2 / 20
第II章:『冷えたスープと、見えない壁』
翌朝、公爵邸のダイニングルームには、重い静寂が澱んでいた。
レオニスはいつもより早く席に着いていた。昨夜、回廊で見たエステルの「氷の微笑」が、棘のように胸に残っていたからだ。
謝るつもりはない。――ただ、機嫌を損ねているなら、言葉を少し与えれば元に戻る。そういう確信が、彼の中には当然のようにあった。
だが、扉が開いた瞬間、その確信は音を立てて崩れた。
「おはようございます、閣下。昨夜は、よくお休みになれましたか」
エステルは非の打ちどころのないドレスをまとい、完璧なカーテシーを落とした。
美しい。けれど――声に、柔らかさがない。レオニスの心に触れる温度が、きれいさっぱり消えている。
「……ああ。エステル、昨夜のことだが」
「お食事を始めましょう。閣下は本日、軍部との会合がおありでしたわね」
謝罪とも言い訳ともつかない言葉を、彼女は流れるように遮った。
“遮った”のに、失礼さはない。礼儀が完璧すぎて、反論の糸口がない。
給仕が運んできたのは、レオニスの好物――キノコのポタージュ。
一口含み、レオニスは思わずスプーンを止めた。
「……冷めているな」
いつもなら、エステルは彼が席に着く時刻を読み、厨房に指示を出し、火傷しそうな温度で供していた。
だが今、目の前のスープは――形式どおりに運ばれた料理でしかない。
「左様でございますか。料理長には時刻どおりに供するよう申し付けております。ただ、閣下の着席が三分ほど遅れましたから……温め直させましょうか」
「いや、いい……。それより今日の予定だ」
「予定表は、そちらのサイドボードに。執事を通じ、すでに秘書官へも共有済みです」
エステルは一度も目を合わせない。
以前なら、予定を確認するふりをして「明日はお休みになれますか」と、恥じらいながらも必死に彼を見上げてきた。
今、ティーカップを眺めるその瞳は、静止した湖面のように無機質だった。
「エステル。君、昨日から少しおかしいぞ。ネクタイも今日は執事が選んだものだ。君が選ぶと言っていたはずだろう」
苛立ちが、声に混ざる。
エステルはようやく顔を上げた。そこにあったのは――訓練された貴婦人の、完璧な笑み。
「ええ。閣下は以前、私が選ぶ色について『君の好みは私の品格には幼い』とおっしゃいましたわね。ですから、より専門的な審美眼を持つ執事に任せることにいたしました」
一拍。
「……どうぞお気遣いなく。閣下に相応しい装いになるよう、私からも厳命してありますわ」
「それは……あれは、ただの助言で――」
「左様でございますか。助言を忠実に守るのが、公爵夫人の務めですから」
棘はない。
けれど、その無棘が、レオニスには恐ろしかった。
彼女は怒っているのではない。
ただ――彼に心を砕くことを、やめただけなのだ。
食事が終わると、エステルは音もなく席を立った。
「お待ちください、閣下。本日、クラリス夫人からお手紙が届いておりました。昨夜の続きをお話しになりたいとのこと」
さらり、と。
「午後は公務に余裕がございますので、こちらへお招きしてもよろしいでしょうか。最高の茶葉と菓子を用意させますわ」
「何を……!」
レオニスは椅子を強く鳴らして立ち上がった。
「君は、私が彼女と会うのが嫌だったんじゃないのか?」
エステルは心底不思議そうに首を傾げる。
「嫌……? いいえ、まさか」
その声色が、あまりにも澄んでいる。
「閣下がお望みの女性が隣にいることは、公爵家の繁栄にも繋がります。私は『公爵夫人』として、閣下の理想を叶えるお手伝いをするだけです」
微笑んだまま、はっきりと告げる。
「嫉妬などという醜い感情で、閣下の手を煩わせるようなことはいたしません」
そう言って、彼女は優雅に扉へ向かった。
近づかない。触れさせない。――完璧な距離だけを残して。
「エステル!」
「お引き止めは、どうぞお気遣いなく」
振り返らない。
「これから領地の会計報告を精査いたしますので。……ああ、今夜の夕食ですが、私は書斎で頂きます。閣下はどうぞ、ご自由になさってください」
バタン。
静かに扉が閉じる。
残されたのは、冷めたスープの残りと、これまでに感じたことのない深い孤独だけだった。
見えない壁。
昨日まで、その壁の内側へ自分を入れてくれていたのは、エステルの「愛」という名の特権だった。
その特権を剥奪されたレオニスは――
この家でさえ、自分がただの「雇用主」になったことに、まだ気づいていなかった。
レオニスはいつもより早く席に着いていた。昨夜、回廊で見たエステルの「氷の微笑」が、棘のように胸に残っていたからだ。
謝るつもりはない。――ただ、機嫌を損ねているなら、言葉を少し与えれば元に戻る。そういう確信が、彼の中には当然のようにあった。
だが、扉が開いた瞬間、その確信は音を立てて崩れた。
「おはようございます、閣下。昨夜は、よくお休みになれましたか」
エステルは非の打ちどころのないドレスをまとい、完璧なカーテシーを落とした。
美しい。けれど――声に、柔らかさがない。レオニスの心に触れる温度が、きれいさっぱり消えている。
「……ああ。エステル、昨夜のことだが」
「お食事を始めましょう。閣下は本日、軍部との会合がおありでしたわね」
謝罪とも言い訳ともつかない言葉を、彼女は流れるように遮った。
“遮った”のに、失礼さはない。礼儀が完璧すぎて、反論の糸口がない。
給仕が運んできたのは、レオニスの好物――キノコのポタージュ。
一口含み、レオニスは思わずスプーンを止めた。
「……冷めているな」
いつもなら、エステルは彼が席に着く時刻を読み、厨房に指示を出し、火傷しそうな温度で供していた。
だが今、目の前のスープは――形式どおりに運ばれた料理でしかない。
「左様でございますか。料理長には時刻どおりに供するよう申し付けております。ただ、閣下の着席が三分ほど遅れましたから……温め直させましょうか」
「いや、いい……。それより今日の予定だ」
「予定表は、そちらのサイドボードに。執事を通じ、すでに秘書官へも共有済みです」
エステルは一度も目を合わせない。
以前なら、予定を確認するふりをして「明日はお休みになれますか」と、恥じらいながらも必死に彼を見上げてきた。
今、ティーカップを眺めるその瞳は、静止した湖面のように無機質だった。
「エステル。君、昨日から少しおかしいぞ。ネクタイも今日は執事が選んだものだ。君が選ぶと言っていたはずだろう」
苛立ちが、声に混ざる。
エステルはようやく顔を上げた。そこにあったのは――訓練された貴婦人の、完璧な笑み。
「ええ。閣下は以前、私が選ぶ色について『君の好みは私の品格には幼い』とおっしゃいましたわね。ですから、より専門的な審美眼を持つ執事に任せることにいたしました」
一拍。
「……どうぞお気遣いなく。閣下に相応しい装いになるよう、私からも厳命してありますわ」
「それは……あれは、ただの助言で――」
「左様でございますか。助言を忠実に守るのが、公爵夫人の務めですから」
棘はない。
けれど、その無棘が、レオニスには恐ろしかった。
彼女は怒っているのではない。
ただ――彼に心を砕くことを、やめただけなのだ。
食事が終わると、エステルは音もなく席を立った。
「お待ちください、閣下。本日、クラリス夫人からお手紙が届いておりました。昨夜の続きをお話しになりたいとのこと」
さらり、と。
「午後は公務に余裕がございますので、こちらへお招きしてもよろしいでしょうか。最高の茶葉と菓子を用意させますわ」
「何を……!」
レオニスは椅子を強く鳴らして立ち上がった。
「君は、私が彼女と会うのが嫌だったんじゃないのか?」
エステルは心底不思議そうに首を傾げる。
「嫌……? いいえ、まさか」
その声色が、あまりにも澄んでいる。
「閣下がお望みの女性が隣にいることは、公爵家の繁栄にも繋がります。私は『公爵夫人』として、閣下の理想を叶えるお手伝いをするだけです」
微笑んだまま、はっきりと告げる。
「嫉妬などという醜い感情で、閣下の手を煩わせるようなことはいたしません」
そう言って、彼女は優雅に扉へ向かった。
近づかない。触れさせない。――完璧な距離だけを残して。
「エステル!」
「お引き止めは、どうぞお気遣いなく」
振り返らない。
「これから領地の会計報告を精査いたしますので。……ああ、今夜の夕食ですが、私は書斎で頂きます。閣下はどうぞ、ご自由になさってください」
バタン。
静かに扉が閉じる。
残されたのは、冷めたスープの残りと、これまでに感じたことのない深い孤独だけだった。
見えない壁。
昨日まで、その壁の内側へ自分を入れてくれていたのは、エステルの「愛」という名の特権だった。
その特権を剥奪されたレオニスは――
この家でさえ、自分がただの「雇用主」になったことに、まだ気づいていなかった。
あなたにおすすめの小説
【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない
くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、
軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。
言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。
――そして初めて、夫は気づく。
自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。
一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、
「必要とされる存在」として歩き始めていた。
去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。
これは、失ってから愛に気づいた男と、
二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。
――今さら、遅いのです。
『紅茶の香りが消えた午後に』
柴田はつみ
恋愛
穏やかで控えめな公爵令嬢リディアの唯一の楽しみは、幼なじみの公爵アーヴィンと過ごす午後の茶会だった。
けれど、近隣に越してきた伯爵令嬢ミレーユが明るく距離を詰めてくるたび、二人の時間は少しずつ失われていく。
誤解と沈黙、そして抑えた想いの裏で、すれ違う恋の行方は——。
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫」と笑った夫。~王宮から私が去ったあと「愛していた」と泣きついても、もう手遅れです~
水上
恋愛
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫だ」
夫である王太子はそう笑い、泣き真似が得意な見習い令嬢ばかりを優先した。
王太子妃セシリアは、怒り狂うこともなく、静かに心を閉ざす。
「左様でございますか」
彼女は夫への期待というノイズを遮断し、離縁の準備を始めた。
幼馴染しか見えない婚約者と白い結婚したので、夜明け前にさよならしました
ゆぷしろん
恋愛
公爵令嬢レティシアは、家同士の都合で伯爵アルフレッドに嫁ぐ。
けれど夫は結婚後もずっと幼馴染のシルヴィばかりを優先し、婚礼の夜から夫婦として触れ合おうともしなかった。名ばかりの妻として伯爵家を支え、領地経営まで立て直しても、彼にとってレティシアは“都合のいい伯爵夫人”でしかない。
やがて結婚一周年の夜、アルフレッドが自分を手放す気はない一方で、幼馴染を屋敷に迎え入れようとしている会話を聞いてしまったレティシアは、ついに決意する。
――もう、この結婚には見切りをつけよう。
夜明け前、彼女は離縁の準備を整え、伯爵邸を出奔。
身を寄せた北の港町で薬舗を手伝いながら、自分の力で生きる穏やかな日々を手に入れていく。そこで出会ったのは、身分ではなく一人の女性として彼女を尊重してくれる青年医師ノアだった。
一方、都合よく尽くしてくれる妻を失ったアルフレッドは、ようやく自分が何を失ったのかを思い知ることになる。
幼馴染ばかりを優先する婚約者との白い結婚に終止符を打ち、傷ついた公爵令嬢が新天地で本当の幸せを掴む、離縁から始まる逆転ラブストーリー。
旦那様は離縁をお望みでしょうか
村上かおり
恋愛
ルーベンス子爵家の三女、バーバラはアルトワイス伯爵家の次男であるリカルドと22歳の時に結婚した。
けれど最初の顔合わせの時から、リカルドは不機嫌丸出しで、王都に来てもバーバラを家に一人残して帰ってくる事もなかった。
バーバラは行き遅れと言われていた自分との政略結婚が気に入らないだろうと思いつつも、いずれはリカルドともいい関係を築けるのではないかと待ち続けていたが。
ため息ひとつ――王宮に散る花びらのように
柴田はつみ
恋愛
「離縁を、お願いしたいのです」
笑顔で、震えずに、エレナはそう言った。
夫は言葉を失った。泣いてくれれば、怒ってくれれば、まだ受け止め方があった。しかしあの静けさは、エレナがもう十分に泣き終わった後の顔だと、ヴィクトルにはわかった。
幼なじみと結ばれた三年間。すれ違いは静かに始まり、深紅のドレスの令嬢によって加速した。ため息を飲み込み、完璧な微笑みを保ち続けた公爵夫人が、最後に選んだのは――。
王宮に散る花びらのような、夫婦の崩壊と再生の物語。