指輪を外した朝に

柴田はつみ

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第二十一話「春の足音」

二月になった。
まだ寒かった。
しかし朝の空気が少しだけ、柔らかくなっていた。
アリアは庭に出て、薔薇の木を見た。
秋に見た時は、ただの枯れ枝だった。
しかし今日は小さな芽が、ついていた。
赤くて、小さくて、まだほんの少しだけ。
しかし確かにそこにあった。

春が、来ようとしている。
アリアはその芽を、そっと指先で触れた。
冷たかった。
しかし生きていた。
「アリア様」
背後から声がした。
振り返ると、侍女が少し慌てた顔で立っていた。

「お客様がいらっしゃいました」
「誰?」
「イザベル伯爵夫人です」
アリアは少し、驚いた。
約束はなかった。
「すぐに行きます」

応接室に入ると、イザベルが立っていた。
いつもの堂々とした様子でしかし今日は、少し急いでいるような空気があった。
「突然ごめんなさい、アリア様」
「いいえ。どうなさいましたか」
二人で座った。
お茶が運ばれてくる。

イザベルがカップを受け取りながら、アリアを見た。
「単刀直入に言います」
「はい」
「リオン様のことよ」
アリアの手が、膝の上でそっと重なった。
「リオン様がどうかしましたか」
「変わったわ」
イザベルが静かに言った。

「先週、ランベール家の夜会に出ていらした。私も同席していたのだけれど以前とは、全然違った」
「どのように」
「話しかけた人に、ちゃんと答えていた。表情が少し、柔らかかった」
アリアは静かに聞いていた。
「氷の侯爵が溶け始めている、と感じた。
社交界でも、噂になっているわ」
「そうですか」

「ただ」
イザベルが続けた。
「一つだけ気になることがあって、今日来たのです」
「なんでしょう」
イザベルがカップを置いた。
「リオン様に縁談が来ているという話が、出始めています」
アリアの胸が鈍く、痛んだ。

「縁談」
「ええ。まだ本人が受けたわけではないわ。ただ周囲が動き始めている。離縁から半年が経って、そろそろ次を、という話が出てきているの」
「そうですか」
アリアは窓の外を見た。
庭に、薄日が差していた。

「アリア様」
「はい」
「あなたはどうするつもりですか」
アリアはイザベルを見た。
社交界の女王が、真剣な目でアリアを見ていた。

品定めではなく、心配している目で。
「春になったら会いに行くつもりです」
イザベルが、少し目を細めた。
「いつ、そう決めたの」
「少し前に」
「リオン様は知っているの?」
「手紙で伝えました」
イザベルが静かに頷いた。

「ならば急いだ方がいいかもしれない」
「縁談のことが、気になりますか」
「気にならない、とは言えないでしょう」
イザベルがアリアを見た。

「ただ焦って動くのも違う。あなたが自分の意志で動く時でなければ、意味がない」
「はい」
「ただし」
イザベルが立ち上がった。
「春はもうすぐよ」
アリアも立ち上がった。
「……はい」

「あなたが動く時を社交界は、待っています」
イザベルが微笑んだ。
温かくて、力強い微笑みだった。
「応援しているわ、アリア様」

イザベルが帰った後、アリアは一人で庭に出た。
薔薇の芽が、午後の光を受けていた。
縁談。
頭の中で、その言葉が響いた。
リオンに別の縁談が来ている。
当然のことだった。

離縁して半年が経った。周囲が動き始めるのは当然だった。
しかし。
当然だとわかっていても。
胸が、痛かった。
じくじくと、静かに。
アリアは薔薇の芽を見た。
小さくて、赤くてそれでも確かに、芽吹いていた。

春になったら、会いに行く。
カイルと約束した。
リオン様にも伝えた。
春はもうすぐだ。
アリアは深く、息を吸った。
冷たい空気が、肺に満ちた。
怖さより好きという気持ちが、大きくなっている。

お母様が言っていた。
怖さより大きくなった時が答えの出る時だと。
今の私は
アリアは薔薇の芽に触れた。
小さな芽が、指先で揺れた。
今の私はもう、動ける。

屋敷に戻って、机に向かった。
便箋を取り出した。
リオンへの手紙ではなかった。
今日は自分への手紙を書こうと思った。
誰にも送らない、ただ自分のための言葉を。

私へ
三年間、笑い続けた。
誰にも弱さを見せなかった。
それを後悔はしていない。
ただ。
もう笑い続けなくていい。
泣きたい時は、泣いていい。
怖い時は、怖いと言っていい。
好きな人に好きだと、言っていい。
春になったら会いに行く。
怖くても。

また傷つくかもしれなくても。
それでも動く。
これが私の答えだ。
アリア・ローゼンベルクへ

書き終えた。
送らない手紙を、折りたたんだ。
引き出しの一番奥に、しまった。
リオンからの六通の手紙の、隣に。
引き出しを閉めた。
さあ。
春を迎えよう。

その頃、ハイドリッヒ家では。
クロードが執務室に来ていた。
「縁談の話、聞いたか」
リオンが書類から顔を上げた。
「聞いた」
「どうするつもりだ」
「断る」
即答だった。
クロードが少し、驚いたように見た。
「迷わないのか」
「ああ」
「理由は」
リオンが窓の外を見た。

雪解けが始まっていた。
庭の端に、まだ白いものが残っていたが土が、顔を出し始めていた。
「待っている人がいる」
「……アリア夫人か」
「ああ」
クロードが静かに聞いていた。
「春になったら来ると言ってくれた」
「それを信じているのか」
「ああ」
リオンが振り返った。

クロードを、まっすぐに見た。
「あの人は正直だ。言ったことは、やる」
クロードが少し、口元を緩めた。
「随分と信じているな」
「三年間、見ていなかった分今は、ちゃんと見ている」
「そうか」
「縁談は断る。それだけだ」
クロードが立ち上がった。

「わかった。私から断りを入れよう」
「頼む」
クロードが扉に向かいながら振り返った。
「リオン」
「なんだ」
「お前、本当に変わったな」
リオンは答えなかった。

しかしクロードにはその沈黙が、肯定に聞こえた。
扉が閉まった。
リオンは一人になった。
窓辺の白い花を見た。
ハインツが丁寧に世話をしているおかげでまだ、咲いていた。
少し、花びらが透き通ってきていたがまだ、確かに咲いていた。

春まで持ってくれ。
アリアが来る、その日まで。
リオンは窓の外を見た。
雪解けの庭に、午後の光が差していた。
土が顔を出した場所に小さな、緑が見えた。
春が、来ようとしている。
リオンは初めて、その緑を、美しいと思った。

以前は庭など、見ていなかった。
しかし今は小さな緑が、どこより温かく見えた。
「ハインツ」
廊下に向かって、呼んだ。
ハインツがすぐに来た。
「はい、旦那様」
「庭の緑が出てきたな」
ハインツが少し、驚いた顔をしてそれから、深く頷いた。
「ええ。今年は早いようで」
「そうか」

「旦那様、庭をご覧になりましたか」
「ああ。今日、初めて気づいた」
ハインツが、目を細めた。
「奥様が庭の花がお好きでしたから」
「……そうだったな」
「毎朝、庭を眺めておられました。特に春は花が咲くたびに、嬉しそうにされていて」
リオンは黙って聞いていた。

「旦那様にお伝えしたこともあったのですが—お忙しそうで」
「……届いていなかった」
「はい」
「今年はちゃんと見る」
ハインツが、深く一礼した。
「奥様も喜ばれると思います」
足音が遠ざかっていく。
リオンは窓の外を見た。
小さな緑が、風に揺れていた。

アリアが好きだった庭が今年は、ちゃんと見える。
春になったら一緒に見よう。
今度こそ隣で。

三月になった。
ある朝、アリアが庭に出ると薔薇の芽が、大きくなっていた。
先月よりずっと、はっきりと。

緑の芽が、枝の先で光を受けていた。
「綺麗ね」
思わず、声に出た。
誰かに言いたい、と思った。
今日はその「誰か」が、はっきりしていた。
アリアは屋敷に戻った。
机に向かった。
便箋を取り出した。

リオン様
今日、庭の薔薇が芽吹いていました。
綺麗だと思ってあなたに言いたくなりました。
三年間、綺麗だと思うたびに言えなかった。
これからは言います。
春が来ています。
もうすぐ伺います。
アリア

封をした。
今日は迷わなかった。
すぐに使用人に渡した。
窓の外に、春の光が差していた。
柔らかくて、温かくて冬とは全然違う色をした光が。
春が来ている。
私も動く時が来た。
アリアは深く息を吸った。
春の空気が、冷たさの中に温かさを含んでいた。

その日の夕方、リオンに手紙が届いた。
読んだ。
綺麗だと思ってあなたに言いたくなりました。
リオンは立ち上がった。
庭に出た。
生まれて初めて一人で、庭を歩いた。
土の匂いがした。
草の匂いがした。

小さな緑が、足元に広がっていた。
リオンはしゃがんでその緑を、じっと見た。
小さくて、柔らかくて力強かった。
アリアはこの庭が好きだった。
毎朝、ここに出ていた。
俺は一度も、一緒に歩かなかった。
リオンは立ち上がった。
庭の奥まで、歩いた。

池のほとりまで来た。
水面が、春の空を映していた。
青くて、高くてどこまでも広い空を。
綺麗だ。
リオンは初めて、そう思った。
声にはなかった。
しかし確かに、思った。
アリアに言いたい。

綺麗だと。
この空が、この庭が綺麗だと。
隣で一緒に、見たい。
風が吹いた。
池の水面が、さざ波を立てた。
空が、揺れた。
リオンはしばらく、そこに立っていた。
春風が、頬を撫でた。
温かかった。

屋敷に戻って、すぐに手紙を書いた。

アリア
薔薇が芽吹いたか。
こちらの庭にも緑が出てきた。
今日、初めて一人で庭を歩いた。
綺麗だった。
お前に言いたいと思った。
三年間、一度も歩かなかった庭が今日は、こんなに綺麗だった。
来い。
待っている。
庭を一緒に歩こう。
リオン

書き終えた。
今までで一番、短い手紙だった。
しかし今までで一番、言いたいことが詰まっていた。
封をした。
窓辺の白い花を見た。
花びらが、春の光を受けていた。
まだ咲いている。
よく、持ってくれた。
もう少しだけ咲いていてくれ。

アリアに手紙が届いたのは、翌朝だった。
封を開けた。
読んだ。
来い。
待っている。
たった二行だった。
しかし胸に、まっすぐに届いた。
アリアは便箋を置いた。
ソフィアの部屋に向かった。
扉を叩いた。
「お母様」
「どうぞ」
扉を開けた。
ソフィアが振り返った。
アリアの顔を見てすぐに、わかったようだった。

「行くのね」
「はい」
「いつ?」
「明日」
ソフィアが立ち上がった。
娘に近づいて両手で、顔を包んだ。
温かかった。
「怖い?」
「……少し」
「好きな気持ちの方が大きい?」
アリアは頷いた。

「ずっと大きくなっています」
ソフィアが微笑んだ。
「ならば行きなさい」
「はい」
「幸せになりなさい」
「はい」
「怖くなったら帰っておいで」
アリアの目が、じわりと潤んだ。
「……帰りません」
「そう」
ソフィアが笑った。
「それでいい」
母と娘がしばらく、そのまま向かい合っていた。

春の光が、窓から差し込んでいた。
温かくて、柔らかくて冬が終わったことを、告げるような光が。

その夜、アリアは荷物を少しだけまとめた。
たくさんは、持っていかなかった。
ただ引き出しから、リオンの手紙を全部取り出した。

六通の手紙を、丁寧にバッグの中にしまった。
それから自分への手紙も、一緒にしまった。
これが私の三年間だ。
そしてこれから新しい時間が始まる。
バッグを閉じた。

窓の外に、夜の庭が広がっていた。
月の光が、薔薇の芽を照らしていた。
明日あの芽は、もう少し大きくなっているだろう。

明日アリアは、ここにいない。
しかし薔薇は、ここで咲く。
来年の春も、またここで咲く。
私もどこかで、咲こう。
自分の場所で、自分の顔で。
アリアは布団に入った。
目を閉じた。

眠れるか、と思っていたが
今夜も、よく眠れた。

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