妃が微笑んだまま去った日、夫はまだ気づいていなかった

柴田はつみ

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最終章「砂糖、ふたつ」

 朝が来た。
 セラフィーヌは、いつもより少し早く目が覚めた。
 天井を見た、白い天井、城に来た最初の朝も、同じ天井を見た。あのときは怖かった。何もかもが、知らない場所だった。

 今は違う。
 今朝は、別の種類の緊張があった。
 起き上がって、窓を開けた。朝の空気が入ってくる。庭では庭師が、もう手入れを始めていた。土の匂いがした。
 いつもの朝だった。

 カルロッタが来た。
「妃殿下、ご支度を」
「ええ」
 着替えながら、セラフィーヌは鏡を見た。
 いつもと同じ顔だった。
 しかし今日は鏡の中の自分が、少しだけ違って見えた。
 うまく言えない。ただ、何かが昨日より、軽かった。

「カルロッタ」
「はい」
「今日は、読書室へ行きます」
 カルロッタは鏡越しに、セラフィーヌを見た。
 何も言わなかった。ただ、手を止めずに髪を整えながら静かに、頷いた。

 廊下を歩いた。
 いつもと同じ廊下だった。石造りの床。等間隔に並ぶ窓。朝の光が斜めに差し込んでいる。
 読書室の前まで来た。
 扉の前で、セラフィーヌは止まった。
 深呼吸をひとつ。
 それから静かに、押し開けた。

 エドワルドは、いた。
 革張りの椅子に座ってしかし今日は、本を開いていなかった。
 手は膝の上にある。背筋は真っ直ぐだ。まるで、誰かを待っていたようなそういう座り方だった。

 セラフィーヌが扉を開けると、エドワルドが顔を上げた。
 すぐに、上げた。
 本を読んでいなかったから当然かもしれない。しかし、その目がまっすぐに、扉の方を向いていた。

 待っていたのだと、セラフィーヌは思った。


「……おはようございます、殿下」
「ああ」
 短い返事だった。しかしその声に、エドワルドらしくない、わずかな吐息のような何かがあった。

 セラフィーヌは部屋に入った。
 来客用の椅子には向かわなかった。
 暖炉の近く。窓を背にした小さな椅子。
 自分の定位置へ、歩いた。
 腰をおろした。
 膝の上に、今日は本を置かなかった。手を重ねて、ただ座った。
 エドワルドも、何も言わなかった。
 ふたりの間に、穏やかな時間が経過した。

 侍女が紅茶を運んできた。
 セラフィーヌは立ち上がった。
 侍女からカップを受け取ってまず、エドワルドのカップを手元に引き寄せた。


 砂糖をひとつ、入れた。
 スプーンでゆっくりかき混ぜた。
 
 もうひとつ、入れるべきか。
 入れていた。ずっと、入れていた。しかしあの日から、入れなくなった。夫のカップに砂糖をふたつ入れることが、どういう意味を持つのか今の自分には、少し、重かった。

 スプーンを持ったまま、セラフィーヌは動けなかった。

「セラフィーヌ」
 エドワルドが、静かに言った。
「……はい」
「ふたつ……もらえないか」

 セラフィーヌは顔を上げた。
 エドワルドが、こちらを見ていた。
 真っ直ぐに、昨夜と同じ目で。しかし昨夜より少しだけ、不器用な色があった。

 言葉を探した人の顔だった。この言葉を言うために、今朝からずっと、考えていた人の顔だった。

 セラフィーヌは、エドワルドを見た。
 夫を、見た。
 五年間、同じ部屋にいた。言葉が少なかった。何を考えているかわからなかった。見ていないと思っていた。
 しかし今、この人はふたつで、もらえないかと言った。
 ただの砂糖の話ではないとふたりとも、わかっていた。

 セラフィーヌの目が、少しだけ潤んだ。
 泣きはしなかった。泣くほどのことでもないと、どこかで思った。しかし目の奥が熱くなるのは止められなかった。
 こらえた。

 代わりに笑った。
 完璧な微笑みではなかった。
 少しだけ……。目元がわずかに赤くて、口元が震えていて、どこも完璧ではなかった。
 今まで見せたことのないセラフィーヌの、本当の顔だった。

 砂糖をもうひとつ、入れた。
 スプーンでゆっくりと、かき混ぜた。
 音が、静かな部屋に響いた。
 かき混ぜる音がただそれだけの音が、今日はとても、懐かしかった。

 カップをエドワルドのそばのテーブルへ、そっと置いた。
 エドワルドが手を伸ばした。取っ手に指をかけた。
 一口、飲んだ。
 何も言わなかった。
 しかしそのカップを置くときいつもより、少しだけ、丁寧な動作だった。

 セラフィーヌは自分の席に戻った。
 本を取り出した。植物学の随筆。三章の地図が誤植されている、あの本だ。
 膝の上に置いた。
 ページを開いた。
 エドワルドも、本を手に取った。
 ページをめくる音がした。
 遠くで鳥が鳴いた。
 庭師が土を踏む音がした。
 朝の光が、窓から斜めに差し込んでいた。

 言葉はなかった。
 
 ふたりがいる穏やかな時間

 以前と同じでしかし、以前とは少し違った。
 以前の静寂は、何も知らないまま成り立っていた。
 今日の静寂は全部話した上で、それでも、ここにいることを選んだ、静寂だった。

 しばらく経って、エドワルドが言った。
「三章の地図」
「はい」
「南北が逆だ」
 セラフィーヌは、本から目を上げた。
 エドワルドが、自分の本のページを指で示している。まるで、ずっとそれを言いたかったようないや、そうではなくて。

 ただ、話しかけたかったのだ。

 それだけのことが、今日の彼には、ちょっと難しかったのだろうとセラフィーヌには、なんとなくわかった。

「存じております」
「気づいていたか」
「最初から」
 少しの間があった。
「……なぜ言わなかった」
「殿下が脳内で補正されているかと思いまして」

 エドワルドが笑った。
 小さな笑いだった。声になるかならないか、そのくらいの。
 しかしセラフィーヌは、五年間でほとんど見たことのない、夫の笑顔を見た。

 不器用な笑顔だった。
 セラフィーヌも、笑った。
 今度は、本当の微笑み。
 完璧でもなかった。
 ただ温かい、笑顔だった。

 読書室に、静寂が戻った。
 ページをめくる音。
 遠くで鳥が鳴く声。
 朝の光。
 砂糖がふたつ入った紅茶の、湯気。
 ふたりの間に、言葉はなかった。

 しかしもう嘘も何もない、かけがえのないふたりの時間だった。





最後までお読みいただき、ありがとうございました。
エドワルドへの感想は「遅い」のひと言に尽きると思いますが(笑)

それでも最後に「ふたつで、もらえないか」と言えた彼を、どうか少しだけ許してやってください。

不器用な人間が、不器用なまま、それでも手を伸ばしてくれた瞬間がわたしは好きです。

あなたの毎日が、砂糖ふたつ分、甘くありますように。
応援ありがとうございました。


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