳にはまだ昨日の冷えが残っている。空は薄い藍色で、遠くの空だけがわずかに明るくなり初めていた。パン屋の煙突から最初の煙が上がり、井戸へ向かう女たちの足音が小さく響く。
アルファは馬を降り、薬草店の前で足を止めた。
見慣れた店だ。
婚約してから、何度も訪れた。結婚したあとも、もう来てはいけないような気がしていたのに、それでも何度か足が向いた。
そのたびに、アンリは驚いたように目を丸くして、それから困ったように笑った。
その顔を思い出しただけで、胸が少し痛む。
店の扉はまだ閉まっていた。
当然だ。こんな時間に開いているはずがない。
それでも立ち尽くしていると、向かいの青果店の戸が開いた。がらりと板戸をずらした店主が、こちらを見る。アルファに気づいた瞬間、顔がはっきり険しくなった。
「……公爵様?」
歓迎の色は、どこにもなかった。
「店主は」
アルファが短く問うと、男は腕を組んだ。
「いないよ」
「王宮か」
「知ってるくせに聞くのか」
棘のある返事だった。
「……そうだ」
アルファは認めた。
「知っている」
「じゃあ何しに来た」
「少し聞きたいことがある」
「今さら?」
その一言が、予想以上に重かった。
今さら‥‥
まったくその通りだった。
男はしばらくアルファを見ていたが、やがて、
「何を聞きたい」
「アンリのことだ」
「何?」
「王宮との噂のことを」
青果店の主人の目が、さらに冷えた。
「ああ、あれか」
「ああ」
「あんた、本気で信じてたのか」
「……信じた」
答えた瞬間、自分の声の鈍さに腹が立った。
男は数秒黙ったあと、呆れたように笑った。
「馬鹿だな」
「……」
「いや、悪い。こっちも言いすぎた」
「いや」
アルファは首を振る。
「その通りだ」
男は少しだけ表情を緩めたが、すぐに通りの先へ視線をやった。
「王宮の使いは何度も来てたよ」
「……」
「でも、隠れて会いに来る男の足取りじゃなかった」
「どういう意味だ」
「毎回、正面から来てた。堂々と。あれで愛人どうこう言うなら、ずいぶん間抜けな話だ」
アルファは言葉を失った。
確かにそうだ。
第一皇太子が本当に人目を忍んで女に会うなら、あんな目立つやり方をするはずがない。
それなのに、自分はそこを考えなかった。
噂と、自分の不安に、簡単に引きずられた。
「アンリは何か言っていたか」
「言うわけないだろ」
店主は即答した。
「でも困ってたよ」
「困っていた?」
「ああ。王宮の馬車が見えるたび、嬉しそうな顔なんか一度もしなかった」
す
アルファの胸の奥が、鈍く痛んだ。
喜んでいたのではなく。
困っていた。
その事実だけで、今まで見ていた景色がひっくり返る。
通りの向こうから、今度はパン屋の女将が出てきた。かごを抱えたままアルファを見つけ、露骨に顔をしかめる。
「あら」
声に愛想はない。
「公爵様」
「少し聞きたい」
「今さら何を」
女将も同じことを言った。
アルファは返せなかった。
返せるはずもない。
女将はため息をつく。
「アンリちゃんはね、あんたの悪口なんて一度も言わなかったよ」
「……」
「帰ってきてからも、噂されても、見物に来る連中がいても、ただ仕事してた」
「そうか」
「そうだよ」
女将の目には、怒りがあった。
そして、それ以上に失望があった。
「王宮とのことだって、私らから見れば変な話だった」
「……」
「だってあの子、あの方の使いが来るたび、顔を曇らせてたもの」
「曇らせていた」
「そうだよ。困ってる顔だった。だから皆、妙だとは思ってた」
困っていた。
顔を曇らせていた。
アルファの中で、また一つ何かが崩れる。
それを見ていた人間が、こんな近くにいた。
なのに、自分は見ようとしなかった。
問えばよかったのだ。
どうして困っているのかと。
どうして何も言えないのかと。
それすらしなかった。
「それと」
女将が続ける。
「公爵様のこと、好きだったと思うよ」
「……っ」
アルファの指が、わずかに強ばった。
「見てりゃ分かる」
「……」
「こっちが恥ずかしくなるくらい、まっすぐだったよ」
女将はそう言ってから、少しだけ表情をやわらげた。
「だから余計に、見てられなかった」
アルファは返事ができなかった。
他人には分かっていた。
少なくとも、こうして店の外から見ていた人間には。
見ようとしなかったのは、自分だけだったのかもしれない。
店先に吊るされた乾燥薬草が、朝の風に揺れる。
かすかに鳴る葉擦れの音が妙に遠い。
アルファは扉を見つめた。
あの扉の向こうで、アンリは何度も笑っていた。困ったように、でも少し嬉しそうに。
その小さな好意を、自分は全部見落としていた。
「……ありがとう」
ようやくそう言うと、二人は少し驚いたような顔をした。
それでも女将は、最後に一つだけ言った。
「公爵様」
「何だ」
「今さらだよ」
「分かっている」
「分かってるなら、あの子をまた傷つけないで」
アルファはまっすぐうなずいた。
「……ああ」
それしか言えなかった。
屋敷へ戻る途中、アルファは馬上でずっと考えていた。
噂は、どこから出たのか。
第一皇太子が薬草店へ来る。
それを誰かが見る。
面白がって広める。
そこまでは分かる。
だが、あまりにも都合がよすぎた。
自分の耳に入る頃には、もう「皇太子と特別な関係があるらしい」という事になっていた。誰が最初に言い出したのか分からないまま、最も信じやすい方法をとられていた気がする。
偶然だろうか。
ただの社交界の悪意だろうか。
「……違うな」
小さく呟く。
今日、薬草店の前で聞いた話だけでも分かる。
アンリ自身は困っていた。喜んでいなかった。なら、その噂は本人の振る舞いから自然に生まれたものではない。
誰かが、そう見せたかったのだ。
アンリを。
そこまで考えたところで、アルファの顔つきが変わる。
屋敷に戻ると、まだ朝の早い時間だというのに、執事が驚いた顔で出迎えた。
「旦那様、もうお戻りで」
「ユリウスを呼べ」
「側近のユリウス様を、ですか」
「ああ。今すぐだ」
書斎へ入る。
窓の外はすっかり朝になっていた。薄い金色の光が机の上へ落ちる。その明るさが心を落ち着かせない。
ほどなくして、黒髪の青年が入ってきた。アルファの副官であり、古くから側近く仕えているユリウスだ。
「お呼びでしょうか」
「調べてほしいことがある」
「何を」
「王宮との噂の出どころだ」
「……奥様に関する?」
「ああ」
「遅いですね」
「分かっている」
「それでもやると」
「やる」
アルファは机に手をついた。
「社交界で最初に広めた家。茶会で繰り返し口にした者。東棟に出入りする令嬢たち。全部洗え」
「東棟まで?」
「必要だ」
「理由を伺っても」
「まだ推測だ」
アルファは低く言う。
「だが、ただの噂ではない気がする」
ユリウスは少しだけ黙り、それから一礼した。
「承知しました」
「表向きにはするな」
「もちろんです」
「それと」
アルファは言葉を継いだ。
「アンリに近づくな。報告もまだ上げるな」
「旦那様ご自身も?」
「……今はな」
今さら謝罪を口にしても、傷を抉るだけだろう。
そのくらいは分かっていた。
ユリウスが下がったあと、書斎には再び静けさが戻る。
アルファはゆっくり目を閉じた。
何もしないままではいられない。
アンリは言い訳をしなかった。
自分を責めもしなかった。
ただ、聞いてほしかったと言っただけだ。
その重みが、今になってようやく分かる。
アルファは窓の外を見た。
朝の光が庭を照らし始めている。何事もなかったような穏やかな朝だ。
でも、自分の中では、もう何も同じではなかった。
事実と、ようやく正面から向き合った時、胸の奥に残ったのは後悔だけではなかった。
遅すぎても、確かめなければならない。
誰が噂を作り、誰がアンリを傷つける流れを作ったのか。
扉の向こうには、もうアンリはいない。
もう簡単には手の届かない場所にいる。
それでも、やるべきことはある。
アルファは机の上で手を握りしめた。
あの日、自分はアンリを信じなかった。
だから今度は、自分の目で疑うべき相手を見つけなければならないと思った。
寝台に横になっても、目を閉じるたびに浮かぶのはアンリの顔だった。
王宮で見た、あの静かな目。泣いてもいない。怒鳴ってもいない。ただ、ひどく遠い目でこちらを見ていた。
聞いてほしかったです。
今はもう、あの時と同じ気持ちではいられません。
あの言葉が、何度も胸の奥に落ちてくる。
わかってる。
何ひとつ言い返せないほど。
アルファは深夜のうちに起き上がった。
暖炉の火はもう弱くなっていて、広い寝室は静まり返っている。結婚してから、いや、結婚する前から、この部屋はずっと整っていた。侍従が整え、灯りを管理し、季節に合わせて寝具を変える。何も不自由はない。
なのに今夜は、その整いすぎた空間がひどく冷たかった。
「……最低だな」
掠れた声が、誰もいない部屋に落ちる。
知らなかったからではない。
知ろうとしなかったからだ。
第一皇太子が何度もアンリを呼んでいた。
社交界でも面白がる声はあった。
噂は確かに、あった。
だが、それだけだ。
それだけで、どうして自分はあれほど簡単にアンリを疑えたのか。
怖かったのだ。
自分より高いところにいる男に、最初から勝てないのではないかと。
アンリの心の中に、自分の知らない場所があるのではないかと。
問いただして違うと言われるより、先に切ってしまった方が楽だった。
アルファは顔をしかめ、上着を羽織った。書斎へ行く気にはなれなかった。書類を開いても、きっと何も頭には入らない。今夜は軍務も政務も、ひどく遠い。
廊下へ出ると、夜番の侍従が驚いたように頭を下げた。
「旦那様」
「馬を」
「この時間に、ですか」
「用意しろ」
それ以上は言わせなかった。
夜明け前の王都は、昼とは別の町に見えた。
店の軒先は閉ざされ、石畳にはまだ昨日の冷えが残っている。空は薄い藍色で、遠くの空だけがわずかに明るくなり初めていた。パン屋の煙突から最初の煙が上がり、井戸へ向かう女たちの足音が小さく響く。
アルファは馬を降り、薬草店の前で足を止めた。
見慣れた店だ。
婚約してから、何度も訪れた。結婚したあとも、もう来てはいけないような気がしていたのに、それでも何度か足が向いた。
そのたびに、アンリは驚いたように目を丸くして、それから困ったように笑った。
その顔を思い出しただけで、胸が少し痛む。
店の扉はまだ閉まっていた。
当然だ。こんな時間に開いているはずがない。
それでも立ち尽くしていると、向かいの青果店の戸が開いた。がらりと板戸をずらした店主が、こちらを見る。アルファに気づいた瞬間、顔がはっきり険しくなった。
「……公爵様?」
歓迎の色は、どこにもなかった。
「店主は」
アルファが短く問うと、男は腕を組んだ。
「いないよ」
「王宮か」
「知ってるくせに聞くのか」
棘のある返事だった。
「……そうだ」
アルファは認めた。
「知っている」
「じゃあ何しに来た」
「少し聞きたいことがある」
「今さら?」
その一言が、予想以上に重かった。
今さら‥‥
まったくその通りだった。
男はしばらくアルファを見ていたが、やがて、
「何を聞きたい」
「アンリのことだ」
「何?」
「王宮との噂のことを」
青果店の主人の目が、さらに冷えた。
「ああ、あれか」
「ああ」
「あんた、本気で信じてたのか」
「……信じた」
答えた瞬間、自分の声の鈍さに腹が立った。
男は数秒黙ったあと、呆れたように笑った。
「馬鹿だな」
「……」
「いや、悪い。こっちも言いすぎた」
「いや」
アルファは首を振る。
「その通りだ」
男は少しだけ表情を緩めたが、すぐに通りの先へ視線をやった。
「王宮の使いは何度も来てたよ」
「……」
「でも、隠れて会いに来る男の足取りじゃなかった」
「どういう意味だ」
「毎回、正面から来てた。堂々と。あれで愛人どうこう言うなら、ずいぶん間抜けな話だ」
アルファは言葉を失った。
確かにそうだ。
第一皇太子が本当に人目を忍んで女に会うなら、あんな目立つやり方をするはずがない。
それなのに、自分はそこを考えなかった。
噂と、自分の不安に、簡単に引きずられた。
「アンリは何か言っていたか」
「言うわけないだろ」
店主は即答した。
「でも困ってたよ」
「困っていた?」
「ああ。王宮の馬車が見えるたび、嬉しそうな顔なんか一度もしなかった」
す
アルファの胸の奥が、鈍く痛んだ。
喜んでいたのではなく。
困っていた。
その事実だけで、今まで見ていた景色がひっくり返る。
通りの向こうから、今度はパン屋の女将が出てきた。かごを抱えたままアルファを見つけ、露骨に顔をしかめる。
「あら」
声に愛想はない。
「公爵様」
「少し聞きたい」
「今さら何を」
女将も同じことを言った。
アルファは返せなかった。
返せるはずもない。
女将はため息をつく。
「アンリちゃんはね、あんたの悪口なんて一度も言わなかったよ」
「……」
「帰ってきてからも、噂されても、見物に来る連中がいても、ただ仕事してた」
「そうか」
「そうだよ」
女将の目には、怒りがあった。
そして、それ以上に失望があった。
「王宮とのことだって、私らから見れば変な話だった」
「……」
「だってあの子、あの方の使いが来るたび、顔を曇らせてたもの」
「曇らせていた」
「そうだよ。困ってる顔だった。だから皆、妙だとは思ってた」
困っていた。
顔を曇らせていた。
アルファの中で、また一つ何かが崩れる。
それを見ていた人間が、こんな近くにいた。
なのに、自分は見ようとしなかった。
問えばよかったのだ。
どうして困っているのかと。
どうして何も言えないのかと。
それすらしなかった。
「それと」
女将が続ける。
「公爵様のこと、好きだったと思うよ」
「……っ」
アルファの指が、わずかに強ばった。
「見てりゃ分かる」
「……」
「こっちが恥ずかしくなるくらい、まっすぐだったよ」
女将はそう言ってから、少しだけ表情をやわらげた。
「だから余計に、見てられなかった」
アルファは返事ができなかった。
他人には分かっていた。
少なくとも、こうして店の外から見ていた人間には。
見ようとしなかったのは、自分だけだったのかもしれない。
店先に吊るされた乾燥薬草が、朝の風に揺れる。
かすかに鳴る葉擦れの音が妙に遠い。
アルファは扉を見つめた。
あの扉の向こうで、アンリは何度も笑っていた。困ったように、でも少し嬉しそうに。
その小さな好意を、自分は全部見落としていた。
「……ありがとう」
ようやくそう言うと、二人は少し驚いたような顔をした。
それでも女将は、最後に一つだけ言った。
「公爵様」
「何だ」
「今さらだよ」
「分かっている」
「分かってるなら、あの子をまた傷つけないで」
アルファはまっすぐうなずいた。
「……ああ」
それしか言えなかった。
屋敷へ戻る途中、アルファは馬上でずっと考えていた。
噂は、どこから出たのか。
第一皇太子が薬草店へ来る。
それを誰かが見る。
面白がって広める。
そこまでは分かる。
だが、あまりにも都合がよすぎた。
自分の耳に入る頃には、もう「皇太子と特別な関係があるらしい」という事になっていた。誰が最初に言い出したのか分からないまま、最も信じやすい方法をとられていた気がする。
偶然だろうか。
ただの社交界の悪意だろうか。
「……違うな」
小さく呟く。
今日、薬草店の前で聞いた話だけでも分かる。
アンリ自身は困っていた。喜んでいなかった。なら、その噂は本人の振る舞いから自然に生まれたものではない。
誰かが、そう見せたかったのだ。
アンリを。
そこまで考えたところで、アルファの顔つきが変わる。
屋敷に戻ると、まだ朝の早い時間だというのに、執事が驚いた顔で出迎えた。
「旦那様、もうお戻りで」
「ユリウスを呼べ」
「側近のユリウス様を、ですか」
「ああ。今すぐだ」
書斎へ入る。
窓の外はすっかり朝になっていた。薄い金色の光が机の上へ落ちる。その明るさが心を落ち着かせない。
ほどなくして、黒髪の青年が入ってきた。アルファの副官であり、古くから側近く仕えているユリウスだ。
「お呼びでしょうか」
「調べてほしいことがある」
「何を」
「王宮との噂の出どころだ」
「……奥様に関する?」
「ああ」
「遅いですね」
「分かっている」
「それでもやると」
「やる」
アルファは机に手をついた。
「社交界で最初に広めた家。茶会で繰り返し口にした者。東棟に出入りする令嬢たち。全部洗え」
「東棟まで?」
「必要だ」
「理由を伺っても」
「まだ推測だ」
アルファは低く言う。
「だが、ただの噂ではない気がする」
ユリウスは少しだけ黙り、それから一礼した。
「承知しました」
「表向きにはするな」
「もちろんです」
「それと」
アルファは言葉を継いだ。
「アンリに近づくな。報告もまだ上げるな」
「旦那様ご自身も?」
「……今はな」
今さら謝罪を口にしても、傷を抉るだけだろう。
そのくらいは分かっていた。
ユリウスが下がったあと、書斎には再び静けさが戻る。
アルファはゆっくり目を閉じた。
何もしないままではいられない。
アンリは言い訳をしなかった。
自分を責めもしなかった。
ただ、聞いてほしかったと言っただけだ。
その重みが、今になってようやく分かる。
アルファは窓の外を見た。
朝の光が庭を照らし始めている。何事もなかったような穏やかな朝だ。
でも、自分の中では、もう何も同じではなかった。
事実と、ようやく正面から向き合った時、胸の奥に残ったのは後悔だけではなかった。
遅すぎても、確かめなければならない。
誰が噂を作り、誰がアンリを傷つける流れを作ったのか。
扉の向こうには、もうアンリはいない。
もう簡単には手の届かない場所にいる。
それでも、やるべきことはある。
アルファは机の上で手を握りしめた。
あの日、自分はアンリを信じなかった。
だから今度は、自分の目で疑うべき相手を見つけなければならないと思った。
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