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第十一章 「離れようとした理由」
王宮からの急ぎの使いは、レオンハルトが予想していたものより、ずっと面倒な内容だった。
王太子リシャールは執務机の向こうで、数枚の書状を広げていた。朝から書類に追われていたらしく、机の上には各地から届いた報告書が積まれている。その中に、クラウスの名があった。
「クラウス殿が、私に面会を求めてきた」
リシャールはそう言って、レオンハルトを見た。
「用件は妹君、つまり君の妻であるエリシア夫人のことだ。彼はまだ正式な申し立てにはしていないが、必要ならば王家を通して、この婚姻について確認したいと言ってきている」
レオンハルトは、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥を強く押されたような感覚を覚えた。
やはり、そうだった。
エリシアが毎日のように書いていた手紙は、兄への相談だった。彼女は一人で耐えていたのではなく、もう外へ助けを求めようとしていた。そう考えると、意外ではなかった。むしろ、当然だった。
初夜に好きになるなと言った夫が、妻に何を期待していたのか。
何も期待する資格など、最初からなかった。
「正式に動くつもりでしょうか」
レオンハルトが聞くと、リシャールは書状を伏せた。
「それを確認するために、君を呼んだ。クラウス殿は激しい男だが、妹君の意思を無視して王宮に訴え出るほど愚かではない。だからこそ、君の妻が何を望んでいるのかを、私も知っておきたい」
「今夜、本人に聞きます」
「今夜か」
「はい。今朝、話の途中で使いが来ました」
リシャールは、少しだけ息をついた。叱責ではなかったが、呆れに近いものはあった。
「レオンハルト、君は戦場でも外交でも判断が速い男だ。だが、自分の屋敷のことになると、どうしてそこまで遅くなる」
返す言葉がなかった。
速い判断をしてきたつもりだった。人を傷つけないために距離を置く。余計な感情を持たせないために、初めから期待を切る。夫婦という形だけを整え、互いの領分に踏み込まない。
それが冷静な判断だと思っていた。
だが、それはエリシアにとって、ただの拒絶だった。
「私は、妻に向き合っていませんでした」
レオンハルトは、はっきりと言った。
リシャールの表情が少し変わった。友人としての顔ではなく、王太子として人を見る顔だった。
「それを本人に言えるなら、まだ間に合うかもしれない。ただし、間に合うかどうかを決めるのは君ではなく、エリシア夫人だ」
「わかっています」
「本当にわかっているなら、今夜は言い訳から入るな。まずは謝罪しろ。君は立場が強い。公爵で、夫で、屋敷の主人だ。強い側の人間が正しさを振りかざすと、それだけで相手の逃げ道を塞ぐ」
逃げ道、という言葉に、レオンハルトは眉を寄せた。
エリシアに、逃げ道が必要だったのか。
そう考えて、すぐに違うと思った。必要にしたのは、自分だ。あの屋敷の中で、エリシアが安心して夫に本音を言える場所を作らなかった。その結果、彼女は兄への手紙に答えを求めた。
責められるべきは、エリシアではない。
「今夜、話します」
「それでいい。クラウス殿への返事は、明日まで待たせておく。だが、妹君が望むなら、王家は彼女を無理に公爵家へ縛らない」
「承知しました」
レオンハルトは一礼した。
王太子の執務室を出ると、廊下には昼の光が差し込んでいた。王宮はいつも通り動いている。役人が書類を抱えて行き交い、侍従が来客を案内し、誰もが自分の役目を果たしていた。
その中で、レオンハルトだけが、ひどく遅れているような気がした。
エリシアは、一ヶ月の間に屋敷の仕事を覚え、使用人の信頼を得て、薬草畑を整え、領地のために動いていた。
自分は何をしていたのか。
扉の前に立って、ノックしなかっただけだ。
その事実が、今さらになって重くのしかかった。
屋敷へ戻る馬車の中で、レオンハルトは何度も言葉を組み立てた。言い訳ではなく、謝罪を。命令ではなく、願いを。夫としての権利ではなく、一人の男として、初めてエリシアに渡すべき言葉を。
だが、どれだけ考えても、きれいな言葉にはならなかった。
きれいな言葉では足りない。
エリシアが必要としているのは、飾った言葉ではなく、レオンハルトがこれまで避けてきた本心なのだと思った。
その頃、屋敷ではエリシアが書斎で報告書に向かっていた。
数字を追っているはずなのに、同じ行を何度も読み返してしまう。帳簿の食い違いは朝のうちに見つけた。ベアトリスに確認も頼んだ。薬草を騎士団の詰め所に届ける手配も進めた。
仕事はある。やるべきこともある。
それなのに、頭の中にはレオンハルトの言葉が残っていた。
今夜、時間を取る。話を聞かせてくれ。
あの人は、何を聞きたいのだろう。
手紙の内容を知って、この結婚を終わらせることに怒るのだろうか。それとも、公爵家の体面を守るために、何事もなかったように続けろと言うのだろうか。
初夜の言葉が変わらないのなら、続ける意味はない。
そう思う一方で、最近のレオンハルトの小さな変化を、エリシアは忘れられなかった。
ペパーミントティーを毎日いただくと言ったこと。夕食の席で書類を持ち込まなかったこと。薬草を騎士団の詰め所に置く話を、本気で聞いてくれたこと。
それらは、離縁を思いとどまる理由としては弱い。けれど、エリシアの心を迷わせるには十分だった。
「奥様、お茶をお持ちしました」
ベアトリスが入ってきた。盆の上には、薄い蜂蜜を入れたカモミールティーと、小さな焼き菓子が乗っている。
「ありがとう。今日はずいぶん甘い香りがしますね」
「今夜は大事なお話をなさると伺いましたので、少し落ち着くものを選びました」
エリシアはカップを受け取りながら、思わずベアトリスを見た。
「旦那様から聞いたのですか」
「いいえ。旦那様はそういうことを、使用人に細かくお話しになる方ではございません。ただ、今朝のご様子を見れば、何か大事なことがあるのはわかります」
「ベアトリスには、何でもわかってしまうのですね」
「四十年もこの屋敷におりますと、扉の開け方と歩き方で、ある程度はわかるようになります」
ベアトリスは淡々と言ったが、その声には少しだけ温かさがあった。
エリシアはカップに口をつけた。甘い香りが広がり、少しだけ肩の力が抜けた。
「私は、どうすればいいのでしょう」
思わずこぼれた言葉だった。使用人に聞くことではない。そうわかっていたのに、今だけは誰かに言いたかった。
ベアトリスはすぐには答えず、机の上の書類を整えた。
「奥様がどうしたいかを、旦那様にお伝えくださいませ。公爵家のためでも、ご実家のためでもなく、奥様ご自身の言葉で」
「私自身の言葉ですか」
「はい。奥様はいつも、屋敷のこと、領地のこと、使用人のことを先に考えてくださいます。けれど今夜だけは、奥様の心を最初に置いてよろしいかと存じます」
エリシアは、カップを両手で包んだ。
自分の心。
レオンハルトを好きになってはいけないと思っていた。好きになる前に離れなければならないと思っていた。そうしなければ、初夜の約束を破ることになるから。
けれど本当は、もう遅いのかもしれない。
ペパーミントティーを飲んでくれたことが嬉しかった。夕食で薬草畑の話を聞いてくれたことが嬉しかった。書斎の前で足を止めていた気配が、たまたまではないのかもしれないと思っただけで、胸が揺れた。
好きになるなと言われたのに、嬉しくなっている。
その自分が、いちばん危うかった。
「今夜、話してみます」
エリシアはそう言った。
ベアトリスは、深く頷いた。
「それがよろしいかと存じます。旦那様も、今までとは違うお顔をされていました」
「違う顔、ですか」
「はい。奥様を失うかもしれない方のお顔でした」
エリシアは返事をしなかった。
失う、という言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。自分がレオンハルトにとって、失うものになっているのなら、それはどういう意味なのだろう。
期待してはいけない。
そう思うのに、期待しそうになる。
エリシアはカップを置き、クラウスの手紙が入った引き出しに視線を向けた。
返事は、まだ書かない。
今夜、レオンハルトの言葉を聞いてから書く。
その決断だけは、変えなかった。
レオンハルトが屋敷へ戻ったのは、夕食より少し前だった。
いつもなら執務室へ直行するはずの彼が、今夜は外套を預けるなり、フェリクスに短く指示を出した。
「今夜の急ぎでない書類は明日に回す。王宮からの返答も、明日の朝でいい。食後、私室には戻らない」
「かしこまりました」
フェリクスは、何か言いたげにレオンハルトを見た。
「何だ」
「いえ。旦那様がご自分の予定を仕事より優先なさるのは、珍しいと思いまして」
「今夜は、仕事より優先すべきことがある」
「そのお言葉を、奥様が聞かれたらお喜びになるかと」
フェリクスは淡々と告げて、すぐに頭を下げた。余計なことを言った自覚はあるらしいが、引く気はなさそうだった。
レオンハルトは言い返さなかった。
喜ぶだろうか。エリシアは、そんな簡単な言葉で喜ぶだろうか。
いや、喜ばせたいと思っている時点で、自分はもう以前とは違う。
その事実を否定することは、できなかった。
夕食の席で、エリシアはいつも通りだった。
品よく食事をし、使用人に礼を言い、レオンハルトに必要な会話を返す。だが、今夜は互いにわかっていた。食事の後に、避けられない話が待っている。
「食後、書斎でよろしいか」
レオンハルトが言うと、エリシアはナイフを置いて顔を上げた。
「はい。旦那様の書斎ですか」
「いや、君が使っている方でいい。君の話を聞くのだから、君が落ち着ける場所の方がいい」
エリシアの手が、ほんの少し止まった。
「お気遣い、ありがとうございます」
「気遣いというより、今までそれすらできていなかっただけだ」
そう言うと、エリシアは返事を探すように視線を揺らした。
レオンハルトは、そこで言葉を重ねなかった。食事の席で中途半端に話すべきではない。今夜は逃げずに向き合うと決めた。だからこそ、場所を整えて、きちんと聞くべきだった。
食事が終わると、エリシアは一度自室へ戻った。クラウスの手紙を引き出しから取り出し、封筒ごと手に持った。
これを見せるべきか迷ったが、隠して話しても意味がないと思った。
この結婚を終わらせる相談をしていた。それを認めるなら、手紙の存在を隠す必要はない。
書斎へ向かう廊下で、エリシアは深く息を吸った。
泣かないようにしよう、とは思わなかった。泣くかどうかより、言葉を誤魔化さないことの方が大事だった。
書斎には、すでにレオンハルトがいた。
机の上には、書類ではなく二つのカップが置かれていた。片方からはペパーミントの香りがし、もう片方からはカモミールの甘い香りがした。
「ベアトリスに頼んだ」
レオンハルトが言った。
「君にはカモミールがいいと聞いた。私は、ペパーミントをもらった」
「旦那様が頼まれたのですか」
「ああ。君がいつも私の頭痛を気にしてくれるから、今夜は私も少しは考えた」
不器用な言い方だった。
けれど、エリシアは胸の奥がまた揺れるのを感じた。こんな小さなことに揺れてしまうから、離れようとしたのだ。そう思うと、手に持った封筒が急に重くなった。
「座ってくれ」
レオンハルトは椅子を引いた。
エリシアは礼を言って座った。レオンハルトは向かいではなく、少し斜めの位置に座った。真正面から問い詰める形にしないためだと、エリシアにもわかった。
その配慮が、また苦しかった。
「今朝の続きを聞かせてほしい」
レオンハルトは言った。
「手紙の内容ですか」
「君が話してくれる範囲でいい。ただ、私はもう聞く前から決めつけることはしない」
エリシアは、膝の上に置いていた封筒を机に乗せた。
「兄に、この結婚を終わらせる相談をしていました」
言った瞬間、胸の中で何かが大きく揺れた。言葉にすれば、もう戻せない。そうわかっていたが、後悔はしなかった。
レオンハルトは封筒を見て、それからエリシアを見た。
「理由を聞いてもいいか」
「初夜に、旦那様がおっしゃったからです。私は旦那様を好きにならなくていい。いいえ、好きになっては困ると」
レオンハルトの顔に、苦いものが浮かんだ。
「あの言葉は、君を傷つけた」
「はい」
エリシアは、はっきり答えた。
今までなら、いいえと答えていたかもしれない。旦那様にも事情があるのだろうと、自分に言い聞かせていたかもしれない。
けれど今夜は、自分の言葉で話すと決めた。
「とても傷つきました。私は政略結婚だと理解していましたし、最初から愛されると期待していたわけではありません。それでも、好きになっては困ると言われたとき、自分はこの屋敷で妻として生きることさえ許されていないのだと思いました」
「……すまなかった」
レオンハルトは、すぐに謝った。
その速さに、エリシアは驚いた。反論されると思っていた。あれはそういう意味ではない、と説明されると思っていた。
だが、レオンハルトは言い訳をしなかった。
「君がそう受け取るのは当然だ。私は、自分が傷つきたくないあまり、君が傷つくことを考えなかった」
「旦那様が、傷つきたくない?」
思わず聞き返すと、レオンハルトはカップに触れた。飲むためではなく、言葉を整えるための仕草に見えた。
「私は、誰かに深く踏み込まれることを避けてきた。公爵として必要な関係は築ける。仕事なら、いくらでもできる。だが、夫婦として誰かと向き合うことには、ずっと背を向けていた」
「それが、私に好きになるなとおっしゃった理由ですか」
「そうだ。君に問題があったわけではない。むしろ、君が誠実な人だと初日からわかっていたから、余計に怖かった」
エリシアは、指先に力を入れた。
怖かった。
その言葉は意外だった。レオンハルトは、何も恐れない人に見えた。完璧で、冷静で、誰にも揺らされない人に見えた。
けれど、そうではなかったのかもしれない。
「私は、どうすればよかったのでしょう」
エリシアは小さく息を吸い、続けた。
「好きになってはいけないと言われて、でも屋敷の仕事は妻として任されて、領地の人には奥様と呼ばれて、使用人たちには公爵夫人として立つことを求められて。私は、どこまでが許されて、どこからが許されないのか、ずっとわかりませんでした」
レオンハルトは、顔を上げた。
「君は、ずっと一人でそれを考えていたのか」
「はい。考えて、わからなくなって、兄に相談しました。兄は私の意思を確認すると言ってくれました。だから私は、今夜の話を聞いてから返事を書こうと思っていました」
「その返事は、離縁を進めるものだったのか」
エリシアはすぐには答えられなかった。
昨日までなら、そうだったと言えたかもしれない。だが今は、わからない。
わからなくなったのは、レオンハルトが少しずつ変わっているからだ。ペパーミントティーを受け取ってくれたから。薬草畑の話を聞いてくれたから。今夜、カモミールを用意してくれたから。
そんな小さなことに心が動く自分が、どうしようもなく苦しかった。
「昨日までなら、そうだったと思います」
エリシアは正直に答えた。
「では、今夜は」
「今夜は、わかりません」
レオンハルトの表情が、わずかに変わった。
エリシアは、封筒の上に手を置いた。
「わからなくなったから、困っています。旦那様が何も変わらないままなら、私は兄に返事を書けました。この結婚を終わらせたいと、迷わず書けたと思います。でも、旦那様は最近、少しずつ私の方を見てくださるようになりました。そうされると、私は嬉しくなってしまうんです」
言ってしまってから、頬が熱くなった。
好きという言葉は避けた。けれど、ほとんど同じ意味だった。
レオンハルトは、まばたきをした。その反応があまりにも意外そうで、エリシアは少しだけ腹が立った。
「そんなに驚かれることですか」
「いや、すまない。君が私に嬉しいと思うことがあるとは、考えていなかった」
「それは、ずいぶん失礼です」
「本当にその通りだ」
レオンハルトがあまりにも真面目に認めるので、エリシアは返す言葉を失いかけた。けれど今夜は、流されてはいけない。ここで笑って終わらせれば、また曖昧なまま続いてしまう。
「私は、旦那様を好きになってはいけないと思っていました」
エリシアは、胸の奥から言葉を取り出すように続けた。
「でも、このまま屋敷にいて、旦那様が今のように少しずつ優しくなっていくなら、私はきっと約束を守れません。好きになるなと言われた相手を好きになって、いつか本当に耐えられなくなるくらいなら、その前に離れた方がいいと思いました」
レオンハルトは、息をのんだ。
その顔を見て、エリシアはようやくわかった。
今の言葉は、夫を責めるためのものではなかった。自分がどれだけ追い詰められていたかを、初めて夫に渡したのだ。
「エリシア」
レオンハルトが、初めて名前を呼んだ。
旦那様としてではなく、書類上の妻としてでもなく、ただ彼女の名前を呼んだ。
それだけで、胸が痛くなるほど揺れた。
「私は、君に好きになるなと言うべきではなかった」
「では、今は違うのですか」
エリシアは、逃がさないように聞いた。
レオンハルトは、まっすぐにエリシアを見た。
「違う。私は、君に好きになるなとは言わない。言う資格もないし、もう言いたくない」
「それは、どういう意味ですか」
「私は、君と向き合いたい。夫婦としてやり直したいと言えるほど、都合のいい立場ではないこともわかっている。だから、まず謝らせてほしい。君を一人にして、傷つけて、妻として立たせるだけ立たせて、心には触れようとしなかった。本当に、すまなかった」
レオンハルトは頭を下げた。
公爵である彼が、妻に対して深く頭を下げた。
エリシアは、その姿を見て、喉の奥が詰まった。謝ってほしかったのだろうか。自分でもわからなかった。けれど、今この瞬間、初夜から胸の奥に刺さっていたものが少しだけ抜けた気がした。
「顔を上げてください、旦那様」
「許してほしいとは言わない」
レオンハルトは顔を上げたが、その表情は厳しかった。
「ただ、クラウス殿への返事を一日だけ待ってほしい。離縁を止めるためではなく、私が君に何を返せるのかを考えたい。君がそれでも離れたいと言うなら、私は王太子にもクラウス殿にも、君の意思を尊重すると伝える」
「旦那様は、それでよろしいのですか」
「よくはない」
即答だった。
エリシアの胸が、また揺れた。
「よくはないが、君の意思を無視してまで引き留めることはできない。そんなことをすれば、私はまた同じ過ちを繰り返す」
「では、旦那様は私にどうしてほしいのですか」
レオンハルトは、少しだけ言葉を探した。
「今夜は、返事を書かないでほしい。明日、もう一度私と話してほしい。そして、できるなら一週間だけ、私を見てほしい」
「一週間、ですか」
「夫としての権利を振りかざすつもりはない。君の予定を奪うつもりもない。ただ、一週間、私は君に向き合う。朝食で書類を読まない。薬草畑にも行く。騎士団の詰め所へ届ける薬草の件も、私が一緒に隊長へ話す。君がこの家で何をしてきたのか、今度は私が知りたい」
エリシアは、すぐに返事をしなかった。
一週間。
それは長いようで短い。離縁を決める前に、自分の心を確かめるには、少しだけ残酷な時間でもある。
優しくされたら、もっと好きになるかもしれない。
けれど、何も知らないまま離れるよりは、その方がいいのかもしれない。
「一週間だけです」
エリシアは、ゆっくりと言った。
「それ以上は、期待しないでください」
「わかった」
「それから、私も旦那様に言いたいことは言います。傷ついたことも、嫌だったことも、わからなかったことも」
「言ってほしい」
「途中で仕事に逃げないでください」
「仕事には背を向けないが、君の話にも目を逸らさない」
その言葉に、エリシアは胸の奥が熱くなった。
目を逸らさない。
今まで一番ほしかった言葉かもしれない。
エリシアは机の上の封筒を手に取った。クラウスへの返事は、今夜は書かない。明日でも、明後日でもない。一週間後、自分の心で決めてから書く。
「では、兄への返事は一週間後にします」
「ありがとう」
レオンハルトが、深く息を吐いた。
その安堵があまりにも正直で、エリシアは思わず視線を落とした。嬉しいと思ってしまう自分を隠すためだった。
「旦那様」
「何だ」
「ペパーミントティーは、明日もお持ちします」
レオンハルトは少し驚いた後、穏やかに頷いた。
「私も、君のカモミールを頼む」
「それは、ベアトリスにお願いしてください」
「君が選ぶものがいい」
エリシアは言葉に詰まった。
こういうことを急に言うから、困るのだ。好きになるなと言った人が、今さらそんなふうに近づいてくるから、心の置き場所がわからなくなる。
けれど、今夜だけは、その困惑を嫌だと思えなかった。
書斎を出るとき、エリシアはクラウスの手紙を胸元に抱えた。返事はまだ書かない。離れるための手紙ではなく、自分の答えをきちんと見つけるために、一週間だけ待つ。
レオンハルトが本当に変わるのかは、まだわからない。
それでも今夜、エリシアは初めて思った。
この結婚を終わらせる前に、もう一度だけ、夫の言葉を信じてみたい。
王太子リシャールは執務机の向こうで、数枚の書状を広げていた。朝から書類に追われていたらしく、机の上には各地から届いた報告書が積まれている。その中に、クラウスの名があった。
「クラウス殿が、私に面会を求めてきた」
リシャールはそう言って、レオンハルトを見た。
「用件は妹君、つまり君の妻であるエリシア夫人のことだ。彼はまだ正式な申し立てにはしていないが、必要ならば王家を通して、この婚姻について確認したいと言ってきている」
レオンハルトは、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥を強く押されたような感覚を覚えた。
やはり、そうだった。
エリシアが毎日のように書いていた手紙は、兄への相談だった。彼女は一人で耐えていたのではなく、もう外へ助けを求めようとしていた。そう考えると、意外ではなかった。むしろ、当然だった。
初夜に好きになるなと言った夫が、妻に何を期待していたのか。
何も期待する資格など、最初からなかった。
「正式に動くつもりでしょうか」
レオンハルトが聞くと、リシャールは書状を伏せた。
「それを確認するために、君を呼んだ。クラウス殿は激しい男だが、妹君の意思を無視して王宮に訴え出るほど愚かではない。だからこそ、君の妻が何を望んでいるのかを、私も知っておきたい」
「今夜、本人に聞きます」
「今夜か」
「はい。今朝、話の途中で使いが来ました」
リシャールは、少しだけ息をついた。叱責ではなかったが、呆れに近いものはあった。
「レオンハルト、君は戦場でも外交でも判断が速い男だ。だが、自分の屋敷のことになると、どうしてそこまで遅くなる」
返す言葉がなかった。
速い判断をしてきたつもりだった。人を傷つけないために距離を置く。余計な感情を持たせないために、初めから期待を切る。夫婦という形だけを整え、互いの領分に踏み込まない。
それが冷静な判断だと思っていた。
だが、それはエリシアにとって、ただの拒絶だった。
「私は、妻に向き合っていませんでした」
レオンハルトは、はっきりと言った。
リシャールの表情が少し変わった。友人としての顔ではなく、王太子として人を見る顔だった。
「それを本人に言えるなら、まだ間に合うかもしれない。ただし、間に合うかどうかを決めるのは君ではなく、エリシア夫人だ」
「わかっています」
「本当にわかっているなら、今夜は言い訳から入るな。まずは謝罪しろ。君は立場が強い。公爵で、夫で、屋敷の主人だ。強い側の人間が正しさを振りかざすと、それだけで相手の逃げ道を塞ぐ」
逃げ道、という言葉に、レオンハルトは眉を寄せた。
エリシアに、逃げ道が必要だったのか。
そう考えて、すぐに違うと思った。必要にしたのは、自分だ。あの屋敷の中で、エリシアが安心して夫に本音を言える場所を作らなかった。その結果、彼女は兄への手紙に答えを求めた。
責められるべきは、エリシアではない。
「今夜、話します」
「それでいい。クラウス殿への返事は、明日まで待たせておく。だが、妹君が望むなら、王家は彼女を無理に公爵家へ縛らない」
「承知しました」
レオンハルトは一礼した。
王太子の執務室を出ると、廊下には昼の光が差し込んでいた。王宮はいつも通り動いている。役人が書類を抱えて行き交い、侍従が来客を案内し、誰もが自分の役目を果たしていた。
その中で、レオンハルトだけが、ひどく遅れているような気がした。
エリシアは、一ヶ月の間に屋敷の仕事を覚え、使用人の信頼を得て、薬草畑を整え、領地のために動いていた。
自分は何をしていたのか。
扉の前に立って、ノックしなかっただけだ。
その事実が、今さらになって重くのしかかった。
屋敷へ戻る馬車の中で、レオンハルトは何度も言葉を組み立てた。言い訳ではなく、謝罪を。命令ではなく、願いを。夫としての権利ではなく、一人の男として、初めてエリシアに渡すべき言葉を。
だが、どれだけ考えても、きれいな言葉にはならなかった。
きれいな言葉では足りない。
エリシアが必要としているのは、飾った言葉ではなく、レオンハルトがこれまで避けてきた本心なのだと思った。
その頃、屋敷ではエリシアが書斎で報告書に向かっていた。
数字を追っているはずなのに、同じ行を何度も読み返してしまう。帳簿の食い違いは朝のうちに見つけた。ベアトリスに確認も頼んだ。薬草を騎士団の詰め所に届ける手配も進めた。
仕事はある。やるべきこともある。
それなのに、頭の中にはレオンハルトの言葉が残っていた。
今夜、時間を取る。話を聞かせてくれ。
あの人は、何を聞きたいのだろう。
手紙の内容を知って、この結婚を終わらせることに怒るのだろうか。それとも、公爵家の体面を守るために、何事もなかったように続けろと言うのだろうか。
初夜の言葉が変わらないのなら、続ける意味はない。
そう思う一方で、最近のレオンハルトの小さな変化を、エリシアは忘れられなかった。
ペパーミントティーを毎日いただくと言ったこと。夕食の席で書類を持ち込まなかったこと。薬草を騎士団の詰め所に置く話を、本気で聞いてくれたこと。
それらは、離縁を思いとどまる理由としては弱い。けれど、エリシアの心を迷わせるには十分だった。
「奥様、お茶をお持ちしました」
ベアトリスが入ってきた。盆の上には、薄い蜂蜜を入れたカモミールティーと、小さな焼き菓子が乗っている。
「ありがとう。今日はずいぶん甘い香りがしますね」
「今夜は大事なお話をなさると伺いましたので、少し落ち着くものを選びました」
エリシアはカップを受け取りながら、思わずベアトリスを見た。
「旦那様から聞いたのですか」
「いいえ。旦那様はそういうことを、使用人に細かくお話しになる方ではございません。ただ、今朝のご様子を見れば、何か大事なことがあるのはわかります」
「ベアトリスには、何でもわかってしまうのですね」
「四十年もこの屋敷におりますと、扉の開け方と歩き方で、ある程度はわかるようになります」
ベアトリスは淡々と言ったが、その声には少しだけ温かさがあった。
エリシアはカップに口をつけた。甘い香りが広がり、少しだけ肩の力が抜けた。
「私は、どうすればいいのでしょう」
思わずこぼれた言葉だった。使用人に聞くことではない。そうわかっていたのに、今だけは誰かに言いたかった。
ベアトリスはすぐには答えず、机の上の書類を整えた。
「奥様がどうしたいかを、旦那様にお伝えくださいませ。公爵家のためでも、ご実家のためでもなく、奥様ご自身の言葉で」
「私自身の言葉ですか」
「はい。奥様はいつも、屋敷のこと、領地のこと、使用人のことを先に考えてくださいます。けれど今夜だけは、奥様の心を最初に置いてよろしいかと存じます」
エリシアは、カップを両手で包んだ。
自分の心。
レオンハルトを好きになってはいけないと思っていた。好きになる前に離れなければならないと思っていた。そうしなければ、初夜の約束を破ることになるから。
けれど本当は、もう遅いのかもしれない。
ペパーミントティーを飲んでくれたことが嬉しかった。夕食で薬草畑の話を聞いてくれたことが嬉しかった。書斎の前で足を止めていた気配が、たまたまではないのかもしれないと思っただけで、胸が揺れた。
好きになるなと言われたのに、嬉しくなっている。
その自分が、いちばん危うかった。
「今夜、話してみます」
エリシアはそう言った。
ベアトリスは、深く頷いた。
「それがよろしいかと存じます。旦那様も、今までとは違うお顔をされていました」
「違う顔、ですか」
「はい。奥様を失うかもしれない方のお顔でした」
エリシアは返事をしなかった。
失う、という言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。自分がレオンハルトにとって、失うものになっているのなら、それはどういう意味なのだろう。
期待してはいけない。
そう思うのに、期待しそうになる。
エリシアはカップを置き、クラウスの手紙が入った引き出しに視線を向けた。
返事は、まだ書かない。
今夜、レオンハルトの言葉を聞いてから書く。
その決断だけは、変えなかった。
レオンハルトが屋敷へ戻ったのは、夕食より少し前だった。
いつもなら執務室へ直行するはずの彼が、今夜は外套を預けるなり、フェリクスに短く指示を出した。
「今夜の急ぎでない書類は明日に回す。王宮からの返答も、明日の朝でいい。食後、私室には戻らない」
「かしこまりました」
フェリクスは、何か言いたげにレオンハルトを見た。
「何だ」
「いえ。旦那様がご自分の予定を仕事より優先なさるのは、珍しいと思いまして」
「今夜は、仕事より優先すべきことがある」
「そのお言葉を、奥様が聞かれたらお喜びになるかと」
フェリクスは淡々と告げて、すぐに頭を下げた。余計なことを言った自覚はあるらしいが、引く気はなさそうだった。
レオンハルトは言い返さなかった。
喜ぶだろうか。エリシアは、そんな簡単な言葉で喜ぶだろうか。
いや、喜ばせたいと思っている時点で、自分はもう以前とは違う。
その事実を否定することは、できなかった。
夕食の席で、エリシアはいつも通りだった。
品よく食事をし、使用人に礼を言い、レオンハルトに必要な会話を返す。だが、今夜は互いにわかっていた。食事の後に、避けられない話が待っている。
「食後、書斎でよろしいか」
レオンハルトが言うと、エリシアはナイフを置いて顔を上げた。
「はい。旦那様の書斎ですか」
「いや、君が使っている方でいい。君の話を聞くのだから、君が落ち着ける場所の方がいい」
エリシアの手が、ほんの少し止まった。
「お気遣い、ありがとうございます」
「気遣いというより、今までそれすらできていなかっただけだ」
そう言うと、エリシアは返事を探すように視線を揺らした。
レオンハルトは、そこで言葉を重ねなかった。食事の席で中途半端に話すべきではない。今夜は逃げずに向き合うと決めた。だからこそ、場所を整えて、きちんと聞くべきだった。
食事が終わると、エリシアは一度自室へ戻った。クラウスの手紙を引き出しから取り出し、封筒ごと手に持った。
これを見せるべきか迷ったが、隠して話しても意味がないと思った。
この結婚を終わらせる相談をしていた。それを認めるなら、手紙の存在を隠す必要はない。
書斎へ向かう廊下で、エリシアは深く息を吸った。
泣かないようにしよう、とは思わなかった。泣くかどうかより、言葉を誤魔化さないことの方が大事だった。
書斎には、すでにレオンハルトがいた。
机の上には、書類ではなく二つのカップが置かれていた。片方からはペパーミントの香りがし、もう片方からはカモミールの甘い香りがした。
「ベアトリスに頼んだ」
レオンハルトが言った。
「君にはカモミールがいいと聞いた。私は、ペパーミントをもらった」
「旦那様が頼まれたのですか」
「ああ。君がいつも私の頭痛を気にしてくれるから、今夜は私も少しは考えた」
不器用な言い方だった。
けれど、エリシアは胸の奥がまた揺れるのを感じた。こんな小さなことに揺れてしまうから、離れようとしたのだ。そう思うと、手に持った封筒が急に重くなった。
「座ってくれ」
レオンハルトは椅子を引いた。
エリシアは礼を言って座った。レオンハルトは向かいではなく、少し斜めの位置に座った。真正面から問い詰める形にしないためだと、エリシアにもわかった。
その配慮が、また苦しかった。
「今朝の続きを聞かせてほしい」
レオンハルトは言った。
「手紙の内容ですか」
「君が話してくれる範囲でいい。ただ、私はもう聞く前から決めつけることはしない」
エリシアは、膝の上に置いていた封筒を机に乗せた。
「兄に、この結婚を終わらせる相談をしていました」
言った瞬間、胸の中で何かが大きく揺れた。言葉にすれば、もう戻せない。そうわかっていたが、後悔はしなかった。
レオンハルトは封筒を見て、それからエリシアを見た。
「理由を聞いてもいいか」
「初夜に、旦那様がおっしゃったからです。私は旦那様を好きにならなくていい。いいえ、好きになっては困ると」
レオンハルトの顔に、苦いものが浮かんだ。
「あの言葉は、君を傷つけた」
「はい」
エリシアは、はっきり答えた。
今までなら、いいえと答えていたかもしれない。旦那様にも事情があるのだろうと、自分に言い聞かせていたかもしれない。
けれど今夜は、自分の言葉で話すと決めた。
「とても傷つきました。私は政略結婚だと理解していましたし、最初から愛されると期待していたわけではありません。それでも、好きになっては困ると言われたとき、自分はこの屋敷で妻として生きることさえ許されていないのだと思いました」
「……すまなかった」
レオンハルトは、すぐに謝った。
その速さに、エリシアは驚いた。反論されると思っていた。あれはそういう意味ではない、と説明されると思っていた。
だが、レオンハルトは言い訳をしなかった。
「君がそう受け取るのは当然だ。私は、自分が傷つきたくないあまり、君が傷つくことを考えなかった」
「旦那様が、傷つきたくない?」
思わず聞き返すと、レオンハルトはカップに触れた。飲むためではなく、言葉を整えるための仕草に見えた。
「私は、誰かに深く踏み込まれることを避けてきた。公爵として必要な関係は築ける。仕事なら、いくらでもできる。だが、夫婦として誰かと向き合うことには、ずっと背を向けていた」
「それが、私に好きになるなとおっしゃった理由ですか」
「そうだ。君に問題があったわけではない。むしろ、君が誠実な人だと初日からわかっていたから、余計に怖かった」
エリシアは、指先に力を入れた。
怖かった。
その言葉は意外だった。レオンハルトは、何も恐れない人に見えた。完璧で、冷静で、誰にも揺らされない人に見えた。
けれど、そうではなかったのかもしれない。
「私は、どうすればよかったのでしょう」
エリシアは小さく息を吸い、続けた。
「好きになってはいけないと言われて、でも屋敷の仕事は妻として任されて、領地の人には奥様と呼ばれて、使用人たちには公爵夫人として立つことを求められて。私は、どこまでが許されて、どこからが許されないのか、ずっとわかりませんでした」
レオンハルトは、顔を上げた。
「君は、ずっと一人でそれを考えていたのか」
「はい。考えて、わからなくなって、兄に相談しました。兄は私の意思を確認すると言ってくれました。だから私は、今夜の話を聞いてから返事を書こうと思っていました」
「その返事は、離縁を進めるものだったのか」
エリシアはすぐには答えられなかった。
昨日までなら、そうだったと言えたかもしれない。だが今は、わからない。
わからなくなったのは、レオンハルトが少しずつ変わっているからだ。ペパーミントティーを受け取ってくれたから。薬草畑の話を聞いてくれたから。今夜、カモミールを用意してくれたから。
そんな小さなことに心が動く自分が、どうしようもなく苦しかった。
「昨日までなら、そうだったと思います」
エリシアは正直に答えた。
「では、今夜は」
「今夜は、わかりません」
レオンハルトの表情が、わずかに変わった。
エリシアは、封筒の上に手を置いた。
「わからなくなったから、困っています。旦那様が何も変わらないままなら、私は兄に返事を書けました。この結婚を終わらせたいと、迷わず書けたと思います。でも、旦那様は最近、少しずつ私の方を見てくださるようになりました。そうされると、私は嬉しくなってしまうんです」
言ってしまってから、頬が熱くなった。
好きという言葉は避けた。けれど、ほとんど同じ意味だった。
レオンハルトは、まばたきをした。その反応があまりにも意外そうで、エリシアは少しだけ腹が立った。
「そんなに驚かれることですか」
「いや、すまない。君が私に嬉しいと思うことがあるとは、考えていなかった」
「それは、ずいぶん失礼です」
「本当にその通りだ」
レオンハルトがあまりにも真面目に認めるので、エリシアは返す言葉を失いかけた。けれど今夜は、流されてはいけない。ここで笑って終わらせれば、また曖昧なまま続いてしまう。
「私は、旦那様を好きになってはいけないと思っていました」
エリシアは、胸の奥から言葉を取り出すように続けた。
「でも、このまま屋敷にいて、旦那様が今のように少しずつ優しくなっていくなら、私はきっと約束を守れません。好きになるなと言われた相手を好きになって、いつか本当に耐えられなくなるくらいなら、その前に離れた方がいいと思いました」
レオンハルトは、息をのんだ。
その顔を見て、エリシアはようやくわかった。
今の言葉は、夫を責めるためのものではなかった。自分がどれだけ追い詰められていたかを、初めて夫に渡したのだ。
「エリシア」
レオンハルトが、初めて名前を呼んだ。
旦那様としてではなく、書類上の妻としてでもなく、ただ彼女の名前を呼んだ。
それだけで、胸が痛くなるほど揺れた。
「私は、君に好きになるなと言うべきではなかった」
「では、今は違うのですか」
エリシアは、逃がさないように聞いた。
レオンハルトは、まっすぐにエリシアを見た。
「違う。私は、君に好きになるなとは言わない。言う資格もないし、もう言いたくない」
「それは、どういう意味ですか」
「私は、君と向き合いたい。夫婦としてやり直したいと言えるほど、都合のいい立場ではないこともわかっている。だから、まず謝らせてほしい。君を一人にして、傷つけて、妻として立たせるだけ立たせて、心には触れようとしなかった。本当に、すまなかった」
レオンハルトは頭を下げた。
公爵である彼が、妻に対して深く頭を下げた。
エリシアは、その姿を見て、喉の奥が詰まった。謝ってほしかったのだろうか。自分でもわからなかった。けれど、今この瞬間、初夜から胸の奥に刺さっていたものが少しだけ抜けた気がした。
「顔を上げてください、旦那様」
「許してほしいとは言わない」
レオンハルトは顔を上げたが、その表情は厳しかった。
「ただ、クラウス殿への返事を一日だけ待ってほしい。離縁を止めるためではなく、私が君に何を返せるのかを考えたい。君がそれでも離れたいと言うなら、私は王太子にもクラウス殿にも、君の意思を尊重すると伝える」
「旦那様は、それでよろしいのですか」
「よくはない」
即答だった。
エリシアの胸が、また揺れた。
「よくはないが、君の意思を無視してまで引き留めることはできない。そんなことをすれば、私はまた同じ過ちを繰り返す」
「では、旦那様は私にどうしてほしいのですか」
レオンハルトは、少しだけ言葉を探した。
「今夜は、返事を書かないでほしい。明日、もう一度私と話してほしい。そして、できるなら一週間だけ、私を見てほしい」
「一週間、ですか」
「夫としての権利を振りかざすつもりはない。君の予定を奪うつもりもない。ただ、一週間、私は君に向き合う。朝食で書類を読まない。薬草畑にも行く。騎士団の詰め所へ届ける薬草の件も、私が一緒に隊長へ話す。君がこの家で何をしてきたのか、今度は私が知りたい」
エリシアは、すぐに返事をしなかった。
一週間。
それは長いようで短い。離縁を決める前に、自分の心を確かめるには、少しだけ残酷な時間でもある。
優しくされたら、もっと好きになるかもしれない。
けれど、何も知らないまま離れるよりは、その方がいいのかもしれない。
「一週間だけです」
エリシアは、ゆっくりと言った。
「それ以上は、期待しないでください」
「わかった」
「それから、私も旦那様に言いたいことは言います。傷ついたことも、嫌だったことも、わからなかったことも」
「言ってほしい」
「途中で仕事に逃げないでください」
「仕事には背を向けないが、君の話にも目を逸らさない」
その言葉に、エリシアは胸の奥が熱くなった。
目を逸らさない。
今まで一番ほしかった言葉かもしれない。
エリシアは机の上の封筒を手に取った。クラウスへの返事は、今夜は書かない。明日でも、明後日でもない。一週間後、自分の心で決めてから書く。
「では、兄への返事は一週間後にします」
「ありがとう」
レオンハルトが、深く息を吐いた。
その安堵があまりにも正直で、エリシアは思わず視線を落とした。嬉しいと思ってしまう自分を隠すためだった。
「旦那様」
「何だ」
「ペパーミントティーは、明日もお持ちします」
レオンハルトは少し驚いた後、穏やかに頷いた。
「私も、君のカモミールを頼む」
「それは、ベアトリスにお願いしてください」
「君が選ぶものがいい」
エリシアは言葉に詰まった。
こういうことを急に言うから、困るのだ。好きになるなと言った人が、今さらそんなふうに近づいてくるから、心の置き場所がわからなくなる。
けれど、今夜だけは、その困惑を嫌だと思えなかった。
書斎を出るとき、エリシアはクラウスの手紙を胸元に抱えた。返事はまだ書かない。離れるための手紙ではなく、自分の答えをきちんと見つけるために、一週間だけ待つ。
レオンハルトが本当に変わるのかは、まだわからない。
それでも今夜、エリシアは初めて思った。
この結婚を終わらせる前に、もう一度だけ、夫の言葉を信じてみたい。
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