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第12話「社交界の噂」
社交界というのは、残酷なほど噂が速い。
クリスとわたしの結婚は、発表した夜会から一週間も経たないうちに広まった。おめでとうございます、という言葉とともに、もう一つの言葉もついて回った。
ミリア嬢の代わりに、という言葉が。
聞こえないふりをするのには、もう慣れていた。
慣れなければいけない、とも思っていた。
その夜会は、シュルツ伯爵家主催の秋の集いだった。
広間は賑やかで、音楽が明るく流れていた。クリスとわたしは夫婦として招かれていて、入り口でいくつかの祝福の言葉をいただいた。
クリスはいつも通り落ち着いていた。挨拶を受けては短く礼を言い、わたしの少し前を歩きながらも、人混みの中でわたしが遅れないよう歩調を合わせてくれていた。
そういう細かい気遣いが、この人にはある。
だからいけない、とわたしは思う。そういうところを好きになってしまうから。
「アリス様」
声をかけられて振り返ると、顔見知りの令嬢が二人、こちらに歩いてきた。パーシ子爵家の令嬢と、その友人だった。
「ご結婚おめでとうございます」
「ありがとう」わたしは微笑んだ。
「クリス様と仲睦まじそうで、羨ましいですわ」
「そんな、まだまだ慣れないことばかりで」
他愛のない話が続いた。
クリスはその間、少し離れた場所で別の人と話していた。
わたしは笑いながら、視界の端でクリスの様子を確認していた。いつのまにかそれが癖になっていた。
夜会が中盤になった頃、わたしは一人になる時間があった。
クリスが仕事上の知人に捕まって、少し長い話になっていた。わたしはグラスを持ちながら、邪魔をしないよう少し離れた場所に移った。
柱の近く、ちょうど人の流れから外れた場所だった。
そこで聞こえてしまった。
隣の柱の陰から、女性たちの声が流れてきた。
「クリス様って、ミリア・ヴェルナー嬢のことがお好きだったのでしょう?」
「そうよ、誰でも知っていることだわ。でもミリア嬢に縁談が決まってしまって」
「それで代わりに幼馴染のアリス嬢を?」
「まあ、慰めというやつじゃないかしら。アリス嬢も気の毒に。本命ではないのに妻になるなんて」
「でもアリス嬢の方はクリス様のことが好きなのでしょう? 幼馴染ですもの」
「だから余計に哀れね。好きな人に慰めで選ばれるなんて」
くすくすという笑い声がして、それから足音が遠ざかっていった。
わたしはグラスをゆっくり傾けた。
冷たい果実水の味がした。
胸が痛いかと言われれば痛かった。
否定できないことを言われると、言葉よりも深く刺さる。反論できない分、どこにも向けられなくて、ただ内側に溜まっていく。
でも表情は変えなかった。
社交界で感情を顔に出すことは、武器を捨てることと同じだと母に教わった。笑顔でいれば、傷ついていることは誰にも見えない。
わたしはグラスを持ち直して、もう一口飲んだ。
大丈夫。知っていたことだ。今さら改めて言われたところで、何も変わらない。
そう言い聞かせながら、でも胸の奥の重さは消えなかった。
「アリス」
クリスが戻ってきた。
「話が長くなって悪かった」
「いいえ」わたしは微笑んだ。
「お仕事のことでしょう、大切なことだもの」
クリスがわたしの顔を見た。
少し、間があった。
「何かあったか」
「何もないわ」
「本当に?」
いつもより真剣な目だった。
わたしは少しだけ視線を逸らした。
「本当よ。少し疲れただけ」
クリスがまだわたしを見ていた。でも追及はしなかった。
「そろそろ帰るか」
「ええ」
クリスがわたしのグラスを取って、近くの給仕に渡した。それからわたしの隣に立って、出口に向かって歩き始めた。
肩が触れるほど近い距離だった。
人混みの中でわたしが流されないように、そうしてくれているのだと思った。
馬車に乗ると、夜の空気が少し冷たかった。
クリスが隣に座った。向かいではなく、隣に。
それがいつもと違うことに気づいたけれど、何も言わなかった。
馬車が動き出して、窓の外に夜の街が流れていった。
灯りが一つ、また一つと過ぎていく。
しばらく沈黙が続いた。
やがてクリスが口を開いた。
「噂など、気にするな」
心臓が跳ねた。
聞いていたのだ。
いつから? どこから?
動揺を悟られないように、わたしは窓の外を見たまま言った。
「気にしていないわ」
「顔に出ていた」
「……出ていなかったはずよ」
「俺にはわかる」
その言葉が、どういうわけか胸に刺さった。
わたしのことが、わかる。そう言ってくれた。
「……クリスは、気にならないの」とわたしは聞いた。
「そういう噂が出ることが」
少しの沈黙があった。
「気になる」クリスが静かに言った。
「お前が傷つくから」
わたしは息を呑んだ。
お前が傷つくから、気になる。
自分の評判ではなく、わたしが傷つくから。
その言葉の意味を、深く考えないようにした。考えたら、また期待してしまうから。
「ありがとう」
それだけ言うと、クリスは「ああ」と答えた。
馬車がまた揺れた。
クリスはそれ以上何も言わなかった。
でも隣にいてくれた。ずっと、屋敷につくまで。
部屋に戻って、一人になった。
鏡の前に座って、今夜のことを振り返った。
あの噂は、否定できなかった。
クリスがミリアを想って結婚したのかどうか、わたし自身にも確信がない。ただ「落ち着くから」という言葉だけを頼りに、慰めの結婚だと決めつけている。
でも……。
お前が傷つくから、気になる。
あの言葉は何だったのだろう。
答えが出ないまま、わたしは鏡から目を逸らした。
翌朝、朝食の席でクリスはいつも通りだった。
新聞を読んで、スープを飲んで、少しだけ言葉を交わす。昨夜のことには触れなかった。
わたしも触れなかった。
ただ一つだけ、変わったことがあった。
クリスがいつもより少しだけ、わたしの方を見ていた気がした。
気のせいかもしれない。
でもその視線が、どうにも、温かかった。
社交界の噂はそれからも続いた。
でもわたしは少しずつ、受け流すことを覚えていった。
傷つかないわけではない。
ただクリスがそばにいてくれる限り、立っていられる気がした。
それが慰めの結婚でも、今はそれで十分だと思っていた。
本当は、全然十分じゃなかったけれど。
クリスとわたしの結婚は、発表した夜会から一週間も経たないうちに広まった。おめでとうございます、という言葉とともに、もう一つの言葉もついて回った。
ミリア嬢の代わりに、という言葉が。
聞こえないふりをするのには、もう慣れていた。
慣れなければいけない、とも思っていた。
その夜会は、シュルツ伯爵家主催の秋の集いだった。
広間は賑やかで、音楽が明るく流れていた。クリスとわたしは夫婦として招かれていて、入り口でいくつかの祝福の言葉をいただいた。
クリスはいつも通り落ち着いていた。挨拶を受けては短く礼を言い、わたしの少し前を歩きながらも、人混みの中でわたしが遅れないよう歩調を合わせてくれていた。
そういう細かい気遣いが、この人にはある。
だからいけない、とわたしは思う。そういうところを好きになってしまうから。
「アリス様」
声をかけられて振り返ると、顔見知りの令嬢が二人、こちらに歩いてきた。パーシ子爵家の令嬢と、その友人だった。
「ご結婚おめでとうございます」
「ありがとう」わたしは微笑んだ。
「クリス様と仲睦まじそうで、羨ましいですわ」
「そんな、まだまだ慣れないことばかりで」
他愛のない話が続いた。
クリスはその間、少し離れた場所で別の人と話していた。
わたしは笑いながら、視界の端でクリスの様子を確認していた。いつのまにかそれが癖になっていた。
夜会が中盤になった頃、わたしは一人になる時間があった。
クリスが仕事上の知人に捕まって、少し長い話になっていた。わたしはグラスを持ちながら、邪魔をしないよう少し離れた場所に移った。
柱の近く、ちょうど人の流れから外れた場所だった。
そこで聞こえてしまった。
隣の柱の陰から、女性たちの声が流れてきた。
「クリス様って、ミリア・ヴェルナー嬢のことがお好きだったのでしょう?」
「そうよ、誰でも知っていることだわ。でもミリア嬢に縁談が決まってしまって」
「それで代わりに幼馴染のアリス嬢を?」
「まあ、慰めというやつじゃないかしら。アリス嬢も気の毒に。本命ではないのに妻になるなんて」
「でもアリス嬢の方はクリス様のことが好きなのでしょう? 幼馴染ですもの」
「だから余計に哀れね。好きな人に慰めで選ばれるなんて」
くすくすという笑い声がして、それから足音が遠ざかっていった。
わたしはグラスをゆっくり傾けた。
冷たい果実水の味がした。
胸が痛いかと言われれば痛かった。
否定できないことを言われると、言葉よりも深く刺さる。反論できない分、どこにも向けられなくて、ただ内側に溜まっていく。
でも表情は変えなかった。
社交界で感情を顔に出すことは、武器を捨てることと同じだと母に教わった。笑顔でいれば、傷ついていることは誰にも見えない。
わたしはグラスを持ち直して、もう一口飲んだ。
大丈夫。知っていたことだ。今さら改めて言われたところで、何も変わらない。
そう言い聞かせながら、でも胸の奥の重さは消えなかった。
「アリス」
クリスが戻ってきた。
「話が長くなって悪かった」
「いいえ」わたしは微笑んだ。
「お仕事のことでしょう、大切なことだもの」
クリスがわたしの顔を見た。
少し、間があった。
「何かあったか」
「何もないわ」
「本当に?」
いつもより真剣な目だった。
わたしは少しだけ視線を逸らした。
「本当よ。少し疲れただけ」
クリスがまだわたしを見ていた。でも追及はしなかった。
「そろそろ帰るか」
「ええ」
クリスがわたしのグラスを取って、近くの給仕に渡した。それからわたしの隣に立って、出口に向かって歩き始めた。
肩が触れるほど近い距離だった。
人混みの中でわたしが流されないように、そうしてくれているのだと思った。
馬車に乗ると、夜の空気が少し冷たかった。
クリスが隣に座った。向かいではなく、隣に。
それがいつもと違うことに気づいたけれど、何も言わなかった。
馬車が動き出して、窓の外に夜の街が流れていった。
灯りが一つ、また一つと過ぎていく。
しばらく沈黙が続いた。
やがてクリスが口を開いた。
「噂など、気にするな」
心臓が跳ねた。
聞いていたのだ。
いつから? どこから?
動揺を悟られないように、わたしは窓の外を見たまま言った。
「気にしていないわ」
「顔に出ていた」
「……出ていなかったはずよ」
「俺にはわかる」
その言葉が、どういうわけか胸に刺さった。
わたしのことが、わかる。そう言ってくれた。
「……クリスは、気にならないの」とわたしは聞いた。
「そういう噂が出ることが」
少しの沈黙があった。
「気になる」クリスが静かに言った。
「お前が傷つくから」
わたしは息を呑んだ。
お前が傷つくから、気になる。
自分の評判ではなく、わたしが傷つくから。
その言葉の意味を、深く考えないようにした。考えたら、また期待してしまうから。
「ありがとう」
それだけ言うと、クリスは「ああ」と答えた。
馬車がまた揺れた。
クリスはそれ以上何も言わなかった。
でも隣にいてくれた。ずっと、屋敷につくまで。
部屋に戻って、一人になった。
鏡の前に座って、今夜のことを振り返った。
あの噂は、否定できなかった。
クリスがミリアを想って結婚したのかどうか、わたし自身にも確信がない。ただ「落ち着くから」という言葉だけを頼りに、慰めの結婚だと決めつけている。
でも……。
お前が傷つくから、気になる。
あの言葉は何だったのだろう。
答えが出ないまま、わたしは鏡から目を逸らした。
翌朝、朝食の席でクリスはいつも通りだった。
新聞を読んで、スープを飲んで、少しだけ言葉を交わす。昨夜のことには触れなかった。
わたしも触れなかった。
ただ一つだけ、変わったことがあった。
クリスがいつもより少しだけ、わたしの方を見ていた気がした。
気のせいかもしれない。
でもその視線が、どうにも、温かかった。
社交界の噂はそれからも続いた。
でもわたしは少しずつ、受け流すことを覚えていった。
傷つかないわけではない。
ただクリスがそばにいてくれる限り、立っていられる気がした。
それが慰めの結婚でも、今はそれで十分だと思っていた。
本当は、全然十分じゃなかったけれど。
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