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第8話「花嫁の朝」
目が覚めたとき、空はまだ薄暗かった。
カーテンの隙間から、夜明け前の青い光が細く差し込んでいた。鳥の声がどこかで聞こえて、それからまた静かになった。
今日が、結婚式だ。
天井を見つめながら、そう思った。実感があるような、ないような、不思議な朝だった。
ずっと夢を見ていたような気がする。クリスと婚約して、準備をして、招待状を出してそれが全部本当のことだったのか、今この瞬間も半信半疑だった。
でも体は本物で、この部屋は本物で、今日という日は確かにやってきた。
わたしは静かに起き上がった。
侍女たちがやってきたのは、夜が明けてすぐのことだった。
髪を結い上げてもらいながら、わたしは鏡の中の自分を眺めた。
白いドレスは、母が選んでくれたものだった。レースが繊細で、裾が長くて、こんなものを着る日が来るとは思っていなかった。
「お綺麗ですよ、お嬢様」
侍女のエマが言った。目が少し赤かった。
「泣かないで、エマ」
「だって……だって、お嬢様が花嫁様なんですもの」
エマはわたしが物心ついた頃からそばにいる侍女だ。わたしより六つ年上で、よく叱られたし、よく慰めてもらった。
その彼女が泣いているのを見たら、わたしまで泣きそうになった。
「泣いたら化粧が崩れるから、二人とも駄目よ」
そう言って笑うと、エマが「そうですね」と笑いながら目を拭った。
支度が整って、一人になった。
式が始まるまで、まだ少し時間があった。
わたしは鏡の前に立った。
白いドレスを着た自分がいた。髪を結い上げて、薄く化粧をして、耳元に真珠を揺らしている。
知らない人みたいだ、と思った。
いつもの自分ではなくて、誰かの花嫁になった自分がそこにいた。
クリスの。
その名前を心の中で呼んだだけで、胸がきゅっとなった。
好きな人の花嫁になる。それはこんなにも、嬉しくて苦しいことなのか。
わたしは鏡の中の自分に向かって、静かに言い聞かせた。
笑っていれば、いい。
それだけでいい。
どんな理由で結婚しても、隣に立つことを選んだのは自分だ。泣いてはいけない。俯いてはいけない。
クリスの隣で、ちゃんと笑っていよう。
それだけが、今日のわたしの役目だった。
式場に入った瞬間、視線が集まるのを感じた。
祭壇まで続く長い道の先に、クリスが立っていた。
いつもの涼しげな顔で、こちらを向いていた。
歩き出すと、彼の表情がわずかに変わった。
どう変わったのか、遠くてよくわからなかった。でも目が細くなったような気がした。
父に手を引かれながら、一歩一歩近づいていく。
音楽が聞こえていた。花の香りがした。参列者の視線が温かかった。
でもそのすべてが、どこか遠くに感じた。
クリスだけが、近かった。
父からクリスへ、手が渡された。
クリスの手は温かかった。しっかりとわたしの手を包んで、祭壇へと導いてくれた。
神官が言葉を読み上げていた。誓いの言葉を求められて、クリスが静かに「誓います」と言った。
わたしも「誓います」と言った。
声が震えていないか心配したけれど、意外と落ち着いた声が出た。
指輪を交換する場面になった。
クリスがわたしの左手を取った。細い指輪を、薬指にそっとはめてくれる。
その瞬間、クリスがわたしを見た。
まっすぐに。
いつもの涼しげな目ではなくて、何か深いものを湛えた目で。
わたしは息を呑んだ。
その目が何を言っているのか、わからなかった。
でもその視線から、どうしても目を逸らせなかった。
式が終わって、参列者から祝福の言葉をいただいた。
「お似合いですね」と何人かが言った。
その言葉が、嬉しかった。
と同時に、少し痛かった。
似合っているかどうかは、見た目の話だ。本当のことは、誰も知らない。
でも今日だけは、その痛みを丁寧に胸の奥にしまった。
今日はちゃんと笑っていると決めたから。
披露宴の終わり頃、少しだけ二人きりになる時間があった。
庭の隅、木陰のベンチ。婚約の挨拶をした日と同じ場所だった。
クリスが隣に座った。今日は肩と肩が触れるほど近かった。
しばらく黙って、庭の景色を眺めていた。
やがてクリスが口を開いた。
「綺麗だった」
「……式場が?」
「お前が」
それだけ言って、クリスは前を向いた。
わたしは耳の先まで熱くなるのを感じながら、同じように前を向いた。
「……ありがとう」
声が少し上ずった。
クリスが小さく「ああ」と言った。
それから二人で、夕暮れに染まっていく庭を眺めた。
何も言わなくても、そこにいられた。
この人の隣は、やっぱり温かいと思った。
慰めの結婚でも、この温かさは本物だ。
それだけで今日は、十分だと思った。
夜、二人きりになった。
クリスは
「無理はしなくていい、時間をかけよう」と言った。
その言葉がやさしくてやさしすぎて、少し泣きそうになった。
やさしくしてくれるのは、妻だから。
そう思い直して、わたしは笑顔を作った。
おやすみなさい、と言うと、クリスも静かに「ああ」と答えた。
長い一日が、終わった。
カーテンの隙間から、夜明け前の青い光が細く差し込んでいた。鳥の声がどこかで聞こえて、それからまた静かになった。
今日が、結婚式だ。
天井を見つめながら、そう思った。実感があるような、ないような、不思議な朝だった。
ずっと夢を見ていたような気がする。クリスと婚約して、準備をして、招待状を出してそれが全部本当のことだったのか、今この瞬間も半信半疑だった。
でも体は本物で、この部屋は本物で、今日という日は確かにやってきた。
わたしは静かに起き上がった。
侍女たちがやってきたのは、夜が明けてすぐのことだった。
髪を結い上げてもらいながら、わたしは鏡の中の自分を眺めた。
白いドレスは、母が選んでくれたものだった。レースが繊細で、裾が長くて、こんなものを着る日が来るとは思っていなかった。
「お綺麗ですよ、お嬢様」
侍女のエマが言った。目が少し赤かった。
「泣かないで、エマ」
「だって……だって、お嬢様が花嫁様なんですもの」
エマはわたしが物心ついた頃からそばにいる侍女だ。わたしより六つ年上で、よく叱られたし、よく慰めてもらった。
その彼女が泣いているのを見たら、わたしまで泣きそうになった。
「泣いたら化粧が崩れるから、二人とも駄目よ」
そう言って笑うと、エマが「そうですね」と笑いながら目を拭った。
支度が整って、一人になった。
式が始まるまで、まだ少し時間があった。
わたしは鏡の前に立った。
白いドレスを着た自分がいた。髪を結い上げて、薄く化粧をして、耳元に真珠を揺らしている。
知らない人みたいだ、と思った。
いつもの自分ではなくて、誰かの花嫁になった自分がそこにいた。
クリスの。
その名前を心の中で呼んだだけで、胸がきゅっとなった。
好きな人の花嫁になる。それはこんなにも、嬉しくて苦しいことなのか。
わたしは鏡の中の自分に向かって、静かに言い聞かせた。
笑っていれば、いい。
それだけでいい。
どんな理由で結婚しても、隣に立つことを選んだのは自分だ。泣いてはいけない。俯いてはいけない。
クリスの隣で、ちゃんと笑っていよう。
それだけが、今日のわたしの役目だった。
式場に入った瞬間、視線が集まるのを感じた。
祭壇まで続く長い道の先に、クリスが立っていた。
いつもの涼しげな顔で、こちらを向いていた。
歩き出すと、彼の表情がわずかに変わった。
どう変わったのか、遠くてよくわからなかった。でも目が細くなったような気がした。
父に手を引かれながら、一歩一歩近づいていく。
音楽が聞こえていた。花の香りがした。参列者の視線が温かかった。
でもそのすべてが、どこか遠くに感じた。
クリスだけが、近かった。
父からクリスへ、手が渡された。
クリスの手は温かかった。しっかりとわたしの手を包んで、祭壇へと導いてくれた。
神官が言葉を読み上げていた。誓いの言葉を求められて、クリスが静かに「誓います」と言った。
わたしも「誓います」と言った。
声が震えていないか心配したけれど、意外と落ち着いた声が出た。
指輪を交換する場面になった。
クリスがわたしの左手を取った。細い指輪を、薬指にそっとはめてくれる。
その瞬間、クリスがわたしを見た。
まっすぐに。
いつもの涼しげな目ではなくて、何か深いものを湛えた目で。
わたしは息を呑んだ。
その目が何を言っているのか、わからなかった。
でもその視線から、どうしても目を逸らせなかった。
式が終わって、参列者から祝福の言葉をいただいた。
「お似合いですね」と何人かが言った。
その言葉が、嬉しかった。
と同時に、少し痛かった。
似合っているかどうかは、見た目の話だ。本当のことは、誰も知らない。
でも今日だけは、その痛みを丁寧に胸の奥にしまった。
今日はちゃんと笑っていると決めたから。
披露宴の終わり頃、少しだけ二人きりになる時間があった。
庭の隅、木陰のベンチ。婚約の挨拶をした日と同じ場所だった。
クリスが隣に座った。今日は肩と肩が触れるほど近かった。
しばらく黙って、庭の景色を眺めていた。
やがてクリスが口を開いた。
「綺麗だった」
「……式場が?」
「お前が」
それだけ言って、クリスは前を向いた。
わたしは耳の先まで熱くなるのを感じながら、同じように前を向いた。
「……ありがとう」
声が少し上ずった。
クリスが小さく「ああ」と言った。
それから二人で、夕暮れに染まっていく庭を眺めた。
何も言わなくても、そこにいられた。
この人の隣は、やっぱり温かいと思った。
慰めの結婚でも、この温かさは本物だ。
それだけで今日は、十分だと思った。
夜、二人きりになった。
クリスは
「無理はしなくていい、時間をかけよう」と言った。
その言葉がやさしくてやさしすぎて、少し泣きそうになった。
やさしくしてくれるのは、妻だから。
そう思い直して、わたしは笑顔を作った。
おやすみなさい、と言うと、クリスも静かに「ああ」と答えた。
長い一日が、終わった。
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