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第I章:鏡の破片と、消えた熱量
王宮を包む、咽(むせ)ぶような薔薇の香り。
華やかな弦楽四重奏が、磨き上げられた床に淡い光を散らしている。
公爵夫人エステル・ヴァン・ブラッドレイは、回廊を一人、静かな足取りで歩いていた。
(……少し、のぼせてしまったのかしら)
頬を撫でる夜風が心地いい。
今夜の夜会は、夫レオニスが主催に深く関わったものだ。妻として、一分の隙もない振る舞いを心がけた。
「私の妻として相応しい」――そう思ってもらいたい。ただ、その一心で。
窮屈なコルセットも、重たいティアラも、彼の隣に立つための勲章だと信じてきた。
ふと、回廊の角を曲がった先から、聞き慣れた低い声が漏れた。
「……君の賢明さには、いつも救われるよ、クラリス」
心臓が、ひとつ大きく跳ねる。
レオニス――。
足を止めた視界に、月光に照らされた二つの影が映った。
レオニスのすぐ隣にいるのは、最近夫を亡くしたばかりの男爵夫人クラリス。
「社交界の知性」と謳われる彼女は、凛とした佇まいで、同性から見ても眩しいほどだった。
「光栄ですわ、レオニス様。私のような未亡人の言葉を、そのように重んじてくださるなんて」
控えめな笑い声に、レオニスがわずかに声を和らげる。
――その温度は、エステルが何年求めても受け取れなかった親密さだった。
「……亡くなった彼も、君のような女性が隣にいるべきだったと、天国で悔やんでいるだろう」
レオニスは、クラリスの指先をそっと取った。慰めの所作としては、あまりに優しい。
そして続ける。
「自立し、思慮深く、ただ縋るだけではない……君のような女性こそが、私の隣にいるべきだった」
――ドクン。
鼓動が、冷たい石に変わったような気がした。
(……私の隣に、いるべきだった?)
励ましのつもりなのかもしれない。
無自覚な賛辞、ただそれだけ。
けれど、言葉の底に潜む「比較」を、エステルは見逃せなかった。
君のような女性ではない。
つまり、私は――。
彼の顔色を窺い、好みに合わせ、帰宅の足音に胸を弾ませる。
そんな「縋るだけの女」だと、思われていたのだ。
エステルは自分の手元を見た。
今夜のために、レオニスの瞳の色に合わせて選んだエメラルドのリング。
「似合っているよ」と言われる未来を勝手に描いて、何度も鏡の前で整えたドレス。
そのすべてが、滑稽な仮面に見えた。
「――おや、エステル。こんなところにいたのか」
影から足を踏み出した彼女に気づき、レオニスが平然と振り返る。
その目に、疚しさの欠片もない。
当然だ。彼は、自分の言葉が妻の尊厳をどれほど砕いたか、想像すらしていないのだから。
「ええ。少し、風に当たりたくて」
声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
喉の奥は焼けるように熱いのに、口から出る言葉は、冬の朝の空気のように冷たい。
「そうか。クラリス夫人の知見は素晴らしいぞ。君も彼女を見習って、もう少し社交界の情勢を学んだらどうだ? 常に私の顔を伺うばかりでは、公爵夫人としての品格が――」
親切を装った教育が続く。
以前のエステルなら、「申し訳ありません、努力いたします」と微笑んでいた。
けれど。
「……ええ、おっしゃる通りですわ、閣下」
エステルは、優雅に、完璧な角度で微笑んだ。
その瞬間、レオニスに向けていた期待と熱が、潮が引くようにすっと消えていく。
「閣下?」
レオニスが眉をひそめる。
結婚してから一度も呼ばれたことのない、よそよそしい敬称。
「閣下のご指摘、痛み入ります。今後は、閣下のお手を煩わせるような『私個人の感情』は、一切お見せいたしません。……公爵夫人の『職務』として、完璧に振る舞いましょう」
「エステル……? 何を怒っている。私はただ、君のためを思って――」
レオニスが不可解そうに手を伸ばす。
指先が肩に触れる直前、エステルは柳が風を流すように、滑らかに身を引いた。
「お怒りだなんて、滅相もございません。ただ――目が覚めただけですの」
一拍置き、エステルはクラリスに視線だけを向ける。礼は礼として、完璧に。
「どうぞ、お話をお続けください。夜会の主催者としてのお務めもおありでしょうし。私は席に戻りますわ。お先に失礼いたします」
背中を向ける。
もう、一度も振り返らない。
背後でレオニスが何か言った気がした。
けれど、その声は遠い。
(さようなら、レオニス様)
心の奥で、小さな鏡が粉々に砕ける音がした。
――愛しているから許せなかったのではない。
愛していたから、もう、どうでもよくなったのだ。
(あなたが望んだ通りの『完璧な人形』になって差し上げますわ。……そこに、私の心はありませんけれど)
月明かりの下、エステルの背中はどの貴婦人よりも気高く、そして――死者のように冷たかった。
華やかな弦楽四重奏が、磨き上げられた床に淡い光を散らしている。
公爵夫人エステル・ヴァン・ブラッドレイは、回廊を一人、静かな足取りで歩いていた。
(……少し、のぼせてしまったのかしら)
頬を撫でる夜風が心地いい。
今夜の夜会は、夫レオニスが主催に深く関わったものだ。妻として、一分の隙もない振る舞いを心がけた。
「私の妻として相応しい」――そう思ってもらいたい。ただ、その一心で。
窮屈なコルセットも、重たいティアラも、彼の隣に立つための勲章だと信じてきた。
ふと、回廊の角を曲がった先から、聞き慣れた低い声が漏れた。
「……君の賢明さには、いつも救われるよ、クラリス」
心臓が、ひとつ大きく跳ねる。
レオニス――。
足を止めた視界に、月光に照らされた二つの影が映った。
レオニスのすぐ隣にいるのは、最近夫を亡くしたばかりの男爵夫人クラリス。
「社交界の知性」と謳われる彼女は、凛とした佇まいで、同性から見ても眩しいほどだった。
「光栄ですわ、レオニス様。私のような未亡人の言葉を、そのように重んじてくださるなんて」
控えめな笑い声に、レオニスがわずかに声を和らげる。
――その温度は、エステルが何年求めても受け取れなかった親密さだった。
「……亡くなった彼も、君のような女性が隣にいるべきだったと、天国で悔やんでいるだろう」
レオニスは、クラリスの指先をそっと取った。慰めの所作としては、あまりに優しい。
そして続ける。
「自立し、思慮深く、ただ縋るだけではない……君のような女性こそが、私の隣にいるべきだった」
――ドクン。
鼓動が、冷たい石に変わったような気がした。
(……私の隣に、いるべきだった?)
励ましのつもりなのかもしれない。
無自覚な賛辞、ただそれだけ。
けれど、言葉の底に潜む「比較」を、エステルは見逃せなかった。
君のような女性ではない。
つまり、私は――。
彼の顔色を窺い、好みに合わせ、帰宅の足音に胸を弾ませる。
そんな「縋るだけの女」だと、思われていたのだ。
エステルは自分の手元を見た。
今夜のために、レオニスの瞳の色に合わせて選んだエメラルドのリング。
「似合っているよ」と言われる未来を勝手に描いて、何度も鏡の前で整えたドレス。
そのすべてが、滑稽な仮面に見えた。
「――おや、エステル。こんなところにいたのか」
影から足を踏み出した彼女に気づき、レオニスが平然と振り返る。
その目に、疚しさの欠片もない。
当然だ。彼は、自分の言葉が妻の尊厳をどれほど砕いたか、想像すらしていないのだから。
「ええ。少し、風に当たりたくて」
声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
喉の奥は焼けるように熱いのに、口から出る言葉は、冬の朝の空気のように冷たい。
「そうか。クラリス夫人の知見は素晴らしいぞ。君も彼女を見習って、もう少し社交界の情勢を学んだらどうだ? 常に私の顔を伺うばかりでは、公爵夫人としての品格が――」
親切を装った教育が続く。
以前のエステルなら、「申し訳ありません、努力いたします」と微笑んでいた。
けれど。
「……ええ、おっしゃる通りですわ、閣下」
エステルは、優雅に、完璧な角度で微笑んだ。
その瞬間、レオニスに向けていた期待と熱が、潮が引くようにすっと消えていく。
「閣下?」
レオニスが眉をひそめる。
結婚してから一度も呼ばれたことのない、よそよそしい敬称。
「閣下のご指摘、痛み入ります。今後は、閣下のお手を煩わせるような『私個人の感情』は、一切お見せいたしません。……公爵夫人の『職務』として、完璧に振る舞いましょう」
「エステル……? 何を怒っている。私はただ、君のためを思って――」
レオニスが不可解そうに手を伸ばす。
指先が肩に触れる直前、エステルは柳が風を流すように、滑らかに身を引いた。
「お怒りだなんて、滅相もございません。ただ――目が覚めただけですの」
一拍置き、エステルはクラリスに視線だけを向ける。礼は礼として、完璧に。
「どうぞ、お話をお続けください。夜会の主催者としてのお務めもおありでしょうし。私は席に戻りますわ。お先に失礼いたします」
背中を向ける。
もう、一度も振り返らない。
背後でレオニスが何か言った気がした。
けれど、その声は遠い。
(さようなら、レオニス様)
心の奥で、小さな鏡が粉々に砕ける音がした。
――愛しているから許せなかったのではない。
愛していたから、もう、どうでもよくなったのだ。
(あなたが望んだ通りの『完璧な人形』になって差し上げますわ。……そこに、私の心はありませんけれど)
月明かりの下、エステルの背中はどの貴婦人よりも気高く、そして――死者のように冷たかった。
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