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第1話「隣にいる場所」
夜会の灯りは、いつだって残酷なほど美しい。
シャンデリアが降らせる光の中で、人々は笑い、語らい、互いを値踏みする。
ドレスの裾が花のように広がって、香水の甘さが空気に溶けて、音楽が絶えず流れている。
そのすべてが、今夜のわたしには少し遠かった。
「アリス、ぼんやりしてどうしたの」
隣からミリアの声がした。
振り返ると、彼女はわたしより少し背が高くて、夜の薔薇のように美しかった。
深紅のドレスに栗色の巻き毛、大きな瞳にはいつも光が宿っている。
ミリア・ヴェルナー伯爵令嬢。
わたしの親友にして、社交界の花。
「なんでもないわ」
微笑んでそう答えながら、わたしはまた視線を前へ戻した。
人々の輪の中心に、彼はいた。
クリス・エルランド子爵。
幼い頃からの幼馴染で、今年で二十四歳になる。
背が高く、ダークブラウンの髪を整えた、どこか涼しげな顔立ちの青年だ。
礼儀正しくて、少し不器用で、笑うと目が細くなる。
そのクリスが、こちらに向かって歩いてきた。
心臓が、ひとつ跳ねた。
「ミリア嬢」
でも彼の視線は、わたしを素通りして、隣へ向かった。
「よろしければ、一曲」
差し出された手は、ミリアへのものだった。
「まあ、喜んで」
ミリアが嬉しそうに微笑んで、その手を取る。
クリスがちらとこちらを見た気がしたけれど、わたしはもう視線を外していた。
「いってらっしゃい」
自分でも驚くくらい、自然な声が出た。
幼い頃から、ずっとそうだった。
クリスとわたしとミリアは、三人で育ったようなものだ。
屋敷が近かったこと、歳が近かったこと、そして親同士が仲良かったこと。
気がつけばいつも三人でいた。
森を駆け回って、池で魚を追いかけて、ミリアが転ぶたびにクリスが心配そうに駆け寄った。
わたしは少し後ろで、それを見ていた。
クリスはいつでも優しかった。
わたしにも優しかった。
転んだときは手を貸してくれたし、泣いているときは黙って隣にいてくれた。
でも彼の目が一番輝くのは、ミリアに向いているときだとわかっていた。
十二歳の秋、夕暮れの庭で気づいてしまった。
ミリアが笑うたびにクリスの表情が柔らかくなること。
ミリアが転びそうになると体が先に動くこと。
ミリアの話をするときだけ、彼は少し饒舌になること。
ああ、クリスはミリアが好きなのだと。
そのとき十二歳のわたしはどうしたかというと、一人で物置の陰に隠れて、声を殺して泣いた。
それだけだった。
翌日にはもうケロリとして、
音楽が始まって、フロアに人が増えていく。
クリスとミリアが踊っている。
二人は絵のように美しかった。
背の高い彼と、華やかな彼女。誰もが目を奪われていた。
わたしはグラスを持ったまま、壁際でそれを眺めていた。
痛いとは思わない。
もうずっと慣れている。
ただ、ときどき思う。
もし三人ではなく二人だったら、わたしはどうなっていたのだろう、と。
「アリス様、お一人ですか」
声をかけられて振り返ると、顔見知りの令息が立っていた。
社交的な笑顔を作って返事をしながら、わたしはちらりとフロアを見た。
クリスとミリアが笑い合っている。
ミリアはいつも輝いている。
そしてクリスはいつも、その光の方を向いている。
それでいい、とわたしは思う。
ミリアはわたしの大切な親友だ。
クリスもわたしの大切な幼馴染だ。
二人が幸せなら、それでいい。
わたしはその隣で笑っていられれば、それで十分だ。
ずっと、そう言い聞かせてきた。
三人で川に石を投げに行った。
夜会が終わって、馬車が屋敷に向かう。
窓の外に夜の街が流れていく。
灯りが少しずつ遠ざかって、やがて暗い並木道になる。
わたしは膝の上で手を重ねて、今夜のことを頭の中で静かに沈めていった。
彼の手が、ミリアに向かって伸びる瞬間。
見慣れた景色のはずなのに、どうしていつまでも、胸の奥に引っかかるのだろう。
好きだから、仕方がない。
十二歳からずっと変わらない、どうしようもない気持ちだ。
告げるつもりはなかった。
壊したくなかった。
三人でいられる、あの温かい場所を。
馬車が屋敷の前で止まった。
わたしは息を一つ吐いて、いつもの顔を作った。
明日も三人で笑えるように。
それだけが、わたしの願いだった。
あの頃は、まだ知らなかった。
すべてが変わる日が、もうすぐそこまで来ていることを。
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シャンデリアが降らせる光の中で、人々は笑い、語らい、互いを値踏みする。
ドレスの裾が花のように広がって、香水の甘さが空気に溶けて、音楽が絶えず流れている。
そのすべてが、今夜のわたしには少し遠かった。
「アリス、ぼんやりしてどうしたの」
隣からミリアの声がした。
振り返ると、彼女はわたしより少し背が高くて、夜の薔薇のように美しかった。
深紅のドレスに栗色の巻き毛、大きな瞳にはいつも光が宿っている。
ミリア・ヴェルナー伯爵令嬢。
わたしの親友にして、社交界の花。
「なんでもないわ」
微笑んでそう答えながら、わたしはまた視線を前へ戻した。
人々の輪の中心に、彼はいた。
クリス・エルランド子爵。
幼い頃からの幼馴染で、今年で二十四歳になる。
背が高く、ダークブラウンの髪を整えた、どこか涼しげな顔立ちの青年だ。
礼儀正しくて、少し不器用で、笑うと目が細くなる。
そのクリスが、こちらに向かって歩いてきた。
心臓が、ひとつ跳ねた。
「ミリア嬢」
でも彼の視線は、わたしを素通りして、隣へ向かった。
「よろしければ、一曲」
差し出された手は、ミリアへのものだった。
「まあ、喜んで」
ミリアが嬉しそうに微笑んで、その手を取る。
クリスがちらとこちらを見た気がしたけれど、わたしはもう視線を外していた。
「いってらっしゃい」
自分でも驚くくらい、自然な声が出た。
幼い頃から、ずっとそうだった。
クリスとわたしとミリアは、三人で育ったようなものだ。
屋敷が近かったこと、歳が近かったこと、そして親同士が仲良かったこと。
気がつけばいつも三人でいた。
森を駆け回って、池で魚を追いかけて、ミリアが転ぶたびにクリスが心配そうに駆け寄った。
わたしは少し後ろで、それを見ていた。
クリスはいつでも優しかった。
わたしにも優しかった。
転んだときは手を貸してくれたし、泣いているときは黙って隣にいてくれた。
でも彼の目が一番輝くのは、ミリアに向いているときだとわかっていた。
十二歳の秋、夕暮れの庭で気づいてしまった。
ミリアが笑うたびにクリスの表情が柔らかくなること。
ミリアが転びそうになると体が先に動くこと。
ミリアの話をするときだけ、彼は少し饒舌になること。
ああ、クリスはミリアが好きなのだと。
そのとき十二歳のわたしはどうしたかというと、一人で物置の陰に隠れて、声を殺して泣いた。
それだけだった。
翌日にはもうケロリとして、
音楽が始まって、フロアに人が増えていく。
クリスとミリアが踊っている。
二人は絵のように美しかった。
背の高い彼と、華やかな彼女。誰もが目を奪われていた。
わたしはグラスを持ったまま、壁際でそれを眺めていた。
痛いとは思わない。
もうずっと慣れている。
ただ、ときどき思う。
もし三人ではなく二人だったら、わたしはどうなっていたのだろう、と。
「アリス様、お一人ですか」
声をかけられて振り返ると、顔見知りの令息が立っていた。
社交的な笑顔を作って返事をしながら、わたしはちらりとフロアを見た。
クリスとミリアが笑い合っている。
ミリアはいつも輝いている。
そしてクリスはいつも、その光の方を向いている。
それでいい、とわたしは思う。
ミリアはわたしの大切な親友だ。
クリスもわたしの大切な幼馴染だ。
二人が幸せなら、それでいい。
わたしはその隣で笑っていられれば、それで十分だ。
ずっと、そう言い聞かせてきた。
三人で川に石を投げに行った。
夜会が終わって、馬車が屋敷に向かう。
窓の外に夜の街が流れていく。
灯りが少しずつ遠ざかって、やがて暗い並木道になる。
わたしは膝の上で手を重ねて、今夜のことを頭の中で静かに沈めていった。
彼の手が、ミリアに向かって伸びる瞬間。
見慣れた景色のはずなのに、どうしていつまでも、胸の奥に引っかかるのだろう。
好きだから、仕方がない。
十二歳からずっと変わらない、どうしようもない気持ちだ。
告げるつもりはなかった。
壊したくなかった。
三人でいられる、あの温かい場所を。
馬車が屋敷の前で止まった。
わたしは息を一つ吐いて、いつもの顔を作った。
明日も三人で笑えるように。
それだけが、わたしの願いだった。
あの頃は、まだ知らなかった。
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