妃が微笑んだまま去った日、夫はまだ気づいていなかった

柴田はつみ

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第五章「翌朝の椅子」

 読書室に、妃が来なかった。
 エドワルドはそのことに、最初は気づかなかった。
 正確には気づいていたが、理由を考えなかった。体調でも悪いのだろう、と思った。それだけだった。昨日のことは、少し言いすぎたかもしれないとは思った。しかしセラフィーヌは微笑んで出ていった。怒ってはいなかったはずだ。

 侍女が紅茶を運んできた。
 エドワルドはカップを手に取って止まった。
 砂糖が、ひとつだった。
 いつもはふたつ入っている。セラフィーヌが、毎朝黙って入れていた。それがいつから始まったのかは覚えていないが、気づいたときにはそういうものになっていた。

 今日は侍女が用意した紅茶だから、ひとつなのだろう。
 エドワルドはそう結論づけて、本を開いた。
 少し、甘みが足りなかった。

 二日目も、セラフィーヌは来なかった。
 公務の時間、エドワルドは妃と顔を合わせた。週に二度の謁見の同席。セラフィーヌは完璧だった。所作も、言葉も、微笑みも。王太子妃として非の打ちどころがない。

 帰り際、エドワルドは声をかけた。
「体調は問題ないか」
「おかげさまで」
 セラフィーヌは微笑んだ。
「読書室に、来ないのか」
 
「殿下のお時間を邪魔するものでもないかと思いまして」

 邪魔‥‥

 その言葉が、エドワルドの中に小さな棘のように刺さった。しかし何が引っかかるのか、言語化できなかった。
「そういうわけでは」
「では、失礼いたします」

 セラフィーヌは丁寧に礼をして、廊下の角を曲がった。
 その背中は、何も語らなかった。

 三日目の朝。
 カルロッタは読書室の前の廊下を、別の用事で通りかかった。
 扉は閉まっている。中に殿下がいることは、侍従の配置でわかる。
 カルロッタは足を止めなかった。ただ通り過ぎながら妃が今朝どこにいたかを、思った。

 東の回廊。
 窓の外の庭を、長い時間、ただ眺めていた。読書室とは反対の方向の窓。庭師が朝の手入れをしている庭。
 カルロッタが傍らに立っても、セラフィーヌは何も言わなかった。
 ただ一度だけ、東の窓から視線を外して西の方角を、一瞬だけ見た。
 読書室のある方向を。

 それからすぐに、また庭に視線を戻した。
 カルロッタはそれを、胸の中にしまった。

 四日目。
 エドワルドは読書室に入って、椅子を見た。
 暖炉の近く、窓を背にした小さな椅子。
 セラフィーヌの定位置。
 誰もいない。
 エドワルドは自分の椅子に座り、本を開いた。ページに目を走らせる。文字は目に入るが、内容が頭に入ってこない。珍しいことだった。

 部屋が、静かすぎた。
 いつも静かな部屋のはずだった。ふたりでいても言葉は少なく、ページをめくる音と、外の鳥の声と、それだけの朝だった。
 それなのに。

 今日の静寂は、いつもの静寂と何かが違った。
 満ちていた静寂と、欠けている静寂は
同じ静寂でも、重さが違う。
 エドワルドはそのことに気づいてから、なぜ自分がそんなことを考えているのか、わからなくなった。

 昼過ぎ、ヴィオレットが来た。
 いつものように花の笑顔で、いつものように読書室に入ってきた。
「殿下、今日は先ほど申し上げた詩集を持ってまいりましたわ」
 エドワルドは本を閉じた。
「ああ」
 ヴィオレットが椅子に座る。セラフィーヌの椅子に。今日は特に何も感じなかったはずだった。

 しかし。
 詩集の話を聞きながら、エドワルドは気づいた。
 視線が、扉の方へ向いていた。
 セラフィーヌが入ってくるかもしれないと、思っていた。
 来なかった。
 ヴィオレットが笑いながら詩集のページを開いた。きれいな挿絵のある本だった。
 楽しくなかった。

 この部屋で感じたことのない種類の、静かな落ち着かなさが、胸の底にあった。
 なぜかはわからなかった。わからないまま、エドワルドは相槌を打ち続けた。

夕刻。
 ヴィオレットが帰ったあと、エドワルドは珍しく侍従を呼んだ。
「妃殿下は今、どちらにおられる」
 侍従が少し驚いた顔をしたのを、エドワルドは見た。
「東の回廊かと。夕刻はよくそちらで過ごされているようで」
 ようで、という言葉が引っかかった。

 今まで、妃の居場所を聞いたことがなかった。聞く必要がなかった。朝は読書室で会い、公務で顔を合わせ、それで十分だと思っていた。
 エドワルドは侍従を下がらせて、窓の外を見た。

 夕暮れの庭。橙に染まる空。
 東の回廊、というのはこの城の中で一番、夕陽がきれいに見える場所だった。
 セラフィーヌが夕刻にそこへ行くことを、エドワルドは知らなかった。
 知らなかったそのことが、なぜか、今夜は胸に刺さった。

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