あなたへの愛を捨てた日

柴田はつみ

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第III章:『氷の女神の社交場』

王城の祝宴は、本来なら公爵家が「完璧な番(つがい)」を披露するための舞台だった。
――そう、本来なら。

大広間にエステルが現れた瞬間、貴族たちの視線がいっせいに吸い寄せられ、同時にレオニスの心臓が冷たい手で握りつぶされた。

彼女がまとっていたのは、月光の滴(しずく)を織り上げたような銀のドレス。
冷ややかで、凛として、触れたら指が切れそうな美しさ。

かつてのエステルは、常にレオニスの瞳の色、あるいは公爵家の紋章に調和する装いを選んだ。
自分は彼の隣を飾る最上の一部品である――そう信じ、誇っていたからだ。

だが今夜の彼女は違う。
誰の色にも染まらない。誰の影にもならない。
ただ一人の女性として、圧倒的な存在感を放っていた。

「……あの方が、エステル夫人か? まるで別人だ」
「以前はもっと……控えめな方だったはずだが」

さざめく賞賛の中、エステルはレオニスの三歩後ろではなく、堂々と横を、時に半歩先を歩いた。

レオニスが慣習どおり差し出した腕を、彼女は扇をひらく優雅な所作で、するりと躱(かわ)す。

「……エステル。腕を取らないのか」

低い囁きには苛立ちが混じる。
エステルは歩みを止めず、前を向いたまま微笑んだ。艶やかに、しかし温度はない。

「エスコートなら、どうぞお気遣いなく。閣下のお隣を歩くのに、もう支えは必要ございませんので」

それから視線だけで、会場の隅に控えめに立つ未亡人クラリスを示す。

「それより……あちらでクラリス夫人が心細そうになさっていますわ。閣下が望まれた『自立した女性』といえど、こうした場では殿方の助けが必要なのではなくて?」

「私は君と一緒に来た。君が隣にいるべきだろう」

かつてなら、それは義務として吐いた言葉だった。
だが今夜のそれは――わずかに、縋(すが)る響きを含んでいる。

「『べき』、ですか」

エステルの瞳が一瞬だけ鋭く光る。

「閣下のお好きな言葉ですわね。ですが困りますの。今日は多くの方からお話を伺いたいのです」

扇を閉じ、柔らかな口調のまま断ち切る。

「形だけの夫婦仲をこれ見よがしに並べて、皆さまとの交流を妨げたくありませんから」

そして、迷いなく――レオニスを置き去りにして人込みへ消えた。

驚いたのは社交界だ。
これまでのエステルは、レオニスが談笑する間、一歩下がって微笑むだけの「公爵家の影」だった。
だが今の彼女は、隣国の特使や若手官僚たちと対等に渡り合い、時に鋭いウィットで彼らを笑わせ、黙らせ、感服させている。

「公爵夫人に、あのような慧眼(けいがん)が……」
「レオニス殿は、実にもったいないことをしていたものだ」

称賛の声は、レオニスの耳に毒のように刺さる。
耐えきれず、彼は談笑の輪へ踏み込んだ。

「エステル。次のダンスは私と――」

「あら、閣下」

エステルは隣の伯爵令息との会話を途切れさせないまま、冷ややかな一瞥だけを寄越す。

「次の曲も、その次も予約で埋まっておりますの。……どうぞお気遣いなく」

微笑みは美しい。だからこそ、残酷だった。

「閣下はあちらの回廊で、お好きな方と語らってらしてはいかが? 昨晩のように。素敵な『囁き』を交わすには、絶好の場所ですわよ」

その瞬間、レオニスの顔から血の気が引いた。
昨夜の回廊。
クラリスに告げた、あの致命的な言葉。
――彼女は、すべて聞いていた。

レオニスが何か言う前に、エステルは軽やかに背を向けた。
銀のドレスの裾が翻り、その軌跡が彼との間に修復不可能な境界線を引いていく。

「さあ、参りましょうか」

他の男の手を取り、ダンスホールへと向かうエステルの後ろ姿。
その背中は、かつて彼が「重い」と疎んだ献身をすべて脱ぎ捨て、誰の手にも届かない高みに立っていた。

レオニスは華やかな音楽の真ん中で、凍りつくような孤独に取り残される。

彼がクラリスに告げた――「君のような女性が隣にいるべきだ」という言葉。
その理想を、今、エステルは残酷なほど完璧に体現してみせている。


「彼は初めて悟った。――隣にいるべきだったのは、彼女ではない。隣にいさせてもらっていたのは、自分だったのだと。」

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