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第二十三章 狙われた薬草店
馬車が止まる前から、アンリは異変を感じていた。
まだ朝の空気は冷たく、王都の通りには薄い霧の名残が漂っている。いつもならこの時間、薬草店の前は静かだ。開店前の準備をする音か、向かいの青果店が板戸を開ける音くらいしか聞こえない。
けれど今日は違った。
人の気配が多い。
押し殺したざわめきがある。
そして何より、胸騒ぎする。
馬車が完全に止まるのも待てず、アンリは身を乗り出した。
「アンリ」
隣のレオンが低く言う。
「飛び出すな」
「でも」
「まず私が降りる」
そう言われても、落ち着いてなどいられなかった。
扉が開く。
冷たい外気が一気に流れ込み、アンリは外套の前をぎゅっと握った。
目に飛び込んできたのは、見慣れた薬草店の扉だった。
けれど、見慣れているはずのその扉が、今日はまるで別のものみたいに見えた。裏口の錠が壊されていたという報せは受けていた。実際に表から見ても、戸の立てつけが微妙にずれている。扉の下には木片が散り、入口脇の鉢植えが一つ倒れて土をこぼしていた。
胸の奥が、ひやりとした。
「アンリちゃん!」
駆け寄ってきたのは、向かいのパン屋の女将だった。頬をこわばらせ、でも泣くのをこらえているような顔をしている。
「ごめんねぇ、私が気づいた時にはもう……」
「いいえ」
アンリは首を振った。
「ありがとうございます。知らせてくださって」
「夜のうちだったみたいだよ。朝、店を開けようと思ったら裏手に人がいて……王宮の護衛さんが先に見てくれて」
「中には、まだ誰も入っていないな?」
レオンが確認すると、近くにいた護衛が一礼した。
「はい。異変に気づいてからは封鎖しております」
レオンがアンリを見る。
「入るぞ」
「はい」
短く答えたが、自分の声が少し震えているのが分かった。
この店は、ただの建物ではない。
母と生きた場所だ。
自分が戻る場所だ。
傷ついた心であっても、ここへ帰れば息がしやすくなる、そういう場所だった。
それが荒らされた。
ただその事実だけで、胸の奥が少し熱い。
店の中へ入った瞬間、アンリは足を止めた。
薬草の匂いは、まだ残っていた。
乾いた葉の匂い。根を刻んだ時の少し土っぽい匂い。棚の奥にしまってある樹皮の苦い香り。
けれど、その懐かしい匂いに混じって、木屑と土埃の匂いがあった。
荒らされている。
その現実が、目より先に匂いで分かった。
棚のいくつかは開け放たれ、引き出しは抜かれて床に落ちていた。帳面を入れていた箱は蓋が開き、中身が半分引きずり出されている。乾燥棚の下に置いていた籠も倒れ、束ねた薬草が床に散っていた。
「……ひどい」
思わず漏れた声は小さかったが、店の静けさの中では妙にはっきり響いた。
レオンは何も言わず、部屋の中を見渡す。
その視線は冷静だった。怒りも驚きも表には出さない。けれど、だから逆に、この人も今かなり怒っているのだと分かる。
「金目のものは?」
レオンが護衛へ問う。
「ほとんど手つかずです。レジ箱も、銀貨の入った小袋もそのまま」
「目的は金ではない」
「はい」
アンリはゆっくり店の中央へ歩いた。
靴の下で小さな木片が鳴る。
足元には、母が使っていた細い鉛筆が折れたまま落ちていた。アンリはそれを拾い上げ、そっと作業台の端に置く。
心臓がじわじわと重くなる。
金ではない。
最初から分かっていた。
でも、こうして目にすると、余計にはっきりする。
狙われたのは、この店そのものではない。
この中にある、何かだ。
作業台の引き出しを開ける。
中身は乱れているが、毒の気配を持ち帰った時に使った布や小瓶はそのままだ。次の引き出し。帳面。仕入れ表。古い注文控え。何冊かは床へ落ちていたが、なくなっているものまでは、まだ分からない。
「アンリ」
レオンが声をかける。
「一人で探すな」
「でも」
「探すなら、何を見ているか言え」
「……はい」
悔しいが、その通りだった。
気持ちばかりが先に走っている。こんな状態で闇雲に手をつければ、逆に大事なものを見落としかねない。
アンリは息を整えた。
「帳面と、母の手帳を確認したいです」
「場所は」
「手帳は寝室側の小机の一番上の引き出し。帳面はこの作業台の下と、裏の棚です」
「分かった」
レオンはすぐに護衛へ指示を飛ばす。二人が入口側を見張り、一人が裏の棚へ向かう。エレノアはいないが、代わりに王宮から来た文官が記録を取り始めていた。
アンリは机の方へ足を向けた。
母が晩年まで使っていた小さな机だ。
飾り気はない。薬草店に似合う、丈夫で実用的な木の机。帳面をつける時も、アンリの髪を結ってくれる時も、母はいつもここにいた。
その引き出しが、半分引き抜かれたまま傾いている。
アンリの胸がどくりと鳴った。
「……やめて」
誰に言うでもなく、小さく呟きながら引き出しを戻す。中を見る。紙束は乱れていたが、母の手帳はあった。表紙の擦り切れた革を見た瞬間、アンリは膝の力が少し抜けそうになった。
よかった。
残っている。
それだけで涙が出そうになる自分に、アンリは少し驚いた。
「見つかったか」
レオンが近づく。
「はい。手帳は……大丈夫です」
そう答えてから、アンリは自分の声が少し掠れていたことに気づいた。
レオンの目が一瞬だけやわらぐ。
だがそれもすぐ消えた。
「他は」
「裁縫箱を見ます」
「裁縫箱?」
「母は、大事なものを紙だけで残す人じゃありません」
「……」
「隠すなら、普段使っているものの方が自然です」
アンリはそう言って、部屋の隅の小さな棚へ向かった。
そこには、母の裁縫箱が置いてあった。
丸みのある木箱で、蓋の端が少し擦れている。アンリが子どもの頃、母の隣で糸巻きを転がして遊んだことがある。なくしてほしくない針だけは絶対に触らせてもらえなかった。
その箱も、蓋が半開きになっていた。
アンリはそっと持ち上げる。
思ったより軽い。
嫌な予感がした。
中には糸巻きや針包みが散らばっている。けれど、母がよく使っていた小さな鋏がない。いや、それ以上に底の重さが違う。
「……これ」
アンリは箱をひっくり返し、底板を指で叩いた。
こん、こん、と乾いた音。
でも一か所だけ、少し鈍い。
「二重底か」
レオンが言う。
「たぶん」
アンリの指先がわずかに震える。
昨夜の床板の下と同じだ。母はやはり、一つだけでは終わらせていなかった。
細い刃物を借り、底板の隙間へ差し込む。
少し力を入れると、板がわずかに持ち上がった。
その下に、薄く畳まれた布と、古い封書が入っていた。
「……!」
アンリは息を呑んだ。
布は絹らしく、触れるとするりと指の上を滑る。色は深い青。端には細かな銀糸の刺繍が施されていた。見覚えのない紋が縫い取られている。蔓草のような曲線の中央に、花と星を組み合わせた意匠。
王都の貴族の紋ではない。
それだけは、アンリにも分かった。
そして封書。
古びてはいるが、封はまだ切られていない。表には、見慣れない文字があった。
「何て書いてあるんですか」
アンリが問うと、レオンは布と封書を見て、ほんのわずかに眉を寄せた。
「今ここでは読むな」
「どうして」
「人が多い」
「でも」
「アンリ」
低く名前を呼ばれて、アンリは言葉を止めた。
周囲を見れば、護衛も文官もいる。もちろん全員が信用できないわけではない。けれど、昨夜からの流れを思えば、ここで無防備に中身を開くのは危険だということくらい、自分でも分かる。
「……分かりました」
レオンは短く頷いた。
「他に違和感は」
「まだあります」
アンリは裁縫箱の底をもう一度探った。
すると、小さな金具が指に触れる。
引き出してみると、それは青石のついた留め具だった。
昨夜、小箱で見たものと同じ系統の意匠だ。派手ではない。けれど、一目でこの国のものではないと分かる繊細さがある。
「これも、母の……」
「そうだろうな」
レオンの声は抑えられていたが、その下にある緊張は消えていなかった。
アンリは留め具を見つめた。
母は、何者だったのだろう。
昨夜の書類だけでは足りなかった。守られていたことも、隠されていたことも分かった。けれど、その理由の内容はまだぼやけたままだった。
全部が、母がただ王宮に囲われていた女ではなかったのだと告げている。
その時、店の外から誰かの声がした。
「アンリちゃん!」
パン屋の女将だった。
護衛が一度止める気配がしたが、アンリが「大丈夫です」と答えると、女将は遠慮がちに店先から顔をのぞかせた。
「ごめんねぇ、取り込み中なのは分かってるんだけど」
「どうしました?」
「あんたのお母さんのことで、前から少し気になってたことがあってね」
アンリの心臓が小さく跳ねる。
「気になってたこと?」
「うん。昔ね、何度か見たことがあるの」
女将は声をひそめた。
「この店を開く前、お母さんがときどき一人で、変わった布を触ってたのよ」
「布」
「青くて、少し銀が入ってるような……この辺じゃ見ない織り方だった」
「……」
「うちの亡くなった母がね、あれは王都のものじゃないって言ってたのを、急に思い出して」
アンリは手の中の布を見た。
やはり、そうなのだ。
母の過去は、この国の中だけでは終わらない。
「ありがとうございます」
アンリが言うと、女将は少しだけ泣きそうな顔で笑った。
「役に立つかは分からないけどね」
「立ちます」
アンリははっきりと言った。
「すごく」
女将が帰ったあと、店の中に再び静けさが戻る。
けれど、さっきまでとは違っていた。
荒らされたという痛みだけではない。ここにはまだ、母の残したものが息をしている。誰かに踏み荒らされても、全部は奪えなかった。
アンリは封書を胸元へ抱えた。
同時に、少しだけ熱くなった。
向こうは何かを消しに来た。
けれど、消しきれなかった。
それはきっと、自分にとって重大な意味を持つ。
「王宮へ戻るぞ」
レオンが言った。
「ここではこれ以上開くな」
「はい」
「今夜、別の場所で確認する」
「……分かりました」
アンリは最後にもう一度、店の中を見回した。
散らばった薬草
ずらされた箱
傾いた椅子
いつもの場所が傷ついているのを見るのはつらかった。
それでも、この店はまだここにある。
母と自分が生きた時間も、まだここに残っている。
そして、その奥に隠されていたものも。
アンリは壊された扉の向こうの朝の光を見た。
王宮へ連れ戻される時とは少し違う気持ちだった。
追われているだけではない。何かを拾い返している感覚が、ほんの少しだけ胸にあった。
馬車へ向かう前、アンリはもう一度だけ店を振り返る。
守りたい場所がある。
知らなかった頃には戻れなくても、その事実だけは変わらない。
だからこそ、消されたくなかった。
その思いを胸に、アンリは封書をしっかり抱え直した。
母の過去は、まだ終わっていない。
そしてたぶん自分の物語も、ここからまた大きく動き始めるのだと思った。
まだ朝の空気は冷たく、王都の通りには薄い霧の名残が漂っている。いつもならこの時間、薬草店の前は静かだ。開店前の準備をする音か、向かいの青果店が板戸を開ける音くらいしか聞こえない。
けれど今日は違った。
人の気配が多い。
押し殺したざわめきがある。
そして何より、胸騒ぎする。
馬車が完全に止まるのも待てず、アンリは身を乗り出した。
「アンリ」
隣のレオンが低く言う。
「飛び出すな」
「でも」
「まず私が降りる」
そう言われても、落ち着いてなどいられなかった。
扉が開く。
冷たい外気が一気に流れ込み、アンリは外套の前をぎゅっと握った。
目に飛び込んできたのは、見慣れた薬草店の扉だった。
けれど、見慣れているはずのその扉が、今日はまるで別のものみたいに見えた。裏口の錠が壊されていたという報せは受けていた。実際に表から見ても、戸の立てつけが微妙にずれている。扉の下には木片が散り、入口脇の鉢植えが一つ倒れて土をこぼしていた。
胸の奥が、ひやりとした。
「アンリちゃん!」
駆け寄ってきたのは、向かいのパン屋の女将だった。頬をこわばらせ、でも泣くのをこらえているような顔をしている。
「ごめんねぇ、私が気づいた時にはもう……」
「いいえ」
アンリは首を振った。
「ありがとうございます。知らせてくださって」
「夜のうちだったみたいだよ。朝、店を開けようと思ったら裏手に人がいて……王宮の護衛さんが先に見てくれて」
「中には、まだ誰も入っていないな?」
レオンが確認すると、近くにいた護衛が一礼した。
「はい。異変に気づいてからは封鎖しております」
レオンがアンリを見る。
「入るぞ」
「はい」
短く答えたが、自分の声が少し震えているのが分かった。
この店は、ただの建物ではない。
母と生きた場所だ。
自分が戻る場所だ。
傷ついた心であっても、ここへ帰れば息がしやすくなる、そういう場所だった。
それが荒らされた。
ただその事実だけで、胸の奥が少し熱い。
店の中へ入った瞬間、アンリは足を止めた。
薬草の匂いは、まだ残っていた。
乾いた葉の匂い。根を刻んだ時の少し土っぽい匂い。棚の奥にしまってある樹皮の苦い香り。
けれど、その懐かしい匂いに混じって、木屑と土埃の匂いがあった。
荒らされている。
その現実が、目より先に匂いで分かった。
棚のいくつかは開け放たれ、引き出しは抜かれて床に落ちていた。帳面を入れていた箱は蓋が開き、中身が半分引きずり出されている。乾燥棚の下に置いていた籠も倒れ、束ねた薬草が床に散っていた。
「……ひどい」
思わず漏れた声は小さかったが、店の静けさの中では妙にはっきり響いた。
レオンは何も言わず、部屋の中を見渡す。
その視線は冷静だった。怒りも驚きも表には出さない。けれど、だから逆に、この人も今かなり怒っているのだと分かる。
「金目のものは?」
レオンが護衛へ問う。
「ほとんど手つかずです。レジ箱も、銀貨の入った小袋もそのまま」
「目的は金ではない」
「はい」
アンリはゆっくり店の中央へ歩いた。
靴の下で小さな木片が鳴る。
足元には、母が使っていた細い鉛筆が折れたまま落ちていた。アンリはそれを拾い上げ、そっと作業台の端に置く。
心臓がじわじわと重くなる。
金ではない。
最初から分かっていた。
でも、こうして目にすると、余計にはっきりする。
狙われたのは、この店そのものではない。
この中にある、何かだ。
作業台の引き出しを開ける。
中身は乱れているが、毒の気配を持ち帰った時に使った布や小瓶はそのままだ。次の引き出し。帳面。仕入れ表。古い注文控え。何冊かは床へ落ちていたが、なくなっているものまでは、まだ分からない。
「アンリ」
レオンが声をかける。
「一人で探すな」
「でも」
「探すなら、何を見ているか言え」
「……はい」
悔しいが、その通りだった。
気持ちばかりが先に走っている。こんな状態で闇雲に手をつければ、逆に大事なものを見落としかねない。
アンリは息を整えた。
「帳面と、母の手帳を確認したいです」
「場所は」
「手帳は寝室側の小机の一番上の引き出し。帳面はこの作業台の下と、裏の棚です」
「分かった」
レオンはすぐに護衛へ指示を飛ばす。二人が入口側を見張り、一人が裏の棚へ向かう。エレノアはいないが、代わりに王宮から来た文官が記録を取り始めていた。
アンリは机の方へ足を向けた。
母が晩年まで使っていた小さな机だ。
飾り気はない。薬草店に似合う、丈夫で実用的な木の机。帳面をつける時も、アンリの髪を結ってくれる時も、母はいつもここにいた。
その引き出しが、半分引き抜かれたまま傾いている。
アンリの胸がどくりと鳴った。
「……やめて」
誰に言うでもなく、小さく呟きながら引き出しを戻す。中を見る。紙束は乱れていたが、母の手帳はあった。表紙の擦り切れた革を見た瞬間、アンリは膝の力が少し抜けそうになった。
よかった。
残っている。
それだけで涙が出そうになる自分に、アンリは少し驚いた。
「見つかったか」
レオンが近づく。
「はい。手帳は……大丈夫です」
そう答えてから、アンリは自分の声が少し掠れていたことに気づいた。
レオンの目が一瞬だけやわらぐ。
だがそれもすぐ消えた。
「他は」
「裁縫箱を見ます」
「裁縫箱?」
「母は、大事なものを紙だけで残す人じゃありません」
「……」
「隠すなら、普段使っているものの方が自然です」
アンリはそう言って、部屋の隅の小さな棚へ向かった。
そこには、母の裁縫箱が置いてあった。
丸みのある木箱で、蓋の端が少し擦れている。アンリが子どもの頃、母の隣で糸巻きを転がして遊んだことがある。なくしてほしくない針だけは絶対に触らせてもらえなかった。
その箱も、蓋が半開きになっていた。
アンリはそっと持ち上げる。
思ったより軽い。
嫌な予感がした。
中には糸巻きや針包みが散らばっている。けれど、母がよく使っていた小さな鋏がない。いや、それ以上に底の重さが違う。
「……これ」
アンリは箱をひっくり返し、底板を指で叩いた。
こん、こん、と乾いた音。
でも一か所だけ、少し鈍い。
「二重底か」
レオンが言う。
「たぶん」
アンリの指先がわずかに震える。
昨夜の床板の下と同じだ。母はやはり、一つだけでは終わらせていなかった。
細い刃物を借り、底板の隙間へ差し込む。
少し力を入れると、板がわずかに持ち上がった。
その下に、薄く畳まれた布と、古い封書が入っていた。
「……!」
アンリは息を呑んだ。
布は絹らしく、触れるとするりと指の上を滑る。色は深い青。端には細かな銀糸の刺繍が施されていた。見覚えのない紋が縫い取られている。蔓草のような曲線の中央に、花と星を組み合わせた意匠。
王都の貴族の紋ではない。
それだけは、アンリにも分かった。
そして封書。
古びてはいるが、封はまだ切られていない。表には、見慣れない文字があった。
「何て書いてあるんですか」
アンリが問うと、レオンは布と封書を見て、ほんのわずかに眉を寄せた。
「今ここでは読むな」
「どうして」
「人が多い」
「でも」
「アンリ」
低く名前を呼ばれて、アンリは言葉を止めた。
周囲を見れば、護衛も文官もいる。もちろん全員が信用できないわけではない。けれど、昨夜からの流れを思えば、ここで無防備に中身を開くのは危険だということくらい、自分でも分かる。
「……分かりました」
レオンは短く頷いた。
「他に違和感は」
「まだあります」
アンリは裁縫箱の底をもう一度探った。
すると、小さな金具が指に触れる。
引き出してみると、それは青石のついた留め具だった。
昨夜、小箱で見たものと同じ系統の意匠だ。派手ではない。けれど、一目でこの国のものではないと分かる繊細さがある。
「これも、母の……」
「そうだろうな」
レオンの声は抑えられていたが、その下にある緊張は消えていなかった。
アンリは留め具を見つめた。
母は、何者だったのだろう。
昨夜の書類だけでは足りなかった。守られていたことも、隠されていたことも分かった。けれど、その理由の内容はまだぼやけたままだった。
全部が、母がただ王宮に囲われていた女ではなかったのだと告げている。
その時、店の外から誰かの声がした。
「アンリちゃん!」
パン屋の女将だった。
護衛が一度止める気配がしたが、アンリが「大丈夫です」と答えると、女将は遠慮がちに店先から顔をのぞかせた。
「ごめんねぇ、取り込み中なのは分かってるんだけど」
「どうしました?」
「あんたのお母さんのことで、前から少し気になってたことがあってね」
アンリの心臓が小さく跳ねる。
「気になってたこと?」
「うん。昔ね、何度か見たことがあるの」
女将は声をひそめた。
「この店を開く前、お母さんがときどき一人で、変わった布を触ってたのよ」
「布」
「青くて、少し銀が入ってるような……この辺じゃ見ない織り方だった」
「……」
「うちの亡くなった母がね、あれは王都のものじゃないって言ってたのを、急に思い出して」
アンリは手の中の布を見た。
やはり、そうなのだ。
母の過去は、この国の中だけでは終わらない。
「ありがとうございます」
アンリが言うと、女将は少しだけ泣きそうな顔で笑った。
「役に立つかは分からないけどね」
「立ちます」
アンリははっきりと言った。
「すごく」
女将が帰ったあと、店の中に再び静けさが戻る。
けれど、さっきまでとは違っていた。
荒らされたという痛みだけではない。ここにはまだ、母の残したものが息をしている。誰かに踏み荒らされても、全部は奪えなかった。
アンリは封書を胸元へ抱えた。
同時に、少しだけ熱くなった。
向こうは何かを消しに来た。
けれど、消しきれなかった。
それはきっと、自分にとって重大な意味を持つ。
「王宮へ戻るぞ」
レオンが言った。
「ここではこれ以上開くな」
「はい」
「今夜、別の場所で確認する」
「……分かりました」
アンリは最後にもう一度、店の中を見回した。
散らばった薬草
ずらされた箱
傾いた椅子
いつもの場所が傷ついているのを見るのはつらかった。
それでも、この店はまだここにある。
母と自分が生きた時間も、まだここに残っている。
そして、その奥に隠されていたものも。
アンリは壊された扉の向こうの朝の光を見た。
王宮へ連れ戻される時とは少し違う気持ちだった。
追われているだけではない。何かを拾い返している感覚が、ほんの少しだけ胸にあった。
馬車へ向かう前、アンリはもう一度だけ店を振り返る。
守りたい場所がある。
知らなかった頃には戻れなくても、その事実だけは変わらない。
だからこそ、消されたくなかった。
その思いを胸に、アンリは封書をしっかり抱え直した。
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*全22話【執筆済み】です( .ˬ.)"
ホットランキング入りありがとうございます
2021/09/12
※頂いた感想欄にはネタバレが含まれていますので、ご覧の際にはお気をつけください!
2021/09/20