結婚式の翌朝、夫に「皇太子の愛人だろう」と捨てられました――ですが私は、亡き国王の娘です

柴田はつみ

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第二十六章 来られなかった兄

 部屋の空気が、ぴんと張りつめたまま動かなかった。

 隣国リュザリア王家の封が押された文書は、レオンの手の中にある。厚い紙。深い青の蝋。見慣れないはずなのに、机の上に置かれた青い布と並ぶと、不思議なくらい同じ場所のものだと分かった。

 アンリは無意識に背筋を伸ばしていた。

 母が王女だった。
 その事実を知ったばかりだというのに、今度は母の生まれた国から文が来る。

 頭が追いつかない。
 けれど、目を逸らしたくはなかった。

「開けるぞ」

 レオンが短く言った。

 誰も異を唱えない。
 蝋が割られる小さな音だけが、部屋の静けさに落ちた。

 中から取り出された紙は二枚だった。
 一枚は正式な国書の形式らしく、文面も硬い。もう一枚は少し簡素で、けれど筆圧の強い、個人的な文のように見えた。

 レオンはまず最初の一枚に目を通し、すぐにバルドへ渡した。
 それから二枚目を見て、ほんのわずかに眉を寄せる。

「……イレーネ」
「はい」
「こちらを読めるな」
「読めます」

 レオンは紙を差し出した。

 イレーネは両手で受け取り、一度だけ深く息を吸った。
 その仕草だけで、この文がただの形式的なものではないのだと分かった。

「読んでよろしいでしょうか」
「お願いします」
 アンリが言うと、イレーネは静かに頷いた。

「亡き妹マリエの娘、アンリ殿へ」

 アンリは息を止めた。

 亡き妹。
 その呼び方だけで、書いた相手が誰なのかはっきりする。

「私は長く、そなたに会うことはなかった。会っては、ならないと自分に言い聞かせていたからだ。」

 イレーネの声は静かだった。
 けれど、読み上げられる言葉はまっすぐ胸に入ってくる。

「マリエは生前、繰り返し私に願った。
 あの子を迎えに来ないでほしい。
 王家の名で囲わないでほしい。
 この国の娘としてではなく、ただの娘として生きられる間は、どうか静かに生かしてやってほしい、と」

 アンリは膝の上で手を握りしめた。


 母らしい、とすぐに思った。

 あの人は、何でも自分で抱え込む人だった。
 けれど、本当に譲れないことだけは、静かに譲らない人だった。

 アンリにとって母は、王女ではなかった。
 薬草店で生きた、少し厳しくて優しい母だった。

 だからきっと、その願いも王女としてではなく、母として書いたのだろう。

「私は兄として、すぐにでもそなたを見たかった。
 だが国を継いだばかりの身で軽々しく動けば、そなたを静かに生かすどころか、争いの中心へ引きずり出すことになる」

 イレーネの声が少しだけ低くなる。

「そなたがこの国で穏やかに暮らせるなら、それがよいと。
 マリエとの約束を守ることが、兄としても王としても正しいのだと、そう信じて見守ってきた」

 アンリは目を伏せた。


 見捨てたのではなかった。

 それが本当に正しかったのかは分からない。
 母の願いの上にあったのなら、簡単に責めることはできなかった。

「……お母さん」
 思わず、小さく呟く。

 母は最後まで、自分を王家へ戻したくなかった。
 迎えに来られることすら望まなかった。

 それは、アンリに王女としての価値がないと思ったからではない。
 逆だ。価値があるからこそ、そこへ戻せば奪われるものが多いと知っていたからだ。

 イレーネはさらに読み進める。

「だが今、毒、脅し、文書の探索、そなたが静かに暮らすための条件はすでに失われたと聞いた」

 部屋の空気がまた変わる。

 アンリは顔を上げた。

 知っているのだ。
 向こうはもう、こちらで何が起きているのか知っている。

「であるならば、私はもはや兄としての約束を守るより、王として、そして伯父として動かねばならぬ」

 

 その言葉に、アンリの胸が強く鳴った。

 

 あまりに遠い存在のはずなのに、その呼び方だけは妙に生々しかった。

「マリエは、そなたの心が強いほど傷つく子だと書き残した。
 その言葉を、今ようやく痛いほど理解している。
 もう会わない訳にはいかない。」

 読み上げるイレーネの声が、わずかに震えた。

 部屋の中は静まり返っている。
 燭台の火が揺れ、机の上の青い布にやわらかな影を落としていた。

「そなたが望まぬなら、王家の名で囲うつもりはない。
 だが、そなたが狙われている今、無関心を装うことだけはもはやできぬ。
 近く正式な国書とともに、この国の王家へ面会を求める。
 その上で、そなた自身の意思を聞きたい。
 それが、今の私にできる最低限の償いであり、兄としての務めだ」

 そこでイレーネは一度読み上げるのをやめた。

 最後の一文へ目を落とし、小さく息を吸ってから、静かに続ける。

「来るのが遅すぎたことを、まずは詫びる。
 マリエの兄、リュザリア国王アルヴェイン」

 読み終えたあとも、しばらく誰も口を開かなかった。

 アンリは動けなかった。

 来るのが遅すぎた。
 その一言が、思った以上に胸に刺さった。

 責めたいわけではない。
 でも、遅かったのは本当だ。母はもういない。自分はもう、何も知らないまま結婚して、疑われて、傷ついたあとだ。

 それでも。

 この文からは、都合よく姪を引き取りに来る王の匂いがしなかった。
 来なかった理由を言い訳にせず、遅れたことをまず詫びている。その書き方だけで、母がこの人を兄として信じていた理由が少しだけ分かる気がした。

「正式な国書の方には」
 バルドが低く言う。
「リュザリア国王陛下が、亡き第二王女マリエ殿下の娘に関する確認と、先の約定の履行について、正式に話し合いを求めるとあります」
「履行……」
 アンリが小さく繰り返す。

「つまり」
 レオンが言う。
「向こうは誓約の文を、今も有効なものとして扱っている」
「では」
「伯父君は、母君との約束を捨てていたわけではない」
 レオンの声は静かだった。
「ただ、動けなかった」

 アンリはゆっくり息を吐いた。

 動かなかったのではなく。
 動けなかった。

 それは、母の願いがあったから。
 そして、自国を継いだばかりで、軽々しく他国へ手を伸ばせない立場だったから。

 そのうえで、今になって来る。

 理由ははっきりしていた。

 もう、自分が静かに生きていられる状態ではなくなったからだ。

「……今くる理由が、分かりました」
 アンリはそう言った。

 バルドが頷く。

「ええ」
「お母さんとの約束を破ってでも、来るしかなくなった」
「その通りです」
 イレーネが答えた。
「マリエ様が最も恐れていたのは、アンリ様が王家の名で縛られることでした。ですが今は、その前に命と立場そのものが狙われている」
「……」
「だから、陛下ももう黙っては、いられないのです」

 アンリは机の上の母の手紙を見つめた。

 母は、自分が静かに生きられる間は来ないでほしいと願った。
 兄は、その願いを守ってきた。
 だが、今はもうその願いを守るだけでは、自分を守れない。

 それが、今ここに至った理由なのだ。


 隣国の王が動く。母の兄が動く。自分を巡って、また話が大きくなる。

 けれど、不思議と、ただ怖いだけではなかった。

 来ないまま見捨てられていたのではない。


 そして今、その約束を破ってでも来るのは、自分が狙われているからだ。

 そのことが、胸のどこかを静かに温めた。

「アンリ」

 レオンの声が落ちる。

 顔を上げると、レオンはいつものように無表情に近い顔をしていた。
 けれど、その目だけが少しだけやわらかかった。

「向こうは、お前を奪いに来るわけではない」
「……はい」
「少なくとも、この文を読む限りはな」
「分かります」

 アンリは小さく頷いた。

「でも」
「何だ」
「やっぱり、怖いです」
 正直に言う。
「急に伯父がいると言われても、すぐには」
「当然だ」
 レオンは短く言った。
「無理にそう思えとは言わん」
「……はい」
「ただ、お前が選ぶ前に決めさせはしない」
「それは」
 アンリは少しだけ笑った。
「誓約の文と同じですね」
「そうだ」
 レオンは静かに答えた。
「母君は最初から、そのために残した」

 アンリは青い布の上に指先を置いた。

 母は王女だった。
 それでも、王女としてではなく母として、自分に道を残した。

 そして今、ようやく動く。

 全部が遅すぎるのかもしれない。
 でも、遅いからといって、無意味だとは思いたくなかった。

「……わたし」
 アンリはゆっくり言った。
「まだ全部は受け止めきれていません」
「無理に受け止めるな」
「でも」
 布の紋を見つめる。
「お母さんが、わたしを選べるように残してくれたのなら」
 
「今度は、わたしが目を逸らしたくないです」

 イレーネの目が、静かにやわらいだ。

「マリエ様なら、お喜びになるでしょう」
「……そうでしょうか」

 部屋の中はまだ重い。

 ただ秘密を知るだけではない。

 レオンが立ち上がる。

「バルド、正式な返書を整えろ」
「承知しました」
「到着時期の確認も急がせる」
「はい」
「東棟にはまだ伏せる」
「……難しいでしょうな」
「難しくてもやる」

 そのやり取りを聞きながら、アンリはゆっくり息を吐いた。

 もう、この話は王宮の中だけでは終わらない。
 母の過去は、隣国の王まで動かした。

 自分は思っていた以上に大きな渦の中にいる。
 けれど、その渦の中心で、まだ自分の足で立てる余地がある。

 母が残した誓約の文は、そのためにあった。
 そして、来られなかった兄が今になって動くのも、アンリを守るためなのだ。


 でも、ただ怖いだけでは終わりたくなかった。

 アンリは母の手紙を胸の前でそっと重ねた。


もう来るしかないところまで、自分の人生は動いてしまっている。

 ならば今度は、自分が目を逸らさずに受け止めるしかない。

 そう思った時、胸の奥にあった揺れの中で、細くても確かな芯が一つだけ通った気がした。

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