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第八話「朝露のように、消えた人」
アリアがいなくなった朝は、晴れていた。
皮肉なくらい、よく晴れた秋の朝だった。
馬車が門を出ていく音を、リオンは執務室の窓から聞いた。
見送りには行かなかった。
行けなかった。
あの微笑みをもう一度見たら自分が何をするかわからなかったから。
馬車の音が遠ざかって、消えた。
屋敷が、しんと静まり返った。
消えた。
三年間、ずっとそこにいた人が朝露のように、消えた。
リオンは窓から離れた。
椅子に座った。
机の上の書類を見た。
一枚も、手がつけられなかった。
ハインツが昼食を運んできた。
「旦那様、お食事をお持ちしました」
「いらない」
「……昨夜から何も召し上がっておられません」
「いらないと言った」
ハインツが盆を置く音がした。
「置いておきます」
足音が扉に向かう。
「ハインツ」
足音が止まった。
リオンは窓の外を見たまま言った。
「アリアは笑っていたか」
「……はい」
「そうか」
「最後まで、穏やかなお顔でございました」
リオンは何も言わなかった。
「旦那様」
ハインツの声が、静かに続いた。
「奥様は最後に、こう申しておりました」
「……なんと言った」
「この屋敷に来られて、よかったと」
リオンの手が、膝の上で固く握られた。
「使用人一人一人に、丁寧にお礼を言ってくださいました。グレタには料理の話を、私には三年間の感謝をマリアンヌには」
ハインツが少し、間を置いた。
「次の奥様をよく支えてあげてください、と」
リオンは動かなかった。
「……次の、奥様」
「はい」
「俺がまた、妻を迎えると思っているのか」
「奥様はそれを、願っておられるのです」
リオンは目を閉じた。
次の奥様を支えてあげてください。
あの人は最後まで、自分のことより他人のことを。
「ハインツ」
「はい」
「俺は間違えたな」
老執事は、すぐには答えなかった。
長い沈黙の後、静かに言った。
「はい」
素直な答えだった。
慰めでも、フォローでもない、真っ直ぐな答えだった。
「気づくのが遅すぎました」
「……そうだな」
「しかし旦那様」
「なんだ」
「遅すぎたからといって腐っておられる時間は、ないと思います」
リオンが、ハインツを見た。
老執事は静かに立っていた。深い皺の奥の目が、厳しくも温かかった。
「奥様は旦那様の幸せを願っておられる。ならば旦那様がすべきことは、ひとつではないかと」
「……何をしろと言いたい」
「変わることです」
ハインツが一礼した。
「奥様のためではなく、次に出会う誰かのためでもなく旦那様自身のために」
足音が扉に向かい、静かに閉まった。
リオンは一人になった。
机の上の昼食が、湯気を立てていた。
夕刻、クロードが来た。
応接室で向かい合って、しばらく二人とも黙っていた。
クロードは何も聞かなかった。
ただワインを一口飲んで、窓の外を見ていた。
「言いたいことがあるなら、言え」
リオンが先に口を開いた。
クロードが少し、口元を動かした。
「言いたいことは山ほどある」
「聞く」
「全部聞くか」
「ああ」
クロードがリオンを見た。
「お前は昔から、大切なものに気づくのが遅い」
「……わかっている」
「父君の育て方が悪かった。感情を殺せと育てられた。それは同情する」
「同情はいらない」
「しかし」
クロードが続けた。
「それを言い訳にして、三年間逃げ続けたのはお前自身だ」
リオンは反論しなかった。
「あの夫人は、三年間笑い続けた。誰にも弱音を吐かず、完璧な侯爵夫人としてただひとり、耐え続けた」
「わかっている」
「お前にはわからん」
クロードの声が、静かに低くなった。
「あの夫人がどれほど泣いたか。どれほど待ったか。どれほどお前に振り向いてほしかったか」
リオンの目が、揺れた。
「俺には」
「わからんだろう。見ていなかったのだから」
窓の外に、夕暮れが広がっていた。
「クロード」
「なんだ」
「俺はあの人を、好きだったのかもしれない」
クロードが、静かにリオンを見た。
「かもしれない、ではないだろう」
「……ああ」
リオンが目を伏せた。
「好きだった。いつからかわからない。気づいた時にはもう、遅かった」
「そうか」
「セレスティアのことは昔の気持ちが蘇りかけただけだ。あの人と比べるものですら、なかった」
クロードがワインを置いた。
「それを、夫人に言ったか」
「……言えなかった」
「なぜ」
「怖かった」
リオンが窓の外を見た。
「拒絶されることが。遅すぎると言われることが。もっと早くに気づけと怒られることが」
「怒られた方が、よかったな」
クロードが静かに言った。
「あの夫人は怒らなかった。最後まで微笑んでいた。それがどれだけ残酷なことか」
リオンは何も言えなかった。
「怒ってくれれば、まだよかった。泣いてくれれば、まだ受け止め方があった」
クロードの声が、低く沈んだ。
「しかしあの静けさはもう十分に泣き終わった後の顔だ」
部屋が静まり返った。
夕陽が窓から差し込んで、二人の影を長く伸ばした。
「……どうすればいい」
リオンが、珍しく縋るように言った。
クロードが見つめた。
「今すぐにできることは、何もない」
「そうか」
「ただ」
クロードが立ち上がった。
「変われ。本当の意味で。あの夫人のためではなくお前自身が、人間らしくなれ」
「人間らしく」
「感情を持て。弱さを認めろ。誰かに頼ることを覚えろ」
リオンは黙って聞いていた。
「それができた時どうするかは、お前が決めることだ」
クロードが歩き出した。
扉の前で、振り返った。
「リオン」
「なんだ」
「あの夫人は、今でもお前の幸せを願っているぞ」
扉が、静かに閉まった。
夜、リオンは久しぶりに寝室に入った。
三日間、執務室で過ごしていた。
部屋は綺麗だった。
アリアがいた痕跡はほとんど、なかった。
丁寧に整えられたベッド。片付けられた化粧台。空になった引き出し。
しかし窓辺に、一輪だけ小さな白い花が残っていた。
マリアンヌが忘れたのか、アリアが意図して残したのか、わからなかった。
リオンはその花を見つめた。
小さくて、白くて、静かに咲いていた。
アリアに、似ていた。
リオンは花に触れずに、そっと離れた。
ベッドに腰を下ろして、天井を見上げた。
広いベッドが今夜は、途方もなく広かった。
「……馬鹿だな、俺は」
誰もいない部屋に、声が落ちた。
答える人は、もういなかった。
ただ夜風が窓を揺らして白い花が、かすかに揺れた。
まるで、何かに答えるように。
皮肉なくらい、よく晴れた秋の朝だった。
馬車が門を出ていく音を、リオンは執務室の窓から聞いた。
見送りには行かなかった。
行けなかった。
あの微笑みをもう一度見たら自分が何をするかわからなかったから。
馬車の音が遠ざかって、消えた。
屋敷が、しんと静まり返った。
消えた。
三年間、ずっとそこにいた人が朝露のように、消えた。
リオンは窓から離れた。
椅子に座った。
机の上の書類を見た。
一枚も、手がつけられなかった。
ハインツが昼食を運んできた。
「旦那様、お食事をお持ちしました」
「いらない」
「……昨夜から何も召し上がっておられません」
「いらないと言った」
ハインツが盆を置く音がした。
「置いておきます」
足音が扉に向かう。
「ハインツ」
足音が止まった。
リオンは窓の外を見たまま言った。
「アリアは笑っていたか」
「……はい」
「そうか」
「最後まで、穏やかなお顔でございました」
リオンは何も言わなかった。
「旦那様」
ハインツの声が、静かに続いた。
「奥様は最後に、こう申しておりました」
「……なんと言った」
「この屋敷に来られて、よかったと」
リオンの手が、膝の上で固く握られた。
「使用人一人一人に、丁寧にお礼を言ってくださいました。グレタには料理の話を、私には三年間の感謝をマリアンヌには」
ハインツが少し、間を置いた。
「次の奥様をよく支えてあげてください、と」
リオンは動かなかった。
「……次の、奥様」
「はい」
「俺がまた、妻を迎えると思っているのか」
「奥様はそれを、願っておられるのです」
リオンは目を閉じた。
次の奥様を支えてあげてください。
あの人は最後まで、自分のことより他人のことを。
「ハインツ」
「はい」
「俺は間違えたな」
老執事は、すぐには答えなかった。
長い沈黙の後、静かに言った。
「はい」
素直な答えだった。
慰めでも、フォローでもない、真っ直ぐな答えだった。
「気づくのが遅すぎました」
「……そうだな」
「しかし旦那様」
「なんだ」
「遅すぎたからといって腐っておられる時間は、ないと思います」
リオンが、ハインツを見た。
老執事は静かに立っていた。深い皺の奥の目が、厳しくも温かかった。
「奥様は旦那様の幸せを願っておられる。ならば旦那様がすべきことは、ひとつではないかと」
「……何をしろと言いたい」
「変わることです」
ハインツが一礼した。
「奥様のためではなく、次に出会う誰かのためでもなく旦那様自身のために」
足音が扉に向かい、静かに閉まった。
リオンは一人になった。
机の上の昼食が、湯気を立てていた。
夕刻、クロードが来た。
応接室で向かい合って、しばらく二人とも黙っていた。
クロードは何も聞かなかった。
ただワインを一口飲んで、窓の外を見ていた。
「言いたいことがあるなら、言え」
リオンが先に口を開いた。
クロードが少し、口元を動かした。
「言いたいことは山ほどある」
「聞く」
「全部聞くか」
「ああ」
クロードがリオンを見た。
「お前は昔から、大切なものに気づくのが遅い」
「……わかっている」
「父君の育て方が悪かった。感情を殺せと育てられた。それは同情する」
「同情はいらない」
「しかし」
クロードが続けた。
「それを言い訳にして、三年間逃げ続けたのはお前自身だ」
リオンは反論しなかった。
「あの夫人は、三年間笑い続けた。誰にも弱音を吐かず、完璧な侯爵夫人としてただひとり、耐え続けた」
「わかっている」
「お前にはわからん」
クロードの声が、静かに低くなった。
「あの夫人がどれほど泣いたか。どれほど待ったか。どれほどお前に振り向いてほしかったか」
リオンの目が、揺れた。
「俺には」
「わからんだろう。見ていなかったのだから」
窓の外に、夕暮れが広がっていた。
「クロード」
「なんだ」
「俺はあの人を、好きだったのかもしれない」
クロードが、静かにリオンを見た。
「かもしれない、ではないだろう」
「……ああ」
リオンが目を伏せた。
「好きだった。いつからかわからない。気づいた時にはもう、遅かった」
「そうか」
「セレスティアのことは昔の気持ちが蘇りかけただけだ。あの人と比べるものですら、なかった」
クロードがワインを置いた。
「それを、夫人に言ったか」
「……言えなかった」
「なぜ」
「怖かった」
リオンが窓の外を見た。
「拒絶されることが。遅すぎると言われることが。もっと早くに気づけと怒られることが」
「怒られた方が、よかったな」
クロードが静かに言った。
「あの夫人は怒らなかった。最後まで微笑んでいた。それがどれだけ残酷なことか」
リオンは何も言えなかった。
「怒ってくれれば、まだよかった。泣いてくれれば、まだ受け止め方があった」
クロードの声が、低く沈んだ。
「しかしあの静けさはもう十分に泣き終わった後の顔だ」
部屋が静まり返った。
夕陽が窓から差し込んで、二人の影を長く伸ばした。
「……どうすればいい」
リオンが、珍しく縋るように言った。
クロードが見つめた。
「今すぐにできることは、何もない」
「そうか」
「ただ」
クロードが立ち上がった。
「変われ。本当の意味で。あの夫人のためではなくお前自身が、人間らしくなれ」
「人間らしく」
「感情を持て。弱さを認めろ。誰かに頼ることを覚えろ」
リオンは黙って聞いていた。
「それができた時どうするかは、お前が決めることだ」
クロードが歩き出した。
扉の前で、振り返った。
「リオン」
「なんだ」
「あの夫人は、今でもお前の幸せを願っているぞ」
扉が、静かに閉まった。
夜、リオンは久しぶりに寝室に入った。
三日間、執務室で過ごしていた。
部屋は綺麗だった。
アリアがいた痕跡はほとんど、なかった。
丁寧に整えられたベッド。片付けられた化粧台。空になった引き出し。
しかし窓辺に、一輪だけ小さな白い花が残っていた。
マリアンヌが忘れたのか、アリアが意図して残したのか、わからなかった。
リオンはその花を見つめた。
小さくて、白くて、静かに咲いていた。
アリアに、似ていた。
リオンは花に触れずに、そっと離れた。
ベッドに腰を下ろして、天井を見上げた。
広いベッドが今夜は、途方もなく広かった。
「……馬鹿だな、俺は」
誰もいない部屋に、声が落ちた。
答える人は、もういなかった。
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