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第十八章 東棟からの招待
紙片を握ったまま、アンリはしばらく動けなかった。
血は消せません。
ですから、あなたはもう王宮と無縁ではいられません。
短い文だった。
けれど、その短さがかえって気味が悪い。余計な言葉がない分、まっすぐ胸の奥に入り込んでくる。
ついさっき会議室で聞いたばかりの言葉と、ほとんど同じ意味だった。
つまり、誰かが見ていたのだ。
自分が何を知り、何を選んだのかを。
「部屋へ戻るぞ」
低く言ったのはレオンだった。
「でも」
「ここで立ち話を続けるな」
その声に、いつもの冷たさとは少し違う緊張が混じっていた。アンリはそれ以上何も言えず、頷くしかなかった。
回廊を戻るあいだも、指先は冷えたままだった。
紙片はレオンが持っている。なのに、そのざらついた感触だけがいつまでも自分の手に残っている気がする。
部屋へ戻ると、ミアが慌てて立ち上がった。
「アンリ様」
「少し外してくれ」
レオンが言う。
「ですが」
「廊下には残れ。誰も通すな」
「は、はい」
ミアが一礼して下がる。扉が閉まると、部屋の中の静けさが急に重くなった。
レオンは紙片を机の上へ置いた。
それを灯りの下で確かめる横顔は、感情を抑えているように見えて、実際にはひどく張りつめていた。
「何か分かりますか」
アンリが小さく尋ねる。
レオンは紙の裏を返し、封筒の内側まで調べてから答えた。
「強い香はない。紙も特別なものではない」
「筆跡は?」
「意図的に崩してある」
やはり、簡単にはしっぽを出さない相手なのだろう。
アンリは椅子に腰を下ろした。
膝の上で手を重ねても、指先の冷たさは消えなかった。
「誰でしょう」
「まだ断定はできない」
「でも、王宮の中の人ですよね」
「その可能性が高い」
その答えを聞いた瞬間、胸の奥がさらに冷えた。
王宮の中。
この広い建物のどこかに、自分を見ている人間がいる。
何を知ったのか
どこまで知れば危険になるのか。
それを測るみたいに、静かにこちらを見ている誰か。
「……気味が悪いです」
思わずそう漏らすと、レオンの目がわずかにこちらへ向いた。
「当然だ」
「脅しているんでしょうか」
「半分はそうだろうな」
「半分?」
「もう半分は、線を引いている」
「線」
「お前はもう普通の外の人間ではない、と」
その言葉に、アンリは喉の奥が少しだけ苦くなるのを感じた。
普通ではない。
さっきから何度も、その言葉を別の形で突きつけられている。
王家の血
名前のない控え
王宮と無縁ではいられない娘
全部、本当なのかもしれない。
でも、本当だからといって、簡単に受け入れられるわけではなかった。
「今日は部屋から出るな」
レオンが言う。
「護衛を増やす」
「そこまで」
「そこまでする」
きっぱりと返された。
「お前は、相手にとってただの見物では済まない位置に来た」
アンリは唇を引き結んだ。
分かっている。
分かっているけれど、ただ守られているだけでは、胸の内側に溜まる息苦しさが消えない。
その時、扉が控えめに叩かれた。
「殿下」
ミアの声ではない。
年嵩の侍女の、よく通る声だった。
「何だ」
「東棟より、お届け物がございます」
部屋の空気が変わった。
アンリは思わず顔を上げる。
レオンの目が一瞬で冷えたのが分かった。
「入れ」
扉が開き、侍女が銀の盆を抱えて入ってくる。
その上には、上質な紙で作られた封書がひとつだけ置かれていた。白い封筒に、薄桃色の封蝋。押されているのは、東棟の上位女性たちが使う意匠入りの印だ。
「誰からですか」
アンリが問うと、侍女は一礼したまま答えた。
「ルシエンヌ侯爵令嬢様より」
「……ルシエンヌ様」
王太后の姪。
東棟で顔が利くとされる女。
名前を聞いただけで、昨日見た台帳の「東棟」という文字が頭に浮かぶ。
レオンはすぐには封書に触れなかった。
盆の上のそれを数秒見つめ、それから侍女へ視線を向ける。
「どこで受け取った」
「東棟付きの侍女より、回廊で」
「他に何か言われたか」
「今宵の祈りの会へのお誘いと」
「……祈りの会」
「はい」
レオンが封書を手に取り、封蝋を切った。
中の紙を開いた瞬間、眉間に薄く皺が寄る。
「読んでください」
アンリが言うと、レオンは一瞬だけ迷うような顔をした。
「自分で見る」
「……」
暫くして、レオンは手紙を渡してきた。
紙は厚く、香は強すぎず、けれど上品すぎるほど整っている。
そこに並ぶ文字は、まるで最初から読む者の感情を逆撫でするように美しかった。
今宵、東棟にて春の祈りの会を催します。
アンリ様にも、ぜひお顔をお見せいただきたく存じます。
王宮に縁ある方々へ、正式にご挨拶申し上げる良い機会となるでしょう。
お越しいただければ幸いです。
ルシエンヌ・ド・ヴァレル
「正式にご挨拶……」
アンリは小さく読み返した。
それだけ見れば、礼を尽くした招待状だ。
けれど、胸に落ちる感じはまるで違う。
これは歓迎ではない。
呼び出しだ。
言葉の一つ一つが、ひどく整っているくせに、その奥にあるものだけが露骨だった。
お前が何者なのか、皆で見よう。
そんな声が、紙の裏側から聞こえてくるような気がした。
「行くな」
レオンが即座に言った。
アンリは顔を上げる。
「でも」
「これは招待ではない。品定めだ」
「分かっています」
「分かっているならなおさらだ」
「でも、行かなければ別の方法で来ます」
レオンの目が細くなる。
「アンリ」
「わたしは、もうただ追われるだけなのは嫌です」
「……」
「東棟が関わっているなら、なおさら」
部屋が静まり返る。
さっき届いた脅し文。
銀青花の持ち出し。
そして、今こうしてすぐ届いた東棟からの招待。
偶然なはずがない。
向こうは、こちらが何かを掴み始めたことに気づいている。
「怖いですよ」
アンリは自分でも驚くほど落ち着いた声で言った。
「すごく怖いです」
「だったら」
「でも、だからって部屋の中で震えているだけでは、たぶん何も変わりません」
東棟へ行けば、笑顔で刺されるだろう。
何を知っているのか、どこまで分かっているのか、探られるだろう。
下手をすれば、また何かが起きるかもしれない。
それでも。
あの会議室で、自分の意思を口にしたばかりなのだ。
知らないまま傷つくのは嫌だと、自分で言ったばかりなのだ。
「向こうが呼ぶなら」
アンリは手紙を見下ろした。
「今度は、何も知らないまま行くわけじゃありません」
「アンリ」
「東棟をただ怖がるだけで終わりたくないんです」
レオンは黙った。
怒っているのか、止めたいのか、そのどちらもなのだろう。
暫くして、机の上に置かれた紙片さっきの脅し文へ一度だけ目をやり、深く息を吐いた。
「条件がある」
「はい」
「護衛をつける」
「分かりました」
「お前を一人にはしない」
「はい」
「口にするものには絶対に触るな。少しでも妙だと思ったら、その場で終わらせろ」
「……はい」
「そして」
レオンは少し言い淀み、それから低く言った。
「何があっても、無理に一人で立とうとするな」
その言葉に、アンリは少しだけ目を見開いた。
冷たい命令のように聞こえるのに、不思議とそこには別の感情も混じっている気がした。
兄として、なのか。
まだ分からない。
でも、少なくとも昨日までとは違う。
「……はい」
今度は、少しだけ素直に頷けた。
レオンは女官長エレノアへ伝令を出させ、すぐに準備が動き始めた。
ルシエンヌには「出席する」と返す。
ただし、表向きの従順さとは裏腹に、こちらも万全に整える。
女官長が選んだのは、淡い灰青のドレスだった。華やかすぎず、地味すぎない色。王宮で軽んじられず、しかし「飾り立てて来た」と言われない絶妙な線だと、エレノアは言った。
「東棟では、服も武器になります」
無表情なまま、エレノアはそう言った。
「目立ちすぎても負け、弱く見えても負けです」
「……難しいんですね」
「ええ。とても」
ミアが髪を整えてくれている間、アンリは鏡の中の自分を見つめていた。
見慣れた自分の顔のはずなのに、どこか遠い。
昨日の茶会で感じた毒の気配。
母の控え
兄だと知ったレオン
全部が一日二日のうちに押し寄せてきて、まだ心が追いついていない。
それでも、鏡の中の自分は思ったよりちゃんと前を向いていた。
「怖いですか」
ミアが小さく尋ねる。
「……うん」
アンリは正直に答えた。
「でも、行かない方がもっと怖いの」
ミアは何も言わなかった。
ただ、髪を結う手だけが少しだけやさしくなった。
夕刻が近づくと、王宮の空気はまた少し変わった。
東棟へ向かう回廊には、昼間より多くの女官が行き来している。香の匂いも、花の飾りも、どこか「整えられた場」が待っていることを知らせていた。
アンリは部屋を出る前に、もう一度だけ胸元へ手を当てた。
薬草袋は、いつもの場所にある。
その奥に、母の残した鍵の感触はもうない。けれど、母の気配だけはまだそこにあるような気がした。
扉の前で待っていたレオンが、アンリの姿を見る。
その視線が一瞬だけ止まった。
けれど、すぐにいつもの無表情に戻る。
「行くぞ」
「はい」
回廊を歩き出す。
王宮の奥へ行くほど、空気が静かに張っていく。
東棟はまだ見えない。
けれど、そこにある視線や思惑の気配だけは、もう十分に感じていた。
向こうが呼ぶなら、今度は逃げずに行く。
アンリは唇を引き結び、前を向いた。
胸の奥で揺れているのは、恐怖だけではなかった。
その奥に、まだ名前のついていない強い感情が、小さく灯り始めていた。
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