二番目でいい。それがあなたの隣にいられる唯一の方法だから

柴田はつみ

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第19話「熱と本音」

 異変に気づいたのは、朝だった。
 目が覚めたとき、体が重かった。
 頭がぼんやりとして、喉がひりひりした。布団の中にいるのに、なぜか寒かった。
 おかしいな、と思いながら起き上がろうとした。

 めまいがした。
 仕方なく、もう一度横になった。
 エマが様子を見に来たのは、しばらくしてからだった。
「奥様、朝食のお時間ですがまあ、お顔が赤い」
「少し、頭が重くて」
 エマが額に手を当てた。
「熱がありますよ。今日は安静にしてください」
「でも屋敷のことが」
「わたくしたちがなんとかします」エマが毅然と言った。「奥様は寝ていてください」

 結局、その日は一日ベッドの中で過ごした。
 熱は思ったより高かったらしく、昼を過ぎても下がらなかった。
 エマが定期的に様子を見に来て、濡れた布を額に当ててくれた。水を持ってきてくれて、薄いスープを運んでくれた。
 ありがたかった。

 ただ体より、頭の中の方が熱かった。
 昨夜のレオンの言葉が、ぐるぐると回っていた。
 クリスが一番よく話していたのは、奥様のことでしたよ。
 熱のせいで、余計に頭から離れなかった。

 夕方、扉がノックされた。
「エマ、もう大丈夫」
 言いかけて、止まった。
 入ってきたのは、エマではなかった。
 クリスだった。
 仕事着のまま、少し急いできたような気配だった。

「聞いた」とクリスが言った。
「熱が出たと」
「……誰から」
「ジョエルから」
 クリスが部屋に入ってきた。ベッドの傍らに来て、わたしを見た。
「顔が赤い」
「熱があるから」
「そうだな」
 クリスが額に手を当てた。

 大きな手だった。ひんやりとして、気持ちが良かった。
「……高いな」
「夕方には下がると思うわ」
「下がっていない」
「少し、下がったわ」
「強がるな」

 クリスが手を引いた。それから椅子を引いて、ベッドの傍らに座った。
「何かいるか。水か、それとも何か食べるか」
「エマがしてくれているから、大丈夫よ」
「エマに任せることと、俺がいることは別だ」
 その言葉が、熱のせいか、胸に真っ直ぐ届いた。

 クリスはそれから、部屋を出なかった。
 椅子に座って、わたしの様子を見ていた。
 仕事があるだろうに、と思った。
「クリス、仕事は」
「今日は終わりにした」
「でも」
「アリス」

 静かだけれど、有無を言わせない声だった。
「休め」
 わたしは黙った。

 クリスがエマから濡れた布を受け取って、自分でわたしの額に当ててくれた。
 大きな手が、丁寧に布を当てる。
 それだけのことなのに、目の奥が熱くなった。
 熱のせいだ、と思った。
 熱のせいに、した。

 夜になっても、熱は下がらなかった。
 クリスはまだいた。
 椅子に座って、静かに本を読んでいた。ときどき顔を上げて、わたしの様子を確かめた。
 わたしはぼんやりと天井を見ていた。
 頭が重くて、体が怠くて、思考がうまく働かなかった。
 そのせいだろうか。

 いつもなら飲み込む言葉が、胸の中で溢れそうになっていた。
 クリスが好きだ。
 ずっと好きだった。幼い頃から、今日まで、ずっと。

 隣にいてほしかった。こうして傍にいてほしかった。
 慰めの結婚でも、そばにいられるなら、と思っていた。
 でも本当は慰めなんかじゃなくて、本当に好きでいてほしかった。

 頭の中でそんな言葉がぐるぐると回った。
 言ってはいけない、と思った。
 でも熱が、歯止めを溶かしていくようだった。

「クリス」
 気づいたら、呼んでいた。
 クリスが本から顔を上げた。
「なんだ」
 わたしは天井を見たまま言った。
「わたし……クリスのこと」
「うん?」
「好き」
 言ってしまった。

 言ってしまってから、体がぴんと固まった。
 クリスが、動かなかった。
 何も言わなかった。
 沈黙が落ちた。
 やばい、と思った。
 熱のせいで、言ってしまった。

 起き上がろうとしたけれど、体が言うことを聞かなかった。
「……ねているな」
 クリスが静かに言った。
「ねていない、わ」
「目が閉じている」
「閉じていない」
 でも声が遠くなっていく気がした。
 クリスの気配がした。近くに来た気がした。

 額に、何か冷たいものが当たった。
 クリスの手だ、と思った。
 それから、声が聞こえた。
 遠くて、でもはっきりと聞こえた。
「……知っていた」

 翌朝、目が覚めた。
 熱は下がっていた。
 体が軽くなっていた。
 窓から朝の光が差し込んでいた。
 椅子には、誰もいなかった。

 クリスはもう部屋を出たのだろう。
 わたしは天井を見上げながら、昨夜のことを思い出そうとした。
 熱があって、ぼんやりしていた。
 クリスがそばにいてくれた。
 そして何か言った気がする。
「……好き、って」
 言ったのか、夢だったのか。

 起き上がって、額に手を当てた。熱はない。
 でも顔が熱かった。
 夢であってほしい、と思った。
 でも言った気がした。
 そしてクリスが何か、言った気がした。
 何と言ったのか思い出せなかった。

 朝食の時間、食堂に行くと、クリスがいた。
 いつも通り席についていた。
 わたしが入ると顔を上げた。
「熱は」
「下がったわ」
「そうか」クリスが頷いた。「無理するな」
「ありがとう、昨夜は」
 クリスが少し間を置いた。
「礼はいい」

 それだけ言って、コーヒーを飲んだ。
 わたしは席に座りながら、こっそりクリスを見た。
 いつも通りの顔だった。
 涼しげで、穏やかで、表情が読めない。
 昨夜のことを、何か言うつもりはないのだろうか。

 聞けなかった。
 もし夢ではなく本当に言ってしまっていたとしたらクリスの反応が怖かった。
「アリス」
 突然名前を呼ばれて、わたしは顔を上げた。
「なに?」

 クリスがわたしをまっすぐ見た。
 何か言いかけた。
 でも少しの間があって
「ちゃんと食べろ」
 それだけだった。
 わたしは「ええ」と答えて、スープを一口飲んだ。

その日一日、クリスはわたしをよく見ていた。
仕事の合間に部屋を覗きに来た。
昼食の後、少し休めと言った。
夕方には温かい飲み物を持ってきてくれた。
何も言わなかった。

昨夜のことも、わたしの言葉も、何も。
ただそばにいてくれた。
知っていた、と聞こえた気がした夜の言葉が。
夢だったのか、本当のことだったのか。
わたしにはまだ、わからなかった。

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