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第11話「完璧な妻を演じます」
朝が来るたびに、わたしは一つ決めていることがあった。
完璧な妻でいよう、ということだ。
愛されていなくてもいい。必要とされる妻になれば、それでいい。クリスの隣にいる理由を、自分で作ればいい。
そう決めたら、不思議と楽になった。
好きという気持ちは胸の奥にしまって、鍵をかけておく。表に出すのは笑顔だけでいい。それだけでいい。
我ながら、健気だと思う。
少し、哀れだとも思う。
でも他に方法がわからなかった。
屋敷の管理は、二週間もすれば大体の流れが掴めてきた。
家令のマーカスは几帳面で優秀な人だった。わたしが何かを聞けば丁寧に答えてくれたし、改善した方がいいと思うことは遠慮なく提案してくれた。最初は少し緊張していたけれど、今では頼りにしている。
料理長のベアトリスは恰幅が良くて、声が大きくて、最初はその迫力に圧倒された。でも根は温かい人で、わたしが献立について意見を言うと嬉しそうに目を細めた。
「奥様はちゃんとわかっていらっしゃる」と言われたときは、素直に嬉しかった。
侍女のエマは実家から一緒についてきてくれた。見慣れた顔がそばにあるのは、思っていた以上に心強かった。
屋敷の人たちが温かくて、わたしは少しずつここが自分の場所になっていくのを感じていた。
社交の場でも、わたしはクリスの妻として振る舞うことを覚えていった。
クリスが出席する夜会には必ず同行した。挨拶を覚えて、話題を用意して、隣で笑顔を絶やさなかった。
クリスの仕事上の付き合いも把握した。誰がどの家の当主で、どんな関係にあるか。どんな話題が好まれて、どんな話題は避けた方がいいか。
完璧にやろうと思った。
クリスが困らないように。クリスが恥をかかないように。
それがわたしの役目だと思った。
ある夕方、執務室から戻ってきたクリスと廊下で鉢合わせた。
「ただいま」
「お帰りなさい」わたしは微笑んだ。
「お疲れではないですか? 今日は遅かったわね」
「少し仕事が立て込んでいた」
「夕食の前に、お茶でもいかがですか? ベアトリスに頼んでおいたクッキーがあるの」
クリスが少し微笑んだ。
「……ありがとう」
応接室に移って、二人でお茶を飲んだ。クッキーを一口食べたクリスが
「うまいな」と言った。
「ベアトリスが腕によりをかけてくれたの」わたしは笑った。
「クリスが甘いものに目がないって教えてくれたのよ、マーカスが」
「あいつめ」
「隠していたの?」
「別に隠していない」クリスが少し不服そうな顔をした。
「ただ言う必要もなかっただけだ」
「可愛いわね」
言ってしまってから、しまったと思った。
クリスがわたしを見た。
「……なんだと?」
「な、なんでもないわ。クッキーが可愛い形だと思って」
取り繕ったけれど、明らかに苦しい言い訳だった。
クリスが少しの間わたしを見てから、また視線をカップに落とした。
その耳が、ほんのわずかに赤かった気がした。
気のせいかもしれない。
でもわたしはこっそり下を向いて、笑った。
夕食の後、クリスが書斎に戻ろうとしたとき、わたしは声をかけた。
「明日の夜会なのですが、グレイ侯爵ご夫妻がいらっしゃるそうね」
「ああ、そうだな」
「グレイ侯爵は最近、北部の農地改革に取り組んでいらっしゃると聞いたわ。クリスの領地の件でご相談できそうなことがあるかもしれないから、少し話しかけてみてはいかがかしら」
クリスが立ち止まって、振り返った。
「……そこまで調べたのか」
「妻ですもの」わたしは微笑んだ。
「当然です」
クリスがわたしをまっすぐ見た。
何か言いたそうな顔だった。
でも少しの間の後、
「助かる」とだけ言って書斎に向かった。
その背中を見送りながら、わたしは胸の奥に小さな温かさを感じた。
役に立てた、必要とされた。
それだけで十分だと思おうとした。
その夜、エマが寝る支度を手伝いながら言った。
「奥様、少し無理をされていませんか」
「そんなことないわ」
「でも最近、ずっと走り続けていらっしゃるような気がして」
エマは昔からわたしの本音を見抜く。子どもの頃から変わらない。
「大丈夫よ」
「旦那様は、ちゃんと奥様を見ていらっしゃいますよ」
その言葉に、わたしは少し手を止めた。
「……どういう意味?」
「なんでもありません」エマがにこりと笑った。
「ただ、奥様が完璧にやろうとしなくても、旦那様はちゃんと奥様を見てくださっていると思いまして」
わたしはしばらく鏡の中の自分を見た。
「ありがとう、エマ」
「はい」
エマが部屋を出て行った後、わたしは一人で鏡を見続けた。
クリスがちゃんと見てくれている。
エマの言葉が頭の中で繰り返された。
でも見てくれているとしても。
それが「妻だから」なのか、それとも別の理由があるのか。
そこが、わからなかった。
わからないから、完璧な妻でいようとしていた。
理由を作れば、そばにいられる気がして。
翌朝、食堂に行くとクリスがもう席についていた。
わたしが入ると顔を上げた。
「おはよう」
「おはようございます」
席に座ると、クリスがいつもと違うことを言った。
「昨日は助かった」
「え?」
「グレイ侯爵のことだ。夜会の件、よく調べてくれていた」
「お役に立てたなら良かったわ」
クリスがまたわたしを見た。
「アリス」
「なに?」
「……もう少し、休んでいい」
予想していなかった言葉だった。
「休む? わたしは別に……」
「無理をしているのが、わかる」
わたしは言葉に詰まった。
クリスがわたしを見ていた。いつもの涼しげな目で、でも今朝は少し違う色があった。
「妻ですもの、当然のことをしているだけよ」
わたしが言うと、クリスは少し眉を寄せた。
「当然じゃない」
それだけ言って、また新聞に目を落とした。
わたしはスープを一口飲みながら、今の言葉の意味を考えた。
当然じゃない。
どういう意味だろう。
答えが出ないまま、朝食が終わった。
その日一日、クリスの言葉が頭から離れなかった。
休んでいい、当然じゃない。
彼はいつも、少しだけ届かない言葉をくれる。
あと少しだけ踏み込んでくれたら、わたしは何かが変わるのに。
でもそれを求めてはいけないと、まだ思っていた。
完璧な妻でいよう、ということだ。
愛されていなくてもいい。必要とされる妻になれば、それでいい。クリスの隣にいる理由を、自分で作ればいい。
そう決めたら、不思議と楽になった。
好きという気持ちは胸の奥にしまって、鍵をかけておく。表に出すのは笑顔だけでいい。それだけでいい。
我ながら、健気だと思う。
少し、哀れだとも思う。
でも他に方法がわからなかった。
屋敷の管理は、二週間もすれば大体の流れが掴めてきた。
家令のマーカスは几帳面で優秀な人だった。わたしが何かを聞けば丁寧に答えてくれたし、改善した方がいいと思うことは遠慮なく提案してくれた。最初は少し緊張していたけれど、今では頼りにしている。
料理長のベアトリスは恰幅が良くて、声が大きくて、最初はその迫力に圧倒された。でも根は温かい人で、わたしが献立について意見を言うと嬉しそうに目を細めた。
「奥様はちゃんとわかっていらっしゃる」と言われたときは、素直に嬉しかった。
侍女のエマは実家から一緒についてきてくれた。見慣れた顔がそばにあるのは、思っていた以上に心強かった。
屋敷の人たちが温かくて、わたしは少しずつここが自分の場所になっていくのを感じていた。
社交の場でも、わたしはクリスの妻として振る舞うことを覚えていった。
クリスが出席する夜会には必ず同行した。挨拶を覚えて、話題を用意して、隣で笑顔を絶やさなかった。
クリスの仕事上の付き合いも把握した。誰がどの家の当主で、どんな関係にあるか。どんな話題が好まれて、どんな話題は避けた方がいいか。
完璧にやろうと思った。
クリスが困らないように。クリスが恥をかかないように。
それがわたしの役目だと思った。
ある夕方、執務室から戻ってきたクリスと廊下で鉢合わせた。
「ただいま」
「お帰りなさい」わたしは微笑んだ。
「お疲れではないですか? 今日は遅かったわね」
「少し仕事が立て込んでいた」
「夕食の前に、お茶でもいかがですか? ベアトリスに頼んでおいたクッキーがあるの」
クリスが少し微笑んだ。
「……ありがとう」
応接室に移って、二人でお茶を飲んだ。クッキーを一口食べたクリスが
「うまいな」と言った。
「ベアトリスが腕によりをかけてくれたの」わたしは笑った。
「クリスが甘いものに目がないって教えてくれたのよ、マーカスが」
「あいつめ」
「隠していたの?」
「別に隠していない」クリスが少し不服そうな顔をした。
「ただ言う必要もなかっただけだ」
「可愛いわね」
言ってしまってから、しまったと思った。
クリスがわたしを見た。
「……なんだと?」
「な、なんでもないわ。クッキーが可愛い形だと思って」
取り繕ったけれど、明らかに苦しい言い訳だった。
クリスが少しの間わたしを見てから、また視線をカップに落とした。
その耳が、ほんのわずかに赤かった気がした。
気のせいかもしれない。
でもわたしはこっそり下を向いて、笑った。
夕食の後、クリスが書斎に戻ろうとしたとき、わたしは声をかけた。
「明日の夜会なのですが、グレイ侯爵ご夫妻がいらっしゃるそうね」
「ああ、そうだな」
「グレイ侯爵は最近、北部の農地改革に取り組んでいらっしゃると聞いたわ。クリスの領地の件でご相談できそうなことがあるかもしれないから、少し話しかけてみてはいかがかしら」
クリスが立ち止まって、振り返った。
「……そこまで調べたのか」
「妻ですもの」わたしは微笑んだ。
「当然です」
クリスがわたしをまっすぐ見た。
何か言いたそうな顔だった。
でも少しの間の後、
「助かる」とだけ言って書斎に向かった。
その背中を見送りながら、わたしは胸の奥に小さな温かさを感じた。
役に立てた、必要とされた。
それだけで十分だと思おうとした。
その夜、エマが寝る支度を手伝いながら言った。
「奥様、少し無理をされていませんか」
「そんなことないわ」
「でも最近、ずっと走り続けていらっしゃるような気がして」
エマは昔からわたしの本音を見抜く。子どもの頃から変わらない。
「大丈夫よ」
「旦那様は、ちゃんと奥様を見ていらっしゃいますよ」
その言葉に、わたしは少し手を止めた。
「……どういう意味?」
「なんでもありません」エマがにこりと笑った。
「ただ、奥様が完璧にやろうとしなくても、旦那様はちゃんと奥様を見てくださっていると思いまして」
わたしはしばらく鏡の中の自分を見た。
「ありがとう、エマ」
「はい」
エマが部屋を出て行った後、わたしは一人で鏡を見続けた。
クリスがちゃんと見てくれている。
エマの言葉が頭の中で繰り返された。
でも見てくれているとしても。
それが「妻だから」なのか、それとも別の理由があるのか。
そこが、わからなかった。
わからないから、完璧な妻でいようとしていた。
理由を作れば、そばにいられる気がして。
翌朝、食堂に行くとクリスがもう席についていた。
わたしが入ると顔を上げた。
「おはよう」
「おはようございます」
席に座ると、クリスがいつもと違うことを言った。
「昨日は助かった」
「え?」
「グレイ侯爵のことだ。夜会の件、よく調べてくれていた」
「お役に立てたなら良かったわ」
クリスがまたわたしを見た。
「アリス」
「なに?」
「……もう少し、休んでいい」
予想していなかった言葉だった。
「休む? わたしは別に……」
「無理をしているのが、わかる」
わたしは言葉に詰まった。
クリスがわたしを見ていた。いつもの涼しげな目で、でも今朝は少し違う色があった。
「妻ですもの、当然のことをしているだけよ」
わたしが言うと、クリスは少し眉を寄せた。
「当然じゃない」
それだけ言って、また新聞に目を落とした。
わたしはスープを一口飲みながら、今の言葉の意味を考えた。
当然じゃない。
どういう意味だろう。
答えが出ないまま、朝食が終わった。
その日一日、クリスの言葉が頭から離れなかった。
休んでいい、当然じゃない。
彼はいつも、少しだけ届かない言葉をくれる。
あと少しだけ踏み込んでくれたら、わたしは何かが変わるのに。
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