あなたへの愛を捨てた日

柴田はつみ

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第II章:『冷えたスープと、見えない壁』

翌朝、公爵邸のダイニングルームには、重い静寂が澱んでいた。

レオニスはいつもより早く席に着いていた。昨夜、回廊で見たエステルの「氷の微笑」が、棘のように胸に残っていたからだ。
謝るつもりはない。――ただ、機嫌を損ねているなら、言葉を少し与えれば元に戻る。そういう確信が、彼の中には当然のようにあった。

だが、扉が開いた瞬間、その確信は音を立てて崩れた。

「おはようございます、閣下。昨夜は、よくお休みになれましたか」

エステルは非の打ちどころのないドレスをまとい、完璧なカーテシーを落とした。
美しい。けれど――声に、柔らかさがない。レオニスの心に触れる温度が、きれいさっぱり消えている。

「……ああ。エステル、昨夜のことだが」

「お食事を始めましょう。閣下は本日、軍部との会合がおありでしたわね」

謝罪とも言い訳ともつかない言葉を、彼女は流れるように遮った。
“遮った”のに、失礼さはない。礼儀が完璧すぎて、反論の糸口がない。

給仕が運んできたのは、レオニスの好物――キノコのポタージュ。
一口含み、レオニスは思わずスプーンを止めた。

「……冷めているな」

いつもなら、エステルは彼が席に着く時刻を読み、厨房に指示を出し、火傷しそうな温度で供していた。
だが今、目の前のスープは――形式どおりに運ばれた料理でしかない。

「左様でございますか。料理長には時刻どおりに供するよう申し付けております。ただ、閣下の着席が三分ほど遅れましたから……温め直させましょうか」

「いや、いい……。それより今日の予定だ」

「予定表は、そちらのサイドボードに。執事を通じ、すでに秘書官へも共有済みです」

エステルは一度も目を合わせない。
以前なら、予定を確認するふりをして「明日はお休みになれますか」と、恥じらいながらも必死に彼を見上げてきた。
今、ティーカップを眺めるその瞳は、静止した湖面のように無機質だった。

「エステル。君、昨日から少しおかしいぞ。ネクタイも今日は執事が選んだものだ。君が選ぶと言っていたはずだろう」

苛立ちが、声に混ざる。
エステルはようやく顔を上げた。そこにあったのは――訓練された貴婦人の、完璧な笑み。

「ええ。閣下は以前、私が選ぶ色について『君の好みは私の品格には幼い』とおっしゃいましたわね。ですから、より専門的な審美眼を持つ執事に任せることにいたしました」

一拍。

「……どうぞお気遣いなく。閣下に相応しい装いになるよう、私からも厳命してありますわ」

「それは……あれは、ただの助言で――」

「左様でございますか。助言を忠実に守るのが、公爵夫人の務めですから」

棘はない。
けれど、その無棘が、レオニスには恐ろしかった。

彼女は怒っているのではない。
ただ――彼に心を砕くことを、やめただけなのだ。

食事が終わると、エステルは音もなく席を立った。

「お待ちください、閣下。本日、クラリス夫人からお手紙が届いておりました。昨夜の続きをお話しになりたいとのこと」

さらり、と。

「午後は公務に余裕がございますので、こちらへお招きしてもよろしいでしょうか。最高の茶葉と菓子を用意させますわ」

「何を……!」

レオニスは椅子を強く鳴らして立ち上がった。

「君は、私が彼女と会うのが嫌だったんじゃないのか?」

エステルは心底不思議そうに首を傾げる。

「嫌……? いいえ、まさか」

その声色が、あまりにも澄んでいる。

「閣下がお望みの女性が隣にいることは、公爵家の繁栄にも繋がります。私は『公爵夫人』として、閣下の理想を叶えるお手伝いをするだけです」

微笑んだまま、はっきりと告げる。

「嫉妬などという醜い感情で、閣下の手を煩わせるようなことはいたしません」

そう言って、彼女は優雅に扉へ向かった。
近づかない。触れさせない。――完璧な距離だけを残して。

「エステル!」

「お引き止めは、どうぞお気遣いなく」

振り返らない。

「これから領地の会計報告を精査いたしますので。……ああ、今夜の夕食ですが、私は書斎で頂きます。閣下はどうぞ、ご自由になさってください」

バタン。
静かに扉が閉じる。

残されたのは、冷めたスープの残りと、これまでに感じたことのない深い孤独だけだった。

見えない壁。
昨日まで、その壁の内側へ自分を入れてくれていたのは、エステルの「愛」という名の特権だった。

その特権を剥奪されたレオニスは――
この家でさえ、自分がただの「雇用主」になったことに、まだ気づいていなかった。

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