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第IV章:『贈り物とゴミ箱』
夜会の翌日。
公爵邸の執務室でレオニスは、机に広げた宝飾品のカタログを苦々しく睨んでいた。
昨夜、他の男の手を取り、誇り高く踊っていたエステルの姿が離れない。
彼女が放っていたのは――愛ゆえの従順な輝きではない。自分を切り捨てた者だけが持つ、残酷な自立の光だった。
(……機嫌を直させなければ)
(あれは、ただの嫉妬だ。女は贈り物さえあれば、すぐに戻る)
自分に言い聞かせ、レオニスは王家御用達の宝飾店に特注した品を運ばせた。
最高級のブルーダイヤモンド。エステルの瞳の色とは違う。だが、今の彼女が纏う氷の空気には、これほど似合う石もない。
彼は予告なしに、エステルの執務室へ足を向けた。
「エステル。少し時間があるか」
以前なら、彼の姿だけで彼女は弾かれたように立ち上がり、顔を輝かせたはずだ。
だがエステルは羽ペンを止めない。
「閣下。アポイントのない訪問はご遠慮くださいと、侍女にお伝えしたはずですが。いま、領地の会計監査の最中です」
「……すぐに済む。昨夜の労いだ。これを受け取ってくれ」
レオニスは、ベルベットの小箱を差し出した。自信を込めて。
エステルはようやく顔を上げ、箱を開く。
青い閃光が室内を走った。息を呑むほどの至宝。
――だが。
彼女は一瞥しただけで、ぱちん、と音を立てて蓋を閉じた。
「あら、ご丁寧に。どうぞ、お気遣いなく」
「……それだけか。気に入らなかったのか」
「いえ、素晴らしい資産価値ですわ」
淡々と、数字を見る目で言う。
「北部の領地で冷害が続き、支援金が不足しておりましたの。これほどの石なら、村ひとつ分の冬支度が賄えます。早速、換金手続きをいたしますわ」
レオニスは絶句した。
「……これは君への贈り物だ。換金するためじゃない。君の首元を飾るために――」
「装飾品なら、公爵夫人の務めに必要な分だけ揃っております」
エステルは静かに言い切り、視線を部屋の隅へ滑らせる。
大きなゴミ箱。そこには今朝届けさせた深紅の薔薇の花束が、無残に突っ込まれていた。
「薔薇は数日で枯れて、ゴミになりますわ。お手入れをする使用人の手間も増えます。これからは、あのような浪費も――どうぞお気遣いなく」
笑みすら浮かべず、さらに続ける。
「私への『配慮』という不確かなものより、数字で表せる『資産』を回していただけるほうが、公爵家の役に立ちますから」
「エステル……君は、私を試しているのか? それとも復讐のつもりか」
屈辱で、レオニスの声が低く震える。
エステルはようやく机から離れた。
優雅に近づき、微笑む。だがそれは“甘い妻”の笑みではない。契約相手に向ける、有能なビジネスパートナーの笑みだった。
「復讐だなんて……そんな情熱的な感情、もう持ち合わせておりませんわ」
一拍置く。
「ただ、閣下の望みを叶えているだけです」
そして、告げる。
「……昨夜、クラリス夫人に囁いておられたでしょう。『ただ縋るだけではない、自立した女性が隣にいるべきだ』と」
エステルはレオニスの胸元に指先を添えた。
触れられているのに、彼は氷を当てられたように感じる。
「ご覧ください。今の私は、あなたに媚びず、あなたの贈り物に心を動かされず、ただ職務を全うする『自立した妻』です」
微笑みのまま、刃を差し込む。
「……理想どおりでしょう? ならば、これ以上何を不満にお思いなのですか?」
「……そんな、心を殺したような姿を望んだわけでは……!」
「いいえ」
エステルの声音が、初めて僅かに沈む。
「あなたが殺したのですわ、レオニス様」
初めて名を呼ばれたのに、そこに親愛は一滴もない。
「私があなたを愛していた『エステル』を、あの回廊で――あなたが殺したの」
静かに、確定させる。
「今ここにいるのは、あなたが望んだ“ガワ(役割)”だけの公爵夫人。……どうぞ、これからはお互い、役割にのみ忠実でいましょう」
背を向け、席へ戻る。
「そこに心などという曖昧なものを持ち込むのは――お互いのための、無駄な『お気遣い』ですわ」
ペンが走り始める。
紙の擦れる音だけが、部屋に残った。
レオニスは、自分の足元に落ちた見えない鏡の破片が、心を切り刻む音を聞いた気がした。
彼が彼女に与えていたのは、愛ではない。
教育という名の否定だった。
そして、彼女が与えてくれていたのは――義務ではなく、愛という名の奇跡だった。
奇跡は、捨てた瞬間に戻らない。――その当たり前を、彼は今さら知った。
公爵邸の執務室でレオニスは、机に広げた宝飾品のカタログを苦々しく睨んでいた。
昨夜、他の男の手を取り、誇り高く踊っていたエステルの姿が離れない。
彼女が放っていたのは――愛ゆえの従順な輝きではない。自分を切り捨てた者だけが持つ、残酷な自立の光だった。
(……機嫌を直させなければ)
(あれは、ただの嫉妬だ。女は贈り物さえあれば、すぐに戻る)
自分に言い聞かせ、レオニスは王家御用達の宝飾店に特注した品を運ばせた。
最高級のブルーダイヤモンド。エステルの瞳の色とは違う。だが、今の彼女が纏う氷の空気には、これほど似合う石もない。
彼は予告なしに、エステルの執務室へ足を向けた。
「エステル。少し時間があるか」
以前なら、彼の姿だけで彼女は弾かれたように立ち上がり、顔を輝かせたはずだ。
だがエステルは羽ペンを止めない。
「閣下。アポイントのない訪問はご遠慮くださいと、侍女にお伝えしたはずですが。いま、領地の会計監査の最中です」
「……すぐに済む。昨夜の労いだ。これを受け取ってくれ」
レオニスは、ベルベットの小箱を差し出した。自信を込めて。
エステルはようやく顔を上げ、箱を開く。
青い閃光が室内を走った。息を呑むほどの至宝。
――だが。
彼女は一瞥しただけで、ぱちん、と音を立てて蓋を閉じた。
「あら、ご丁寧に。どうぞ、お気遣いなく」
「……それだけか。気に入らなかったのか」
「いえ、素晴らしい資産価値ですわ」
淡々と、数字を見る目で言う。
「北部の領地で冷害が続き、支援金が不足しておりましたの。これほどの石なら、村ひとつ分の冬支度が賄えます。早速、換金手続きをいたしますわ」
レオニスは絶句した。
「……これは君への贈り物だ。換金するためじゃない。君の首元を飾るために――」
「装飾品なら、公爵夫人の務めに必要な分だけ揃っております」
エステルは静かに言い切り、視線を部屋の隅へ滑らせる。
大きなゴミ箱。そこには今朝届けさせた深紅の薔薇の花束が、無残に突っ込まれていた。
「薔薇は数日で枯れて、ゴミになりますわ。お手入れをする使用人の手間も増えます。これからは、あのような浪費も――どうぞお気遣いなく」
笑みすら浮かべず、さらに続ける。
「私への『配慮』という不確かなものより、数字で表せる『資産』を回していただけるほうが、公爵家の役に立ちますから」
「エステル……君は、私を試しているのか? それとも復讐のつもりか」
屈辱で、レオニスの声が低く震える。
エステルはようやく机から離れた。
優雅に近づき、微笑む。だがそれは“甘い妻”の笑みではない。契約相手に向ける、有能なビジネスパートナーの笑みだった。
「復讐だなんて……そんな情熱的な感情、もう持ち合わせておりませんわ」
一拍置く。
「ただ、閣下の望みを叶えているだけです」
そして、告げる。
「……昨夜、クラリス夫人に囁いておられたでしょう。『ただ縋るだけではない、自立した女性が隣にいるべきだ』と」
エステルはレオニスの胸元に指先を添えた。
触れられているのに、彼は氷を当てられたように感じる。
「ご覧ください。今の私は、あなたに媚びず、あなたの贈り物に心を動かされず、ただ職務を全うする『自立した妻』です」
微笑みのまま、刃を差し込む。
「……理想どおりでしょう? ならば、これ以上何を不満にお思いなのですか?」
「……そんな、心を殺したような姿を望んだわけでは……!」
「いいえ」
エステルの声音が、初めて僅かに沈む。
「あなたが殺したのですわ、レオニス様」
初めて名を呼ばれたのに、そこに親愛は一滴もない。
「私があなたを愛していた『エステル』を、あの回廊で――あなたが殺したの」
静かに、確定させる。
「今ここにいるのは、あなたが望んだ“ガワ(役割)”だけの公爵夫人。……どうぞ、これからはお互い、役割にのみ忠実でいましょう」
背を向け、席へ戻る。
「そこに心などという曖昧なものを持ち込むのは――お互いのための、無駄な『お気遣い』ですわ」
ペンが走り始める。
紙の擦れる音だけが、部屋に残った。
レオニスは、自分の足元に落ちた見えない鏡の破片が、心を切り刻む音を聞いた気がした。
彼が彼女に与えていたのは、愛ではない。
教育という名の否定だった。
そして、彼女が与えてくれていたのは――義務ではなく、愛という名の奇跡だった。
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