『すり替えられた婚約、薔薇園の告白

柴田はつみ

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第十七章 偽りの密会(マリナ)

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 〈光の慈善夜〉――。
 伯爵家ロズモンド商会館の大舞踏室は、普段よりも二割ほど照明が落とされ、
 ガス灯の揺らぎが、鏡と紗幕の影をそっと撫でていた。

 まだ序盤。
 楽士たちが二曲目のワルツを奏でるころ、
 人々は軽い昂りと油断の入り混じった熱をまとい始める。

 その“境界の瞬間”を、
 マリナは誰よりよく知っていた。

(――今。ここが“影”を作る一番美しい時間)

 扇を閉じる音が、静かに響いた。



 マリナは舞踏室の中央から少し離れた場所に立ち、
 視線だけで合図を送る。

 合図は三つ。

 ――八番のガス灯を絞る。
 ――曲面鏡の継ぎ目を半寸ずらす。
――紗幕をかすかに揺らす。

 それだけで“影の角度”が変わる。

(ほら……もう、出来上がるわ)

 紗幕の向こう――
 白いドレスの“影役”の裾が、照明で淡く光る。

 別の位置には、黒衣の男が立つ。
 本物の近衛ではないが、燕尾服の輪郭は鏡越しに“護衛の影”に見える。

 鏡の継ぎ目が、
 本来は離れて立つ二人を“一枚の像”に縫い合わせた。

 遠目には、
 まるで――寄り添う恋人の影だ。



「上出来ね」

 マリナは、観察するように目を細める。

 影は静かに吸い寄せられ、
 ガラス板の中へと沈んでいく。

 “早描き師”が旧式の写場の蓋を開き、長秒露光に入ったところだ。

 マリナは足音を消し、そっと写場に近づいた。

「……焦らないで。影は逃げないわ」

 弟子は緊張で汗を浮かべていた。

「お、お嬢様……この構図、本当に……?」

「構図など関係なくてよ。
 大事なのは“人が信じたい像”であること」

 扇の先端で、マリナは鏡の角度をほんのわずか――
 本当に、紙一枚分ほど上向きに直した。

「これで“寄り添い方”が優しく映るわ」

「……っ、は、はい……!」

 弟子は息を詰めて露光を続け、
 十秒後、蓋を閉じた。



 露光を終えた写場の箱から、
 白と黒の影が滲むガラス板が取り出される。

 影は触れ合っていない。
 だが、鏡像の継ぎ目が二人の距離を“埋めている”。

 その姿は――

 「薄灯りの中で寄り添う恋人」
 そのものだった。

 シャーロットではない。
 本物のクリスでもない。

 なのに、
 “誰か”は勝手に当てはめるだろう。

(人は自分で結論を作りたがるもの。
 そして、噂はその隙間に忍び込む)

 マリナはその像を見つめて、薄く微笑んだ。

 マリナは侍女に合図し、
 ガラス板が入った封筒を“慈善記録”の名で搬入口へ運ばせた。

「――印刷街へ。
 夜明けには五軒の新聞社に行きなさい。
 『慈善夜会の記念図版』としてね」

 侍女は、その“無害な名目”に安堵したように頷く。

 マリナは、その反応さえも読んでいた。

(大事なのは、“私が何もしていないように見える”こと)

 廊下の陰で小走りに逃げていく侍女を横目に、
 マリナはもう一度、鏡に向き直る。

 鏡の向こうでは、
 人々が楽しげに踊っている。

 だが、

 一枚の影の“絵”だけが、
 明日の午前には王都中に広がる。


 舞踏室の端。
 シャーロットは、控えめな位置で談笑に参加している。

 その姿を、マリナは遠くから眺めた。

(あなたは本当に、美しいわ。
 だから……誰かの噂の中心に立つだけで充分)

 扇の影が、彼女の瞳をすっと細くした。

(カルロス様の視線を奪いたいわけじゃない。
 ――あなたの位置を、動かしたいの)

 物語の中心は、
 ひとりでいい。

 そしてその中心が揺らげば、
 周囲も自然と揺らぐ。

「さて……
 影の続きを、描きにいきましょうか」

 薄紫のドレスの裾が揺れ、
 マリナは舞踏室の奥へと歩み出した。
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