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第10話「隣の温度」
新婚生活が始まって、一週間が経った。
エルランド家の朝は早い。クリスは夜明けとともに起き、朝食を済ませると執務室に向かう。仕事の速い人で、昼前には一度戻ってきて、午後からまた出かけることが多かった。
わたしはその間、屋敷の管理を少しずつ覚えた。家令や料理長と話し合って、献立を決めたり、来客の準備をしたり。実家でも似たようなことはしていたけれど、勝手が違うことも多くて、毎日が新しいことの連続だった。
慌ただしくて、でも充実していた。
問題は夜だった。
夜、食堂で二人きりになると、どうしても意識してしまった。
昼間はそれぞれに動いているから、程よい距離がある。でも夕食の時間だけは、向かい合って座って、しばらく話すことになる。
クリスは昼間のことを話してくれた。仕事のこと、領地のこと、社交界の動向。わたしも屋敷のことを話した。今日こんなことがあった、あの使用人がこんなことを教えてくれた。
他愛のない話だった。
でもその時間がすきだった。
好きな人と向かい合って、一日の終わりに話をする。それがこんなにも幸せなことだと、知らなかった。
同時に、苦しかった。
好きだから、余計に苦しかった。
一週間目の夜のことだった。
夕食を終えて、二人で居間に移った。クリスが書類に目を通していて、わたしは刺繍の続きをしていた。
同じ部屋で、それぞれのことをしている。
そういう時間も、少しずつ増えていた。
火が暖炉で燃えていて、部屋は温かかった。窓の外は風が強くて、木の葉が揺れる音がしていた。
刺繍をしながら、わたしはぼんやりと考えていた。
ミリアは今頃どうしているだろう。手紙は来ているけれど、実際に会えないのはやはり寂しい。クリスも同じように思っているだろうか。
クリスは、ミリアのことをまだ想っているだろうか。
考えたくないのに、考えてしまった。
毎日こうして一緒にいて、クリスはミリアのことを思い出す瞬間があるだろうか。夕食の時間に、ふとミリアの笑顔を思い出したりするだろうか。
針が指に刺さった。
「っ」
思わず小さく声が出た。
「どうした」
クリスが書類から顔を上げた。
「なんでもないわ、少し刺してしまっただけ」
指先に小さな赤い点が浮かんでいた。大したことはない。でもクリスが立ち上がって、わたしの隣に来た。
「見せろ」
「本当に大丈夫よ」
「見せろ」
有無を言わせない声に、おとなしく手を差し出した。
クリスがわたしの手を取って、指先を確認した。大きな手だった。その手がわたしの指をそっと包んでいる。
「大したことはないな」
「言ったでしょう」
でも彼はすぐに離さなかった。ハンカチを取り出して、指先に当ててくれた。
近かった。
こんなに近くで顔を見たのは、式の日以来だった。
わたしは視線をどこに向ければいいかわからなくて、暖炉の炎を見た。
「痛いか」
「痛くないわ」
「そうか」
クリスがようやく手を離した。でもそのまま隣に座った。
さっきよりずっと近い距離に。
並んで暖炉の炎を見た。
何も言わなかった。
でもその沈黙は、いつもと少し違った。近すぎて、温かすぎて、どこかそわそわするような。
「クリス」
気づいたら呼んでいた。
「なんだ」
「わたしのこと……」
言いかけて、止まった。
何を聞こうとしたのか。妻として大切にしてくれているのはわかる。優しくしてくれているのもわかる。
でも聞きたいのはそういうことじゃなくて。
「……なんでもない」
また飲み込んだ。
クリスがわたしを見た。
「なんでもないはないだろう」
「本当に、なんでもないの」
少し強い口調で言うと、クリスは何も言わなかった。
ただ、わたしの隣にいた。
しばらくして、クリスがぽつりと言った。
「寒いか?」
暖炉の前なのに、と思いながら「少し」と答えた。
嘘だった。全然寒くなかった。
でもクリスは何も言わずに、少しだけわたしの方に近づいた。
それだけだった。
それだけなのに。
胸が、締め付けられるように痛かった。
嬉しくて、切なくて、この人がすきで、でもその気持ちを言えなくて。
全部が一緒くたになって、わたしはただ炎を見つめ続けた。
その夜遅く、ミリアから手紙が届いた。
封を開けると、明るい文字が並んでいた。
アリス、新婚生活はどう?
クリス様は優しくしてくれてる?
あなたたち二人のことが気になって仕方がないわ。
幸せでいてね。絶対に、幸せでいてね。
わたしは手紙を膝の上に置いて、窓の外を見た。
幸せか、どうか。
わからない。嬉しいことも苦しいこともあって、どっちが勝っているのかわからない。
でも……
今夜、暖炉の前でクリスがそっと近づいてきたこと。
あの温もりは、本物だった。
それだけは確かだった。
わたしは便箋を取り出して、ミリアへの返事を書き始めた。
ミリア、元気にしています。
新婚生活は少しずつ、慣れてきました。
それから少し考えて、こう付け加えた。
クリスは、優しいわ。
それだけは確かです。
書きながら、わたしは少し笑った。
優しい。それだけで今は、十分だと思おうとしていた。
でも本当のところはもっと欲しかった。
優しさの先にある、何かを。
その何かに名前をつけることが、まだ怖かった。
一週間が経って、わたしたちはまだ探り合っていた。
クリスはわたしに優しくて、わたしはクリスを好きで。
それだけははっきりしているのに、それ以上に進めなかった。
いつか、この距離が変わる日が来るだろうか。
暖炉の火が消えた部屋で、わたしはそっと目を閉じた。
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エルランド家の朝は早い。クリスは夜明けとともに起き、朝食を済ませると執務室に向かう。仕事の速い人で、昼前には一度戻ってきて、午後からまた出かけることが多かった。
わたしはその間、屋敷の管理を少しずつ覚えた。家令や料理長と話し合って、献立を決めたり、来客の準備をしたり。実家でも似たようなことはしていたけれど、勝手が違うことも多くて、毎日が新しいことの連続だった。
慌ただしくて、でも充実していた。
問題は夜だった。
夜、食堂で二人きりになると、どうしても意識してしまった。
昼間はそれぞれに動いているから、程よい距離がある。でも夕食の時間だけは、向かい合って座って、しばらく話すことになる。
クリスは昼間のことを話してくれた。仕事のこと、領地のこと、社交界の動向。わたしも屋敷のことを話した。今日こんなことがあった、あの使用人がこんなことを教えてくれた。
他愛のない話だった。
でもその時間がすきだった。
好きな人と向かい合って、一日の終わりに話をする。それがこんなにも幸せなことだと、知らなかった。
同時に、苦しかった。
好きだから、余計に苦しかった。
一週間目の夜のことだった。
夕食を終えて、二人で居間に移った。クリスが書類に目を通していて、わたしは刺繍の続きをしていた。
同じ部屋で、それぞれのことをしている。
そういう時間も、少しずつ増えていた。
火が暖炉で燃えていて、部屋は温かかった。窓の外は風が強くて、木の葉が揺れる音がしていた。
刺繍をしながら、わたしはぼんやりと考えていた。
ミリアは今頃どうしているだろう。手紙は来ているけれど、実際に会えないのはやはり寂しい。クリスも同じように思っているだろうか。
クリスは、ミリアのことをまだ想っているだろうか。
考えたくないのに、考えてしまった。
毎日こうして一緒にいて、クリスはミリアのことを思い出す瞬間があるだろうか。夕食の時間に、ふとミリアの笑顔を思い出したりするだろうか。
針が指に刺さった。
「っ」
思わず小さく声が出た。
「どうした」
クリスが書類から顔を上げた。
「なんでもないわ、少し刺してしまっただけ」
指先に小さな赤い点が浮かんでいた。大したことはない。でもクリスが立ち上がって、わたしの隣に来た。
「見せろ」
「本当に大丈夫よ」
「見せろ」
有無を言わせない声に、おとなしく手を差し出した。
クリスがわたしの手を取って、指先を確認した。大きな手だった。その手がわたしの指をそっと包んでいる。
「大したことはないな」
「言ったでしょう」
でも彼はすぐに離さなかった。ハンカチを取り出して、指先に当ててくれた。
近かった。
こんなに近くで顔を見たのは、式の日以来だった。
わたしは視線をどこに向ければいいかわからなくて、暖炉の炎を見た。
「痛いか」
「痛くないわ」
「そうか」
クリスがようやく手を離した。でもそのまま隣に座った。
さっきよりずっと近い距離に。
並んで暖炉の炎を見た。
何も言わなかった。
でもその沈黙は、いつもと少し違った。近すぎて、温かすぎて、どこかそわそわするような。
「クリス」
気づいたら呼んでいた。
「なんだ」
「わたしのこと……」
言いかけて、止まった。
何を聞こうとしたのか。妻として大切にしてくれているのはわかる。優しくしてくれているのもわかる。
でも聞きたいのはそういうことじゃなくて。
「……なんでもない」
また飲み込んだ。
クリスがわたしを見た。
「なんでもないはないだろう」
「本当に、なんでもないの」
少し強い口調で言うと、クリスは何も言わなかった。
ただ、わたしの隣にいた。
しばらくして、クリスがぽつりと言った。
「寒いか?」
暖炉の前なのに、と思いながら「少し」と答えた。
嘘だった。全然寒くなかった。
でもクリスは何も言わずに、少しだけわたしの方に近づいた。
それだけだった。
それだけなのに。
胸が、締め付けられるように痛かった。
嬉しくて、切なくて、この人がすきで、でもその気持ちを言えなくて。
全部が一緒くたになって、わたしはただ炎を見つめ続けた。
その夜遅く、ミリアから手紙が届いた。
封を開けると、明るい文字が並んでいた。
アリス、新婚生活はどう?
クリス様は優しくしてくれてる?
あなたたち二人のことが気になって仕方がないわ。
幸せでいてね。絶対に、幸せでいてね。
わたしは手紙を膝の上に置いて、窓の外を見た。
幸せか、どうか。
わからない。嬉しいことも苦しいこともあって、どっちが勝っているのかわからない。
でも……
今夜、暖炉の前でクリスがそっと近づいてきたこと。
あの温もりは、本物だった。
それだけは確かだった。
わたしは便箋を取り出して、ミリアへの返事を書き始めた。
ミリア、元気にしています。
新婚生活は少しずつ、慣れてきました。
それから少し考えて、こう付け加えた。
クリスは、優しいわ。
それだけは確かです。
書きながら、わたしは少し笑った。
優しい。それだけで今は、十分だと思おうとしていた。
でも本当のところはもっと欲しかった。
優しさの先にある、何かを。
その何かに名前をつけることが、まだ怖かった。
一週間が経って、わたしたちはまだ探り合っていた。
クリスはわたしに優しくて、わたしはクリスを好きで。
それだけははっきりしているのに、それ以上に進めなかった。
いつか、この距離が変わる日が来るだろうか。
暖炉の火が消えた部屋で、わたしはそっと目を閉じた。
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