指輪を外した朝に

柴田はつみ

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第十五話「グレタの、ローズヒップ」

グレタは朝が好きだった。
誰もまだ動き出す前の、静かな厨房。パンを捏ねる音だけが響いて、窯が温まっていく匂いがしてそれがグレタの、一日の始まりだった。

三十年以上、そうしてきた。
しかし今朝は少し、違った。
「グレタ」
厨房の入り口に、リオンが立っていた。
グレタは振り返って危うく、ボウルを落としそうになった。
旦那様が厨房に来るなど三十年で、初めてだった。

「だ、旦那様。どうなさいましたか」
「少し、いいか」
「は、はい。もちろんでございます」
リオンが厨房に入ってきた。
広いはずの厨房がなぜか、少し狭く感じた。

「ローズヒップのジャムを作れるか」
グレタは驚いた。
「ローズヒップの、ジャムでございますか」
「ああ」
「それはもちろん作れますが」
グレタはリオンを見た。

旦那様がジャムを所望するなど、これも初めてだった。
「奥様が」
リオンが少し、口ごもった。
「奥様が、好きだったと聞いた」

グレタの胸がじわりと、熱くなった。
「……はい」
静かに言った。
「毎朝、召し上がっておられました。焼きたてのパンに、たっぷりと」
「そうか」
「奥様はいつも美味しいと言ってくださいました。それが、私の励みで」
グレタは窓の外を見た。

まだ夜明け前の空が、少しずつ白んでいた。
「旦那様はローズヒップのジャムを、召し上がったことはございますか」
「……ない」
「一度も?」
「ああ」
グレタは少し、唇を結んだ。

三年間、毎朝作り続けたジャムを旦那様は一度も食べたことがなかった。
奥様が一人で食べていた朝食を旦那様は知らなかった。

「作ります」
グレタが言った。
「今日作ります。召し上がってみてください」
リオンが小さくうなずいた。
「頼む」
「旦那様」
リオンが振り返った。
グレタは三十年の思いを込めて、言った。

「奥様は、毎朝一人で食べておられました。でも美味しいと言ってくださった。一度も、不満をおっしゃらなかった」

リオンが、黙って聞いていた。
「ただ……」
グレタの目が、少し潤んだ。
「お隣に誰かいればもっと、美味しかっただろうと。私はずっと、そう思っておりました」
部屋が静まり返った。

窯の火が、静かに燃えていた。
リオンは何も言わなかった。
ただ一礼して、厨房を出た。
廊下に出た瞬間、リオンは立ち止まった。
壁に手をついて、目を閉じた。

お隣に誰かいれば、もっと美味しかっただろう。
三年間毎朝、一人で。
俺は何をしていたんだ。

朝食の時間。
テーブルに、ローズヒップのジャムが置かれていた。
深い赤色の、宝石のようなジャムが。
リオンは席に着いて、それを見た。
ハインツが焼きたてのパンを運んでくる。

「旦那様、本日はローズヒップのジャムをご用意いたしました」
「……ああ」
リオンはパンにジャムを塗った。
薄く、不器用に。
一口、食べた。
甘かった。
少し酸っぱくて、それから甘くて、温かいパンとよく合った。
これを三年間、アリアは一人で食べていた。
美味しいと思いながら誰にも言えずに。

リオンはもう一口食べた。
窓の外に、朝の光が差し込んでいた。
隣の椅子が空だった。
いつも空だった。

しかし今日はその空の椅子が、今まで以上に、重く見えた。
「ハインツ」
「はい」
「今日の朝食は美味かった」
ハインツが深く、一礼した。
「グレタに、伝えます」

その日の午後、リオンは書斎で便箋を取り出した。
ペンを持った。
アリアからの返事が、昨日届いていた。
甘いものは、好きです。
ローズヒップのジャムが特に。

グレタによろしくお伝えください。
短かったが前より、温かかった。
リオンはゆっくりと、書き始めた。

アリア
今朝、ローズヒップのジャムを食べた。
初めて食べた。
美味かった。
三年間お前が一人で食べていたものを、俺は知らなかった。
グレタが言っていた。
お隣に誰かいれば、
もっと美味しかっただろう、と。
俺がいればと、今更ながらに思う。
遅すぎることは、わかっている。
それでも知りたかった。
お前が好きだったものを。
お前が美しいと思ったものを。
お前が、泣きたかった夜を。
全部知りたかった。
リオン

書き終えて、読み返した。
今まで一番、長い手紙だった。
送るべきか、また迷った。
しかし今日は迷わなかった。
すぐに封をした。
これが今の俺だ。
取り繕わない。
情けなくても、遅すぎてもこれが本当のことだ。

アリアに手紙が届いたのは、翌朝だった。
封を開けて、読んだ。
読みながら手が、震えた。
お前が好きだったものを。
お前が美しいと思ったものを。
お前が、泣きたかった夜を。
全部知りたかった。
アリアは便箋を、胸に押し当てた。
目の奥が、熱くなった。
リオン様。

あなたは今変わっているのですか。
本当に。
それとも私がまだ、あなたを忘れられないだけですか。
涙が、一粒こぼれた。
拭いた。

もう一粒こぼれた。
また拭いた。
「奥様?」
侍女が驚いて近づいてくる。
「何でもないわ」
「でも……」
「何でもない」
アリアは笑った。

泣きながら笑った。
どちらが本当かわからない顔で。
しばらく、そのまま座っていた。
手紙を膝の上に置いて。
窓の外に、秋の空が広がっていた。
答えはまだ出ない。
でも今日は少し、泣いてもいいかもしれない。
アリアはそっと、目を閉じた。
涙が、静かに流れた。
痛みと、温かさが一緒に。

その日の夕方、カイルが来た。
アリアの顔を見てすぐに気づいた。
「泣きましたね」
「……目が赤いですか」
「ええ」
カイルが隣に座った。

何も聞かなかった。
ただ温かいお茶を、アリアの前に置いた。
「カイル」
「はい」
「私はまだ、整理がついていないみたい」
「わかっています」
「ごめんなさい」
「謝らないでください」
カイルが静かに言った。

「俺は待つと言いました。それは本当のことです」
アリアはお茶を受け取った。
温かかった。
「カイルはいつもそこにいてくれるのね」
「ええ」
「子供の頃から」
「ええ」
「これからも?」
カイルが少し、黙った。そして

「これからも」
アリアはお茶を一口飲んだ。
温かさが、喉から胸に広がった。
「……ありがとう」
「どういたしまして」

二人で、しばらく黙ってお茶を飲んだ。
夕暮れが窓から差し込んで、部屋をオレンジ色に染めた。
アリアの胸の中にいくつかの灯りが、静かに揺れていた。
リオンからの手紙。
カイルの温かさ。

エドワードの誠実さ。
それぞれが消えずに、そこにあった。
私はどこへ向かっているのだろう。
まだわからない。
でも歩いている。
確かに、一歩ずつ歩いている。
夕陽が沈んでいく。
アリアはそれを、カイルと並んで静かに見ていた。

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